「羽ころも、春ころも」#22
(画像: ハルビン キタイスカヤ街景 昭和初期 絵葉書 作者所有 ※ロシア人が多く住む満洲国ハルビンは日本、ソ連のスパイ合戦の地であった)
敬介は、日が差さない家と家がおしくらまんじゅうをしているような密集した狭い裏路地を走っていった。
その中でもひときわ小さい平屋の家屋の戸を勢いよく開ける。
「ここですッ、かーちゃん、産婆さん連れてきたよ!」
澟が中を見ると、チャブ台の隣の煎餅布団の上で、髪の乱れた中年の女性が険しい顔をして横たわっている。
破水をしていた。
嫌な予感が当たった。
家は玄関をすぐ入ると、妊婦が寝ている六畳間ほどの板間と押入れ、水場のみである。
日差しが当たらず部屋が暗く、お産の準備さえしていない。
「敬介君、すぐにお湯を沸かして。あと、盥とバケツにお水を汲んでくれるかな」
「わかった!」
澟は手を洗って、すぐに妊婦の診察を始めた。
敬介は玄関そばにある半畳分の、お茶碗やら土鍋やらごちゃごちゃした食器や配給物が散乱してある台所の、かろうじて一基あった小さい釜戸に小枝や松ぼっくり、新聞紙を勢いよく入れた。
手慣れた手つきで、木の皮に硫黄が塗られたものを布団のそばにある火鉢に差し付け火をして、釜戸に入れる。
「お母さん。逢坂といいます。今見たところ、子宮口は八セン……」
と澟が言い終わらないうちに、腹の底から抉られるような衝撃音がし、家中がドド……と揺れた。
近くで落ちたのだ。
「うっ……うううっ…………すみません、産婆さ……ううううー……」
「大丈夫ですか。一緒に落ち着いて産みましょうね」
澟は、この世に神というものがおわすのなら、どうか、どうかこの家だけは爆弾が落ちませんように……と祈った。ああ、結城夫妻と一緒に自分も厄除けのお大師さんに行けばよかった。
陣痛の波が引いた時に、脱脂綿や綿花がどこにあるか尋ねたが、女は哀しそうに首を振るだけだ。
当然だ。足立区では、配給が始まった数年前に月に二、三度の綿花しか配られず、すぐに停止になったとハナから聞いた。
お産で最も深刻に不足しているのは綿花だった。
浴衣や肩当て、晒し、新モスといったあらゆる布を丁寧に洗い、二十センチ位に切って消毒し、分娩中の綿花代用にする産婆が多かった。
澟は出来るだけ清潔な布が何処にあるのか尋ねて、部屋にある布らしい布、不要な紙をたぐり集めた。
本当は消毒が必要なのだ。敬介に頼んで、煮沸してもらうが、小さい土鍋では限られている。
そして、圧倒的に布が足りなかった。
これでは出血や患部を拭くだけですぐ不足してしまう。
ただただ伊織が出来るだけ早く到着しますようにと祈る。
突然、ガラっと勢いよく玄関が開いた。
「旦那様ッ」
と立ち上がると、
「お前ら、非難もせずに何をしとるか━━ッ」
国民服にゲートル姿の初老の男性が、血相を変えて立ちはだかっていた。
警防団員だ。
男は敬介が釜戸で火を焚いているのを見ると、すぐに一発殴った。
「消せッ!阿呆がッ」
そして、目ざとく電灯をつけていることを発見し、猛犬のように澟に向かって怒鳴った。
「場所を知らせているようなもんだッ!早く電灯を消せ━━ッ」
澟ははらわたが煮えくりかえって、玄関口に立った。
「お産が始まっているんですッ!消毒や産湯のためにお湯は絶対必要なんです。これから皇国ために戦う男児が生まれようとしているのに、あなたはそのお子様も、お母様も殺そうとなさるんですかッ」
目を剥き出しにして男に挑みかかった。
引っ叩かれてもいい。
殴られるのは慣れている。
父や遊郭の男たちに叩かれてきたのだ。
本当は生まれてくる子は男の子か女の子かはわからぬのだが。
男は澟の気迫にたじろいだが、すぐに反撃してきた。
「ならせめて避難しろっ」
「出来ません。陣痛中の妊婦さんがいるんです」
「押入れにだッ!壕に入らないのなら、押入れに入れ…………」
と言った瞬間、
ドオオオォォン
と、男の後ろで地震のような衝撃と共に爆風が舞った。
「ひッ…………」
男は怯えつつ、
「いいか、お前ら、こういう目に遭うんだから、早く避難しろッ」
そういうだけ言って、ピシャリと戸を締めて走り去っていった。
「なんなの、あいつッ!こんな真っ昼間のたった一軒の灯りがあったってB29は気づかへんわ!敬介ッ!お湯どんどん沸かしなッ」
「う……うん………おばさん、強いね……」
弱虫め!と澟は自警団やら警防団やらのおせっかいに腹が立った。
しかし妊婦は心配そうに呼吸を乱しながら言った。
「産婆さん……、陣痛の合間は動けますから、押入れに入りましょう」
押入れは想像以上に大きかった。
上段に古い布団が重ねてあり、衝撃のクッションになる。
澟は敬介と共に妊婦の煎餅布団を下段に運び、防空の代わりにした。
その間も近くで爆弾が落ちる衝撃を幾度か受けた。なんと大きい地震か。
戦時中、壕や畳下の避難場所がない家は、押入れがその代わりとなった。しかし、果たしてそれで爆弾や焼夷弾を防ぐことができるのかどうかはわからぬ。ただ一心に落ちてこないように祈るしかない。
澟にとって、押入れは暗すぎるのだ。
お産の肝心の部分が目視しづらい。
「敬介、蝋燭かランプはないかな」
「ごめんなさい。これ……一本しかない」
敬介からもらった蝋燭を立てて、暗い押入れで患部を触診する。
「うっ……うううっ…………」
「大丈夫ですからね。あともう少しの辛抱ですよ」
澟は妊婦の腰をゆっくりさすった。
「産婆さん……っ」
水場から、敬介が声を上げた。
「どうしたの?」
「水が……出ない…………」
(次回)
(マガジン)
