夏の読書会×3(その1 ミステリー特集)
7、8月は読書会が3回ありました。
オンライン編
・夏のミステリー特集
京都芸術大学のOBで定期開催しているZoom読書会です。
今回はミステリー特集ということで、廣野由美子『ミステリーの人間学』(2009年)を軸に、ジャンルの歴史概論が行われました。
近代的な推理小説の始まりとされるのは、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」(1841年)。
この時代、警察制度や科学捜査がまだ確立しておらず、謎を解く主人公は警察官ではなく私人のデュパン。

炯眼をもって鳴るパリ警視庁だが、せいぜい目端が利くというだけさ。やることに方法論がない。場当たりなのだね。
たしかに警察が意外な手柄を立てることもあるが、まずは懸命に頑張った結果でしかあるまい。頑張ってだめだと、どうしようもなくなる。
やはり現場へ行って、この目で見てみよう。警視庁のG総監とは知り合いだから、しかるべき許可も出るはずだ」
その許可が下りて、私たちはモルグ街へ急いだ。
警察が解決できない難事件を天才的な個人が解き明かす、
「卓越した個人の能力が警察組織を上回る」
という構図。推理小説は探偵が事件を解決するフォーマットの方が先にできていて、警察が主人公になるのは後になってからです。
なので現場に立ち入れる緩めの展開、秒で許可が下りる。
日本では少し事情が違っていて、近代的な警察制度が整備された後に、欧米で成立した探偵小説が輸入されました。
だから日本を舞台にすると、「殺人事件なのに、なぜ民間人が捜査しているのか」という違和感が生じるw
素人探偵に警察が捜査情報を教える推理ドラマではおなじみの光景は、昔に輸入された様式美の名残としていまだに続いていますね。
・推理小説と近代化
「殺人」は古来から物語で扱われているテーマにも関わらず、推理小説のかたちになるのが19世紀以降。「それってけっこう遅いな」という印象もあります。
それまでの殺人事件は、怪奇現象によって引き起こされる「ホラー」や、因果応報、血縁による争いなどの「人間ドラマ」が主題となり、犯人を推理するパズルゲーム的なジャンルはまだありませんでした。
「モルグ街の殺人」はアメリカ人作家のポーがパリを舞台にしています。
読書会では、「アメリカの田舎では成立しないからパリを舞台としたのでは」とか。都市化が進まないと探偵小説は成立しづらい。
都市は、
・知らない人間同士が隣り合って暮らす
・人口が多すぎて全員の素性が分からない
・現象には「迷信」ではなく「合理的説明」が求められる
小さな共同体なら「村の誰々が殺された」という事件は共同体全体の問題になりますが、大都市では匿名の人間が匿名の人間を殺すことが可能になります。
だから探偵は、共同体の因習や人間関係ではなく「証拠」から事件を推理することになります。

事件や犯人と直接関わりのある素人が他者を追いつめその罪状を暴き立てると、どういうことになるか。シェイクスピアの悲劇の主人公ハムレットは、先代の王たる自分の父を殺した犯人が、叔父クローディアスであるという秘密を暴くが、それを察知したクローディアスに命をねらわれることになり、復讐を遂げると同時に自ら非業の死を遂げる。
人を呪わば穴二つというわけで、他人の罪を暴く者は自らも破滅に陥る危険に晒される。かりに危険から逃れたとしても、その経験を経ることによって、自ら大きな変容を余儀なくされるのである。
ところが、他人をとことん追いつめつつ自らはまったく無傷であるということを可能たらしめる文学上の装置が考案された。秘密を暴くという役割を職として担う者(あるいはそれに準ずる第三者)、つまり、「探偵」を物語の主人公として設定するというアイデアである。
ちなみに「モルグ街の殺人」って、世界最初の推理小説なのに、いきなり犯人が人間ではないというところが面白いですね。
そういうひねりはもっと成熟してから発生しそうなのに、初手からやるw
自分はフランス象徴主義の画家オディロン・ルドンのレポートを書くときに、美術史の側からポーを調べていましたが、三つの分野において先駆的な役割を果たした作家として有名です。
・短編小説を確立した一人(短編を一つの文学ジャンルとして体系化)
・世界初の推理小説(「モルグ街の殺人」)
・幻想文学の先駆者
論理と幻想の境界にいる人、という感じ。

ルドンはポーの書いた精神的な世界と共振して、自らの想像の世界を展開しました。
ルドンから見たポーは「スピ側」の人。論理構築が必要な推理小説とは対極のイメージにあるのが興味深いです。
・「犯人はオマエだ」の誕生
都市化によって、超常現象から人の問題へ。「犯人はオマエだ」の誕生です。これって民俗学的な経緯と同じだなとも思います。
かつて人間は、自然災害や疫病など、自分たちにはどうすることもできない力によって身近な人の命を奪われてきました。
なぜこの人が死ななければならなかったのか。その理由が分からないとき、妖怪や幽霊、祟りといった怪奇現象が、理不尽を受け入れるためのナラティブとして機能しました。
考えてみれば奇妙なことで、説明できない出来事を理解するために、妖怪や超常的な事象という、さらに説明できない存在を持ち出してます。
不合理を不合理によって説明しているというか。それでも「何の理由もなく起きた」と考えるより、「なにかの仕業である」と物語にした方が、出来事を受け入れやすかったのでしょう。
でも近代化によって防災が進み、医学が発達し、疫病にも原因と対策が見つかる。それまで運命として受け入れていた出来事が、管理する対象となっていきます。
すると、なぜ起きたのかという問いは人間へ向かうことになります。
堤防が決壊すれば行政の整備に問題はなかったのか。患者が亡くなれば医師の判断は適切だったのか。妖怪や祟りが背負っていた理不尽の原因を、近代になると人間が背負うようになってきました。
養老孟司も『唯脳論』で都市化について論じ、人の関心が自然ではなく人へと向かいすぎると、それまで天災だったものが人災として捉えられるようになる、という趣旨のことを書いていました。
世の中全体が「犯人はオマエだ」へシフトしていったと言えるかもしれません。
そう考えると「モルグ街の殺人」は象徴的ですね。
密室で起きた凄惨な殺人という怪奇譚のような状況を、デュパンは超常現象として片付けず、観察と論理によって解き明かしていきます。
しかも推理小説の第一作と呼ばれるような作品なのに、犯人は人間ではなくオランウータン。後世なら変化球になりそうな仕掛けを、ジャンルの出発点でいきなり使っている。
ポーという怪奇と合理の境界にいる人間から推理小説が始まり、そのスタートにおいて「怪奇を合理で解体してみせた」本作。200年近く経った今でも面白いです。
ミシンしごと
このサービス精神のない、素のトートバッグ。


これにポケットをつけていきます


こういうポケットがないトートバッグって、スマホと家の鍵をどうしろというのかw
つづく
