【日めくり天才伝】レフ・トロツキー
革命を勝利させながら、革命国家によって抹殺された思想家
レフ・トロツキー(1879–1940)は、ロシア革命史においてレーニンに次ぐほど大きな役割を果たしながら、その後のソ連では「裏切り者」として歴史から消された人物である。
彼は革命理論家であると同時に、卓越した演説家、文章家、外交官、軍事組織者だった。1917年の十月革命を指導し、ほとんどゼロから赤軍を編成して内戦に勝利させた。
しかし、革命後にスターリンとの権力闘争に敗れ、国外へ追放される。最後はメキシコで、スターリンが送り込んだ工作員によって暗殺された。
その生涯には、巨大な皮肉がある。帝政ロシアの秘密警察に追われた革命家が、やがて自ら作り上げた革命国家の秘密警察に追われ、殺されたのである。
ただし、トロツキーを単純な「スターリン独裁の犠牲者」あるいは「民主的社会主義者」として描くこともできない。彼自身、革命期には強制、処刑、人質、労働の軍事化などを支持し、後のスターリン体制につながる政治装置の形成に関与したからである。
トロツキーとは、革命の理想と暴力、解放と権力、国際主義と独裁が一人の中でせめぎ合った、20世紀最大級の矛盾を体現する人物だった。
裕福な農家に生まれた革命家
トロツキーの本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン。1879年11月7日、ロシア帝国領ウクライナ南部のヤノフカで、ユダヤ系農家の家庭に生まれた。
父ダヴィドは読み書きに長けてはいなかったが、勤勉な経営者で、比較的裕福な農場を築いていた。したがってトロツキーは、極度の貧困から革命運動へ入った人物ではない。
少年時代から知的能力は非常に高く、とりわけ数学、文章、弁論に秀でていた。両親は技術者になることを期待したが、青年期に南ロシアの労働運動へ接近し、マルクス主義者となった。
ただし、最初からマルクス主義を受け入れていたわけではない。当初は、農民を革命の中心と考えるナロードニキ的思想に傾いていた。後に最初の妻となるアレクサンドラ・ソコロフスカヤとの議論を通じて、マルクス主義へ転じたとされる。
1898年、地下組織「南ロシア労働者同盟」の活動によって逮捕され、シベリア流刑を宣告された。獄中の1900年、アレクサンドラと結婚し、二人はともに流刑地へ送られた。
偽名「トロツキー」でシベリアから脱出
1902年、トロツキーはシベリア流刑地から脱走する。妻アレクサンドラと二人の娘ジナイダ、ニーナを残しての単身脱出だった。
その際、偽造旅券に書き込んだ名が「トロツキー」だった。これは収監されていたオデッサの監獄の看守の姓から取ったという説が広く知られている。
本人にとっては一時的な偽名にすぎなかったはずだが、その名が後に世界史へ刻まれることになった。
脱出後ロンドンへ渡り、レーニンと出会う。若きトロツキーの文章力と雄弁さを高く評価したレーニンは、彼を機関紙『イスクラ』の執筆陣へ迎えようとした。この頃パリで、後に生涯の伴侶となるナタリヤ・セドヴァと出会っている。二人は1903年に結ばれ、以後トロツキーが暗殺されるまで一度も離れることのない関係となった。
しかし、1903年にロシア社会民主労働党がボリシェヴィキとメンシェヴィキへ分裂すると、トロツキーはレーニンの党組織論に反発し、当初はメンシェヴィキ側に立った。
レーニンは、職業革命家による規律ある前衛党が労働者を指導すべきだと考えた。これに対してトロツキーは、そのような組織が、党が労働者階級に代わり、中央委員会が党に代わり、最後には独裁者が中央委員会に代わる危険性を指摘した。
この批判は、後のスターリン体制を予言したかのようにも見える。だが皮肉なことに、トロツキー自身も1917年にはレーニンの党へ加わり、一党支配体制の形成に関与することになる。
1905年革命で現れた天才的演説家
1905年、ロシアで最初の革命が起こると、トロツキーは密かに帰国した。
首都サンクトペテルブルクでは、労働者代表が集まる「ソヴィエト」が形成された。後に「評議会」を意味するこの組織が、革命国家ソ連の名の由来となる。
当時26歳だったトロツキーは、ペテルブルク・ソヴィエトの副議長となり、議長逮捕後には事実上の指導者となった。
彼の演説には、人々を興奮させるだけでなく、複雑な政治状況を一つの物語にまとめる力があった。痩せた身体、鋭い眼差し、額にかかる髪、身振りを交えた速い話し方は、聴衆に強烈な印象を与えた。
