【ショパンの街の少女たち】#18 第二話 ティポラ Typora⑨
「ヴィエリチカ岩塩坑はまだ行ったことがないの。どうだった?」
「不思議なんだ……あそこだけ時が止まっているようだった」
ユリアンは蝋燭の灯に吸い込まれるような瞳で語り始めた。
「窓がない地下をどんどん深く降りていくんだ。巨大な鉱山の大きなトンネルのような、ぱっくり真っ黒の口が開いた中をね。木造の階段で百メートル下へ降りてゆく。観光客には木造の綺麗に造られた階段だけど、炭鉱夫たちは直に掘られたおぼつかない階段を降りてゆく」
「壁には塩が結晶になってブロッコリー状になってるものや、死海より塩度が濃い流水に出くわす。とても飲めたもんじゃなかったよ。時々犬の遠吠えのような音が聞こえてくる。塩を運ぶ押し車が地下で軋む音だ。まだ地下では炭鉱夫が塩を採掘しているから、暗闇から様々な音が聞こえてくるんだ」
「怖かった?」
「皆ちょっとしたアドベンチャー気分だったよ。僕もそう。馬がウィンチを回す音や、遠吠えのような音は、何百年も続いている暗闇の中の『生活音』だ。光もない中をどんどん降りてゆくと、一面塩で造られた礼拝堂が広がっている。」
「昔、炭鉱夫が独学でつくったって聞いたけど……」
「うん、僕は偶像崇拝はよくわからないから、ただずっとずっと昔の炭鉱夫が光もない中で祈りながら掘り続けた礼拝堂の厳かさだけ味わうことにした。死と隣り合わせだからこそ、救いを求めたのかな。全て塩で造られたレリーフはどれも立派だったよ。どこもかしこも岩塩だから、床までも結晶で粒が光ってみえる。窓がない暗闇で、五感だけが頼りの世界だ。空気はひんやりしていて中国の青磁器みたいな美しい塩湖もあった。吸い込まれるような、不思議な色だった」
「……今は、そこは奴らに取られてるのよね。工場になってるって聞いたけれど」
「…………うん」
階下はいつしか静かになった。
何時かはわからないが、人が寝静まるくらいの時間帯であろう。
「僕は今でもね、寝る前なんか特にあの洞窟の中を思い出すよ……地球の内部に入れた時のことを。一生のほとんどの時間を暗闇で過ごす彼らは、どんな気持ちだったんだろう。地上で生きる人間の時間と、地球の時間の長さは全く異なるものなんだって、その時思った」
ティポラは、何故この少年に惹かれたのかが少しわかった気がした。
彼のみる世界は結晶の中のように幾重にも反射しつつも、どこまでも深淵なところだ。墓地を好む子供なんてまずいないのだもの。
「行ってみたいな……けど、関所恐怖症だからちょっと怖いかも」
「ええっ、君、狭いところが苦手なの?それでよく仕事してるなあ」
「我慢よ。報酬は我慢代っていうでしょ?でも不思議よね。その岩塩たちはあたしたちがギリギリで生きてても何年も何百年もそのまんま。虫や花だってそうよね、彼らには彼の時間がある。戦争なんて関係ない」
「うん、関係ない。だから奴らが去った後にもう一度行ってみたい。変わらないものと変わってゆく自分たちをどう説明すればしっくりくる言葉がみつかるのか」
ティポラはぷっと笑った。
「あなたって不思議ね、ユリアン。いつもそんなことを考えてるの?おじいちゃんみたい」
「いつもじゃないよ。大抵いつもは捕まらないかヒヤヒヤしてる」
「あはは、そうね、私も」
一瞬沈黙になった時、ユリアンが現実に戻る呪文を告げた。
ティポラは頷いて、蝋燭を消した。
花や鳥や、雪や雨だって変わらない。
あたしも、彼らみたいになれたらいいのに……
あまりに多くの感情を味わった一日だった。想像以上に疲労していたのだろう。目を瞑るとすぐに意識はなくなった。
