フランス・リールのいろはかるた~【け】劇場は衛兵の詰め所だった
北フランスの街リールのいいところを、いろはかるた形式で書いていくnoteです。
猛暑だった先々週、革命記念日とサッカーワールドカップ準決勝が重なって大変な日がありましたね。
革命記念日のイベントとして、リールでは午前中にリベルテ通りでパレードがあり(リベルテ通りはリールのシャンゼリゼです)、夜の11時から城塞横のシャン・ド・マルスで花火がありました。







そして、サッカーのほうは、残念ながら負けてしまいましたね。

サッカーの試合の終わりと花火の始まりがちょうど同じくらいの時刻だったので、多くの人はバーなどで試合を観てから急いで気持ちを切り替えて花火を観にきているようでした。
ただ、グラン・プラスでは試合結果に怒った若者が大暴れしてしまい、警察の介入する事態になったようです。
そういえば、花火が始まる直前に別の方角から花火音が聞こえて「あれ?」と思っていたのですが、今思うとそれが暴れていた音だったみたいです。
ともあれ、試合に勝っても負けても人が集まって大騒ぎするのが、グラン・プラスという場所です。

で、何かで盛り上がった時に、グラン・プラスの中でも特に人が殺到しがちなのが、ノール劇場のバルコニーです。



以前の記事でも触れましたが、現在劇場になっているこの建物は、もともとは18世紀前半に建てられた衛兵の詰め所でした。


(ちなみに、この絵を描いた画家フランソワ・ワトーは、あの有名なロココ画家アントワーヌ・ワトーの甥の息子であり、父とともに「リールのワトー」と呼ばれています。詳しくはまた今度です。)
今日にいたるまで、このバルコニーから実にたくさんのことが告知されました。
1870年の共和国宣言も1914年の大戦動員令もここから市民に伝えられました。
建物の中身が劇場になった現在でも、このバルコニーは演壇のように使われたりしています。
そして、サッカーで勝った時は必ず大勢がここに上って祝います。

さて、ここからは建物の中身、劇場としてのノール劇場についてですが(バルコニーに上る若者の多くがここを劇場だと知らずにいる、という話もありますが…)、実はなかなかすごい劇場です。
なんと、ダニエル・メスギッシュという演劇界の超大物が、90年代にここの芸術監督を務めていたことがあります。(メスギッシュをご存じのかたは、「本当に?あのメスギッシュがこんな辺鄙なところにいたの?」と思われたんじゃないでしょうか。でも本当ですよ。)
そして、現在の芸術監督はダヴィッド・ボベという演出家ですが、私にとってはこの人がまたツボです。
個人的なことなのですが、十数年前にパリに留学していた時に観たダヴィッド・ボベ演出の『ロミオとジュリエット』の上演がとても印象に残っているのです。
その時は、パリのシャイヨ劇場の大きな舞台を使った、ダイナミックで洗練された演出でした。
美しい場面をいくつも覚えているのですが、今、どこがどう良かったのかを言葉で表そうとすると、なぜかうまくできません。それくらい、ただただ美しい舞台に魅了されるという体験でした。
久しぶりにフランスに来て、まさかこんなところでボベ氏を見つけるとは思いもよりませんでした。うれしい驚きでした。
今シーズン、このノール劇場で二つの演目を観ました。
一つ目は、シラー作の『メアリ・ステュアート』です。

スコットランド女王メアリがイングランド女王エリザベスへの陰謀の廉で幽閉されて処刑されるという話で、史実に基づいた政治サスペンスです。

二人の女王が、宗教(カトリックとプロテスタント)と様々な権力の絡み合う政治関係の中、それぞれの立場で葛藤するところが見どころです。
この二人の話と言えば、2018年の『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』も、フォーカスするエピソードは違いますがこれと同じ葛藤を描いていました。この映画もとてもよかったですね。