その一方で、彼には人を見下しているように感じさせる尊大さもあった。頭の回転が速すぎるため、議論で相手を徹底的に打ち負かしてしまう。敬服する者がいる一方で、深い怨恨を抱く者も少なくなかった。
1905年革命は鎮圧され、トロツキーは再び逮捕される。裁判では被告でありながら法廷を革命の演説会場へ変え、体制側を告発した。
再度シベリア流刑を宣告されたものの、移送途中で脱走し、ヨーロッパへ亡命した。
「永続革命」――後進国ロシアが先に革命を起こす
1905年革命の経験から生まれたのが、トロツキーの中心思想である「永続革命論」だった。
当時の正統的マルクス主義では、社会はおおむね、封建社会からブルジョワ革命を経て資本主義社会となり、その後にプロレタリア革命によって社会主義へ至るという順序で発展すると考えられていた。
ロシアは農民が多数を占める後進国だったため、まず資本家階級が皇帝を倒して議会制民主主義を築き、その後に長い資本主義の時代を経て、労働者革命へ進むと予想されていた。
しかしトロツキーは、ロシアの資本家階級は弱く、皇帝や地主、外国資本に依存しているため、本格的な民主革命を主導できないと考えた。
したがって、労働者階級が農民を味方につけて権力を握り、民主革命からそのまま社会主義革命へ進まなければならない。
これが「永続革命」の第一の意味である。
さらに、後進国ロシアだけで社会主義を完成させることはできない。革命はドイツやフランスなどの先進資本主義国へ拡大し、最終的に世界革命へ発展しなければ孤立して崩壊する。
これが第二の意味だった。
トロツキーは、後進国では古い社会構造と最新の資本主義が奇妙に共存すると考えた。ロシアには農奴制的な農村が残る一方、都市には外国資本による巨大工場が存在していた。
このように、異なる歴史段階が一つの社会の中で結合する現象を、後に「不均等・複合発展」と呼んだ。後進国は、先進国と同じ道を同じ順序で歩むのではない。遅れているからこそ、途中の段階を飛び越え、最新の制度や技術を急速に取り入れることがある、というのである。
この理論はロシア革命だけでなく、後の植民地・新興国における急速な近代化を考えるうえでも影響力を持った。
レーニンとともに十月革命を指導
第一次世界大戦中、トロツキーは各国を転々とした。一時はニューヨークにも滞在している。
1917年2月、ロシア革命によって皇帝ニコライ2世が退位すると帰国し、ペトログラード・ソヴィエトの議長に選ばれた。
同年夏、トロツキーはそれまで長く対立してきたレーニンのボリシェヴィキに正式加入する。
二人の強みは対照的だった。
レーニンは、革命の方向を定め、党組織を掌握する戦略家だった。トロツキーは、演説によって大衆を動かし、革命を具体的な行動計画へ変える実行者だった。
十月革命では、トロツキーが指導する軍事革命委員会が橋、鉄道駅、郵便局、電信局など首都の要所を次々に掌握した。
後のソ連では「十月革命はレーニンとスターリンが指導した」と宣伝されたが、実際にはスターリンの役割は限定的であり、現場の組織化ではトロツキーが決定的な役割を果たした。
「戦争でも平和でもない」という賭け
革命後、トロツキーは外務人民委員となり、ドイツとの講和交渉を担当した。
ドイツはロシアに広大な領土の割譲を要求した。レーニンは、革命政権を存続させるためには屈辱的な条件でも受け入れるべきだと主張した。
トロツキーは、ドイツ兵の間にも革命が広がることを期待し、戦争は停止するが講和条約には署名しないという「戦争でも平和でもない」方針を取った。
しかしドイツ軍は攻撃を再開し、ロシア軍はほとんど抵抗できなかった。結局、ボリシェヴィキ政府は当初よりさらに不利なブレスト=リトフスク条約を結ばざるを得なくなる。
これは、トロツキーの国際革命への期待が現実の軍事力を見誤った例だった。
装甲列車で赤軍を作り上げる
革命政権はすぐに内戦へ突入した。
旧帝国軍は崩壊し、反革命側の白軍、外国干渉軍、民族独立運動、農民反乱などが各地で蜂起した。ボリシェヴィキ政権は崩壊寸前だった。
軍事経験をほとんど持たなかったトロツキーが、陸海軍人民委員として赤軍の創設を任される。
彼は革命への忠誠心だけでは近代戦を戦えないと判断し、旧帝国軍の将校を大量に登用した。その一方で、旧将校を監視するため、党から派遣された政治委員を配置する。