再び目を開けた時は、いつもの部屋とは違う光景が広がっていた。
窓は白く光っている。まろやかな光が春の訪れを感じさせる。
明るい場所で周りを見渡すとユリアンは寝床を片付けて姿がなかった。そしてすぐに彼の家の看板が目についた。
白いペンキで流れるように公衆の面前で走り書きされたであろうユダヤの星。
ティポラはこの星を誇らしいとは思えなかった。間違いなく自分たちを表す暗号ではあるが……今は侮蔑といくばくかの古臭さと、恥ずかしさを感じるのだった。
まるで自分が牛や家畜みたいな気持ちになるし、忌むべきものの対象にさえなりうる星。
星というものはそもそもは煌びやかで崇高なものではなかっただろうか。
「おはよう。紅茶を淹れてきた」
ユリアンが寝癖のままドアを開けてカップの湯気と共に入ってきた。
「ありがとう。今何時かしら」
「七時半」
「寝過ぎちゃった、すぐ帰らないと」
淹れてくれた紅茶はティポラの心の渇きをほぐしてくれた。二人とも無言で飲んだ。スカーフを巻いて髪を隠す。その姿をみてはいけないかのようにユリアンは窓の外を眺めていた。
階下に降りて、念の為裏口から出ることにする。
「素敵なお菓子と紅茶をありがとう。バブカもルゲラーも美味しかった。あなたは最高のコックになるわね……ユリアン」
ティポラは改まってお礼を言った。
ユリアンは、しばらく考えた風だったが彼女をみて告げた。
「僕、君のことは忘れない」
その言葉の意味を、ティポラはよくわかっていた。同じ稼業でも、異なるシマの子供同士が仲良くなることは危険で禁止されている。もうこれきり、ということなのだ。
「…………私も」
少年は手を差し出した。
少女はその手を握り返した。
「……生きて。元気で。ティポラ」
「あなたもね。ユリアン。祈ってる」
少女はくるりと回って石畳を駆け出した。
後ろはみちゃダメ。
少年が見送っているであろう姿を想像するとつい振り返りそうになる。喉元がかあっと熱くなった。工場や事務所に出勤してゆく人々の中に紛れて走った。狭い空にはシコルカが飛んでいる。
いつものトラム。いつもの街並み。いつもの、子供たち……
ティポラは嗚咽していた。
なぜ涙が出てくるのかわからなかった。
ただ、いつもの光景にユリアンはいない、という現実に戻ることが悲しかった。
花や鳥にはそれぞれの時間がある。あたしも将来眠りにつくまでの時間がいくばくかはわからないけれど確かにある。なのにその時間の中に彼はいない。まるで透明人間のように、いないことにして過ごさなきゃならない。
ティポラは遠回りすることにした。
橋に上ろう。
ゲットーで唯一造られた橋。
フォドナ街にある高架橋の真下は外界である。両方をゲットーに挟まれており、住人は横切れないので橋が造られた。
その橋から見える光景をゲットーの者の多くが憧れを抱いて眺めた。
すぐ下では「普通の」日常風景が広がり、遠くではヴィスワ河が見える。
悲観的な心持ちでも、橋から見えるヴィスワ河の朝焼けをみると生きる活力が溢れる。生は捨てたものではないと思える。
スカーフはいつしか取れていた。
構わずに欄干に手をつけ俯いて泣いた。
美しい河も、朝日も、空も変わらない。
変わるのは……変わってゆくのは…………
「……お嬢さん?夕べのお嬢さんじゃないか」
後ろで聞き覚えのある声がした。
頬に残る涙の跡を母親のお下がりで拵えたワンピースのぶかぶかの袖で拭く。
「あ……」
振り返ると、昨日見た時より一層顔色が悪そうなイェレン先生が立っていた。
(次回)
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