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春の夜に蘇る秘密

第1話 夜道に響いた不思議な声

どこにでもいるアラサー主婦、青木うるみの家は、その日も夕食の温かな匂いに包まれていた。湯気の立つ味噌汁、焼き魚の香ばしさ、食卓を囲む家族の笑い声。六歳の長男・一樹と四歳の娘・美桜は無邪気にじゃれ合い、真面目一筋の夫・達彦は、テレビに映るバラエティ番組に小さく笑みを浮かべている。

ありふれた、どこにでもある夜だった。

そのとき、うるみはふと窓の外へ視線を向けた。まるで何かに呼ばれたかのように、ゆっくりと立ち上がる。

「……ちょっと用事ができたから、出かけるね」

静かな声だった。

しかし、誰も反応しない。一樹は笑い続け、美桜はスプーンを鳴らし、達彦はテレビから目を離さない。まるで、その言葉が最初から存在しなかったかのように。

奇妙な沈黙の中で、うるみは玄関へ向かい、そっと扉を開けた。夜の空気はひどく冷たく、どこか知らない匂いがした。そして彼女は、何の迷いもなく外へと消えていった。
誰にも気づかれないまま。
 
 うるみはゆっくりと階段を降り、マンションの一階へ出た。エントランスの自動ドアが静かに開き、夜の空気が頬に触れる。外は妙に静かだった。遠くで車の走る音がかすかに聞こえるだけで、街の気配は薄く、どこか現実味を失っている。彼女は足を止め、振り返った。
先ほどまでいた自宅の窓を、曇ったような目で見上げる。

――何かがあった。嫌な記憶。胸の奥がざわつくような、消してしまいたい何か。

だが、それが何なのか思い出せない。思い出そうとするたびに、記憶は指の隙間からこぼれ落ちる砂のように形を失っていく。うるみはその場に立ち尽くした。
そのときだった。
「うるみ、待ってたよ!早く行こうぜ!」明るく、場違いなほど軽い声が夜を破った。 
振り向くと、そこには派手な色のジャケットに大きなアクセサリーを揺らした女性が立っていた。強い香水の匂いが風に乗って漂う。年齢は同じくらいだろうか。
だが、落ち着いた服装のうるみとはまるで正反対の雰囲気だった。
――知らない人。

そう思ったはずなのに、次の瞬間、口が勝手に動いた。
「ごめん、待った!?……あいか」
名前は、迷いなく出ていた。まるでずっと前から知っていたかのように。

「みんな、待ってるぜ! じゃ、行くぞ。いつものところ!」
あいかはそう言うと、迷いのない手つきでうるみの手首をつかんだ。
その力は思ったより強く、拒もうとすればできたはずなのに、うるみはなぜか逆らう気になれなかった。
二人は並んで歩き出す。夜の住宅街は静まり返っていた。街灯の光が一定の間隔で地面に落ち、影が長く伸びては消えていく。
見覚えのない道だった。曲がる角も、通り過ぎる家々も、すべてが初めて見る景色のはずだった。

――なのに、不思議と怖くない。

胸の奥にあるはずの警戒心が、まるで誰かに取り除かれてしまったかのように静まり返っている。ただ、足だけが自然に前へ進んでいく。
やがて、二人は一軒の豪邸の前で足を止めた。重厚な鉄の門。広く手入れされた庭。
大きな窓からは暖かな灯りが漏れている。
こんな家、この街にあっただろうか。うるみが戸惑うように立ち尽くしていると、あいかが振り返り、ニヤリと笑った。
「何しけたツラしてんだよォー。久々のみつば会だぜ? 楽しまなきゃ損だろ」
背中をポン、と軽く叩かれる。

――みつば会。

聞いたことがない言葉のはずなのに、胸の奥で何かがざわめいた。思い出せそうで、思い出せない。まるで夢の中で見た景色のように、曖昧な感覚だけが残る。
「あ、あの……みつば会って……?」
そう口に出しかけた瞬間、あいかはうるみの腕をぐいっと引いた。
「ほら、もう始まってるって」
重たい扉が開く。
暖かな光と、人の気配と、そしてどこか懐かしい笑い声が、うるみを包み込んだ。逃げようとは思わなかった。
なぜなら――
ここに来ることは、最初から決まっていた気がしたからだ。

豪邸の重厚な扉が、低く軋む音を立てて開いた。

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