この「軍事専門家+政治委員」という二重構造は、後のソ連軍の基本制度となった。
トロツキー自身は、通信設備、印刷所、会議室、武器庫などを備えた装甲列車で各戦線を巡回した。兵士を演説で鼓舞し、司令官を交代させ、命令違反者を処罰し、危機にある戦線へ予備兵力を投入した。
その列車は移動司令部であると同時に、革命政府そのものだった。
赤軍は最終的に数百万人規模へ成長し、白軍を破って内戦に勝利する。これほど短期間に巨大な軍隊を組織した能力は、トロツキーの最大の実務的功績である。
革命のためなら強制をためらわなかった
しかし赤軍建設は、厳しい規律と暴力を伴った。
トロツキーは脱走兵や命令拒否者に対する処刑を認め、旧将校の裏切りを防ぐため家族を人質として扱うことも容認した。
内戦末期には、経済復興のため労働者を軍隊のように組織する「労働の軍事化」を主張した。労働組合も独立して国家と交渉する組織ではなく、生産を動員する国家機関に組み込むべきだと考えた。
1921年のクロンシュタット水兵反乱では、トロツキー自身が現地で軍を指揮したわけではないが、軍事責任者として鎮圧方針を支持し、その後も弾圧を正当化した。
反乱を起こした水兵たちは、かつて革命を支えた人々でありながら、ボリシェヴィキ以外の社会主義者の活動、言論の自由、自由選挙によるソヴィエトなどを要求していた。
反乱は軍によって制圧され、多数の死者・処刑者・亡命者を出した。
この点は、トロツキー評価において避けて通れない。
彼は後にスターリンの官僚独裁を批判したが、内戦期には「革命を守る」という理由で政治的多元性を抑圧した。トロツキーが求めた民主主義は、自由主義的な複数政党制ではなく、基本的に社会主義とソヴィエト体制の内部での民主主義だった。
なぜスターリンに敗れたのか
レーニンが病に倒れると、後継者争いが始まった。
知名度、演説力、著作、革命と内戦での功績を考えれば、トロツキーが最有力に見えた。しかし実際に勝利したのは、地味な党官僚と思われていたスターリンだった。
トロツキーは、スターリンを知的にも政治的にも過小評価していた。
スターリンは党書記長として、人事、地方組織、党大会の代議員選出を着実に掌握していた。一方トロツキーは、党内に強固な派閥や人脈を作ることを軽視した。
彼は大衆を前にした演説や歴史的危機には強かったが、日常的な根回し、妥協、党内人事には向いていなかった。
さらに、長年ボリシェヴィキと対立していたため、古参党員から「革命直前に入党した外様」と見られていた。軍を率いた経歴も、彼が軍事独裁者になるのではないかという警戒を生んだ。
スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフは一時的に連携してトロツキーを孤立させた。トロツキーが危険に気づいた時には、すでに党機構の大部分がスターリンに握られていた。
「一国社会主義」への批判
スターリンは、世界革命が起こらなくても、ソ連一国で社会主義を建設できるという「一国社会主義論」を掲げた。
トロツキーはこれに強く反対した。
後進国ロシアが孤立すれば、経済的貧困と国際的圧力の中で、労働者が直接政治を担うことは難しくなる。やがて国家と党の官僚が、労働者に代わって権力を独占するようになると考えた。
彼によれば、スターリン主義は偶然の逸脱ではない。内戦による労働者階級の疲弊、経済的後進性、革命の国際的孤立、国家機構の肥大化、党内民主主義の消滅という条件から生まれた官僚支配だった。
トロツキーはスターリン体制下のソ連を、「堕落した労働者国家」と呼んだ。
生産手段の国有化や計画経済という革命の社会的成果は残っている。しかし政治権力は労働者から官僚階層に奪われている。
したがって、資本主義へ戻す社会革命ではなく、官僚を追放してソヴィエト民主主義を回復する「政治革命」が必要だと主張した。
この分析を体系化したのが、亡命中の著書『裏切られた革命』である。
予言的だったスターリン批判
トロツキーのスターリン批判には、後の歴史から見て予言的な部分がある。
彼は、官僚制が革命の歴史を書き換え、古参革命家を次々に「人民の敵」として処刑し、指導者個人への崇拝を作り出すと批判した。
実際、1930年代後半のモスクワ裁判では、かつての革命指導者ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンらが架空の陰謀を自白させられ、処刑された。