今回演出をした女性演出家は、そのものずばり「政治と社会における女性の立場」を自身の探求テーマとしているとのことです。
エリザベスがメアリの生殺与奪の権を握っているわけですが、入り組んだ権力関係にがんじがらめになっているエリザベスにとっては、メアリを生かすことも殺すことも場合によって自分の立場を危うくすることになります。
幽閉されているのはメアリですが、エリザベスもまた目に見えない牢獄に囚われているのです。
そのことが舞台上では牢獄のセットによって視覚化されていました。
メアリのいる牢獄が別の場面ではエリザベスの部屋になる、という仕掛けです。

あと、スモークの演出も印象に残りました。

皆が暗中模索していることを表現するスモークだったのだと思いますが、幕間からがんがん焚かれ、そのうちに舞台だけでなく客席もスモークで覆われ、ちょっとやりすぎ感がありました。


二つ目に観たのは、ミュッセの『ロレンザッチョ』です。
これが今シーズンの目玉であり締めくくりで、例の芸術監督ダヴィッド・ボベの演出作品でした。

これも史実に基づくもので、青年ロレンゾがメディチ家の暴君アレッサンドロを暗殺する話です。

圧制から人々を解放すべく暴君の暗殺を志すロレンゾは、暴君の懐に入り込むために軽薄な放蕩者を演じるのですが、陰謀を進めるうちに、その放蕩者という偽りの仮面に自分自身が侵食されていき、だんだん本当の自分がわからなくなります。その葛藤が見どころの一つです。
その点でこの戯曲はシェイクスピアの『ハムレット』にも似ていると言われます。
また、この戯曲だけでなくミュッセの作品には、何らかの理由でわざと軽薄なふりをする若者が出てくることが多いです。というか、ほとんどがそれに該当するかもしれません。
『ロレンザッチョ』のような政治劇だけでなく、『戯れに恋はすまじ』のような純粋な恋愛劇においてもそうです(後者の場合は、いわゆる「こじらせた」若者ですね)。
ミュッセ作品の上演を観ていて「この主人公はこんなにへらへらしてて大丈夫なの?」と思い、後でテクストを読み直して「これはあれくらいへらへらしてるのが(演技として)正解だったかも」と思い直すことがよくあります。そういう意味ではシェイクスピアよりさらにややこしいかもしれません。
今回の『ロレンザッチョ』の上演も、この点についてはおおむねそんな感じでした。

そして、『ロレンザッチョ』のもう一つの見どころが、様々な人物の間で展開する入り組んだ権力関係のゲームです。
今回演出家は、この政治劇的側面のほうにより重点を置いているようです。
というのも、おそらく珍しいことなのですが、今回の上演はミュッセのテクストとジョルジュ・サンドのテクストを組み合わせて作られているのです。
そもそもの話として、ミュッセの当時の恋人だったジョルジュ・サンドのほうが先に『1537年の陰謀』という題で同じ話を書いていて、それに基づいてミュッセが自分の作品として書いたのが『ロレンザッチョ』です。
二つの作品の特徴として、サンドのほうがよりダイレクトな表現で政治劇の側面が強いのに対し、ミュッセのほうはよりロマン主義的な個人的な葛藤を描き、それこそミュッセらしい作風になっています。
演出家はサンドのテクストを取り込むことで、作品の政治色を強くしたというわけです。
ボベはインタビューでも、この上演には「危険な権力に対して人はどう行動すべきか」という問いかけを込めているということ、そしてその問いの背景には現在のフランスにおける極右政党の台頭という状況があることを、明言しています。
幕が上がると、まず現代の圧制を表す映像が氾濫するとともに銃声が鳴り、恐怖のどん底に落とされました。


例の、私が留学中に観てただただ美しいと思っていた『ロミオとジュリエット』とは、全く違う演劇でした。
そのことに驚きもしましたが、感慨深くも思いました。
この十数年で、フランスひいては世界の情勢ががらっと変わったのですから、演劇のあり方も変わったのでしょう。
もちろん、政治的な演劇は昔からあるわけで、むしろそれ自体が普遍的なものかもしれません。
ですが、ボベの『ロミオとジュリエット』と『ロレンザッチョ』を比べると、やっぱりいろいろなことが変わったんだなと思います。