トロツキー自身も欠席裁判で、ファシスト勢力と結託してソ連を破壊しようとした首謀者とされた。
だが、彼の批判には限界もある。
トロツキーは、スターリン体制の官僚的独裁を鋭く分析しながら、自分自身が内戦期に行った弾圧と、後の独裁との連続性を十分には認めなかった。
彼にとって、レーニン時代の強制は革命を守るための一時的措置であり、スターリンの強制は官僚階層の権力を守るためのものだった。
目的と歴史的条件が違うという主張には一定の根拠がある。しかし、反対派の禁止、秘密警察、検閲、党の一元化という装置を先に作ったことが、スターリンによる拡大を可能にした点は否定できない。
文学と芸術を愛した革命家
トロツキーは政治家であると同時に、並外れた知識人だった。
歴史、哲学、文学、芸術、心理学に広い関心を持ち、『ロシア革命史』『わが生涯』『文学と革命』など、現在でも読まれる著作を残している。
彼の文章は論理的であると同時に、比喩と皮肉に富み、政治文書でありながら文学的な力を持っている。
芸術については、国家が「正しい革命芸術」を命令することに比較的批判的だった。芸術は革命に貢献しうるが、党の命令によって作られるべきではないと考えた。
亡命中にはシュルレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンと接触し、ディエゴ・リベラの名義を含む形で「独立革命芸術のために」と題する宣言を発表した。
スターリン時代に社会主義リアリズムが国家公認の様式とされたことを考えると、トロツキーの芸術観ははるかに自由主義的だった。
ただし、政治における自由より芸術における自由を広く認めていた点にも、彼の思想上の複雑さが表れている。
家族まで破壊したスターリンの追跡
1927年、トロツキーは共産党を除名され、翌年カザフスタンのアルマ・アタへ追放された。1929年にはソ連国外へ追放される。妻ナタリヤと息子たちも行動をともにした。
トルコ、フランス、ノルウェーを転々とし、1937年、画家ディエゴ・リベラらの尽力によってメキシコへ亡命した。
その間、スターリンの弾圧はトロツキー本人だけでなく、家族にも及んだ。
最初の妻アレクサンドラとの間の娘ニーナは病死し、もう一人の娘ジナイダは亡命先ベルリンで自死した。ナタリヤとの間の息子セルゲイはソ連にとどまっていたため逮捕・処刑され、もう一人の息子レフ・セドフはパリで不審な死を遂げた。最初の妻アレクサンドラも大粛清で殺害されている。
政治に積極的でなかった家族までが、「トロツキーの血縁」であることによって標的となった。
トロツキーは世界革命を語り続けながら、身近な家族を次々に失っていった。その悲しみを終始そばで分かち合い続けたのが、ナタリヤだった。
フリーダ・カーロとの短い関係
メキシコでは、ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ夫妻の「青い家」に、トロツキーとナタリヤが迎えられた。
トロツキーとフリーダの間には、一時的に恋愛関係があったとされる。トロツキーは50代後半、フリーダは20代後半だった。
この関係は長続きせず、トロツキー夫妻は青い家を出て、コヨアカンの別の邸宅へ移った。
その邸宅は、次第に要塞のようになっていく。高い壁、監視塔、鉄製の扉、武装した警備員が置かれた。それでもスターリンの秘密警察から完全に逃れることはできなかった。
二度目の暗殺計画
1940年5月、メキシコの画家で熱烈なスターリン主義者だったダビッド・アルファロ・シケイロスらが、武装集団を率いてトロツキー邸を襲撃した。
寝室に大量の銃弾が撃ち込まれたが、ナタリヤがとっさにトロツキーの上に覆いかぶさったこともあり、夫妻は奇跡的に生き延びた。
ところが、本当の暗殺者はすでに別の経路から近づいていた。
スペイン人共産主義者ラモン・メルカデルは、偽名を使い、トロツキーの秘書と親しいアメリカ人女性シルヴィア・アジェロフの恋人として周辺へ入り込んだ。
1940年8月20日、メルカデルは自分の書いた論文を見てほしいと申し出て、トロツキーの書斎へ入った。トロツキーが机に向かって原稿を読んでいる時、隠し持っていた小型の登山用ピッケルで頭部を殴った。
トロツキーは即死せず、襲撃者と格闘した。翌8月21日、病院で死亡した。60歳だった。
メルカデルはメキシコで20年間服役した後、ソ連から「ソ連邦英雄」の称号を与えられた。ソ連政府は長く関与を否定したが、暗殺はスターリンの指示を受けた秘密警察の作戦だったことが明らかになっている。
トロツキーの遺体はコヨアカンの自宅で荼毘に付され、遺灰は邸宅の庭に葬られた。ナタリヤはその後もトロツキーの思想を守る活動を続け、1962年、亡命先のフランスで79歳の生涯を終えた。その遺灰も、夫と同じ庭の記念碑の下に納められている。二人が最後に暮らした邸宅は、現在「トロツキー博物館」として公開されている。
トロツキーは民主主義者だったのか
この問いには、単純に「そうだった」とも「そうではなかった」とも答えられない。
スターリンとの比較では、トロツキーは明らかに、党内論争、ソヴィエト民主主義、国際主義、官僚特権の廃止、芸術・思想の一定の自律性を重視した。
スターリンの個人崇拝、歴史改竄、大粛清、秘密裁判を激しく批判し、社会主義は労働者の民主的参加なしには成立しないと考えた。
しかし、彼が擁護したのは基本的に革命体制内部の民主主義だった。自由主義的な議会制、多党制、私有財産、反革命的政治活動まで無条件に認めたわけではない。
危機の際には、革命を守るために強制と暴力を用いることを躊躇しなかった。
したがってトロツキーは、スターリンとは異なる可能性を示したが、その可能性が西欧型民主主義へ発展したとは限らない。
仮にトロツキーが権力闘争に勝っていたとしても、ソ連が自由民主主義国家になった可能性は低い。国際革命を重視し、より急速な工業化と経済統制を進めた可能性もある。
一方、大粛清やスターリン個人崇拝ほどの極端な恐怖政治が生まれなかった可能性は十分にある。
これらはいずれも歴史の「もしも」を扱う仮定にすぎず、確定的な答えを出すことはできない。
トロツキーという矛盾
トロツキーの最大の悲劇は、スターリンを批判するために必要な言葉を持ちながら、スターリンを可能にした制度の形成に自ら関与したことである。
彼は官僚独裁を予見した。しかし前衛党による権力独占を否定しなかった。
労働者民主主義を唱えた。しかし反対する労働者を武力で鎮圧した。
芸術の自由を擁護した。しかし政治的自由には厳しい制限を認めた。
国際主義を掲げた。しかし革命の拡大がもたらす軍事的・社会的危険を過小評価することがあった。
人類解放を目指した。しかし、そのための手段として組織的暴力を受け入れた。
それでも彼の思想が現在まで残ったのは、スターリンに敗れたからだけではない。
トロツキーは、社会主義国家がなぜ労働者自身の支配ではなく、官僚階層の支配へ変質するのかという難問を、体制の内部経験から分析した最初期の人物だった。
彼の生涯は、革命の勝利がそのまま自由の勝利を意味しないことを示している。古い権力を倒すことと、新しい権力が独裁化するのを防ぐことは、別の問題なのである。
トロツキーは前者において天才だった。しかし後者においては、自らの思想と行動の矛盾を最後まで完全には克服できなかった。
だからこそ彼は、英雄とも悪人とも、民主主義者とも独裁者とも一語では呼べない。トロツキーとは、革命が持つ創造力と破壊力、理想と傲慢、知性と暴力を、最も鮮烈な形で一身に体現した人物なのである。
レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(1879–1940) ロシアの革命家・思想家。本名ブロンシュテイン。ウクライナ、ヤノフカ生まれ。青年期にマルクス主義へ転じ、1905年革命ではペテルブルク・ソヴィエトの指導者となった。1917年、ボリシェヴィキに加入して十月革命を指導し、陸海軍人民委員として赤軍を創設、内戦を勝利に導いた。「永続革命論」を唱え、レーニンの死後はスターリンとの権力闘争に敗北。1929年に国外追放され、トルコ、フランス、ノルウェーを経て1937年にメキシコへ亡命した。妻ナタリヤ・セドヴァは生涯の伴侶として行動をともにし、四人の子はいずれもスターリンの弾圧により両親より先に世を去った。1940年8月21日、メキシコ・コヨアカンの自宅でソ連工作員ラモン・メルカデルに襲撃され、60歳で死去。『ロシア革命史』『裏切られた革命』などの著作を通じてスターリン主義批判を体系化し、20世紀の社会主義運動と革命論に決定的な影響を残した人物である。
