『忘れ難き旅』 第4話 ー運命の分岐点。地獄の淵から生還した「あの日」の奇跡―
【代筆者より:第4話をお届けします】
孤独の極北にいた宏樹さんに、ついに転機が訪れます。
五月の語学の授業後、一人の男からかけられた
「サークルに入らない?」という言葉。
それは、その後の彼の人生を決定づける、最も大きな分岐点でした。
しかし、平穏への道は平坦ではありません。
書店で出会った新たな思想の衝撃、
そして走行中の電車内で突如襲いかかってきた「発狂の恐怖」。
ついに追い詰められた彼が辿り着いたのは、森閑と佇む総合医療センター。 約一年の間、彼を地獄の底へと縛り付けていた悪夢から解き放たれる
「その瞬間」を、どうか共に見届けてください。
やがて、私にも転機が訪れだした。
五月になって、初めて出席した語学の授業が終了した後、
藤井という男に声をかけられたのだ。
「ねえ、うちのサークルに加入しない。面白いよ」と。
私は、生涯に於いて、様々な分岐点を持っている。
なかでも、最大の分岐点は、この時であろう。
もし、ここで断っていれば、人生の甘美さを何一つ味わうことなく、
幻滅感と敗北感に苛まれて
一生を過ごす羽目になったであろう。
この藤井という男に満腔の感謝をささげなくてはならない。
サークルの名はルポルータージュ研究会という
得体の知れないものであったが、
私は躊躇うことなく、二つ返事で承諾した。
「いいよ」と。
これでやっと私にも会話をかわす相手と、
所属場所を獲得することが出来た。
その後藤井に連れられて、
ラウンジというサークル仲間が寛ぐ場所に案内され、
このサークルが
ドキュメンタリーの雑誌を発刊する事を生業とすることが分かった。
ドキュメンタリーにも雑誌にも積極的な興味は抱けなかったが、
その場にいた二,三人の仲間に紹介され、
私はひとまず「これでやっと仲間が出来る」と安堵した。
それにも関わらず病気は、治癒したわけではなかった。
ちょうどその頃、大学構内にある生協の書店に立ち寄った。
哲学・思想の欄を眺めた。
陳列してある書物を眺めて、衝撃を受けた。
私の哲学に関する知識は、ほぼサルトル・ハイデッガーという
実存主義までに限定されていた。
陳列してある書物には
レヴィ・ストロース、
ジル・ドゥルーズ、
ミシェル・フーコー、
フロンソワ・リオタール、
ジャック・デリダ等々、
今まで見たことも聞いたこともない著者名が勢ぞろいしていた。
この分野に多少とも通暁していると思っていた私の自負は
粉々に打ち砕かれた。
しかたなく、気が進まずにそれまで好意どころか
反感を抱いていたニーチェの「悲劇の誕生」を買った。
序文を読んだだけで理解した。
それまでの私の禁欲的な生活形態を全否定していると。
それ以後無類のニーチェマニアになった。
一向に改善兆しを見せぬ病勢を背にして、
このままでは身の破滅を招くと悟り、
窮余の一策として、大学のパンフレットに記載されていた
学生相談室にかけ合ってみることにした。
相談員に事情を話すと、後日精神科医との面接を請け合ってくれた。
予定日に姿を現した精神科医は中年過ぎの垣根という名の
貧相な姿をした小男だった。
この男を医師とは言いたくない。
私は正直に包み隠さず、病状を報告した。
その面接の途中で「T大・K大に合格確実だった」と述べると、
垣根は瞬時口をすくめた。
私も瞬時に悟った。この精神科医はどこの大学出身かは分からないが、
私の志望校だった大学の医学部にコンプレックスを抱いているなと。
面接は二〇分位だったと思う。
垣根がどんな診断を下したかは知らない。
最後に、「薬使ってみるか」と述べ、
二種類の向精神薬を手渡してくれた。
私は、面接の礼を述べ、終了してからすぐ
その向精神薬服用した。
何か変化が現われるかなと期待したが、
時間が経過しても、効き目はなく
病状は依然同じままだった。
七月上旬だったと記憶している。
或る日、大学からの帰宅途中、
乗客が閑散としている電車に乗っている最中、
いきなり周囲の景色がグルグル廻り出した。
一瞬、発狂の恐怖にとらわれ、
顔を手に埋めた。
この状態は、帰宅し誰もいない居間でテレビをつけるまで続いた。
私は、自分の理性が失われ、
機能しなくなるのではないかと、
心底からの恐怖におののいた。
こうなったら、もう背に腹は代えられぬ。
慌てて相談室に電話をし、垣根の病院を紹介してもらい、
翌日、直接病院に診察を受けに行った。
病院は、文学部キャンパスの小さな裏山を越えたところに、
森閑と佇んでいた。
精神科だけでない
れっきとした国立の総合医療センターである。
「何だ、こんな近いところにあったのか」と
少しばかり驚いた。
二時間ばかり待たされた挙句、
今度は初回の面接とは異なり、
カウンセリングはなく、
ただ新たな向精神薬を処方されただけだった。
医薬分業が確立されていない当時の総合病院では、
薬を受け取るまでに煩瑣な手続きがいり、
診察からこれもだいぶ待たされたが、
向精神薬を受け取ると
幾分疑わしげな気分とともにすぐ飲んだ。
三、四〇分経ったころだろうか。
ハッと我に返り、自分の現況を疑った。
幻聴が聞こえない。
心悸亢進も頻脈も全て消褪している。
最初に感じたのは
欣喜雀躍とした高揚感ではなかったように思う。
驚きであった。
約一年の長きに渉って、
私を地獄の底にいるように苦しめた悪夢から、
こんなにあっけなく解放されようとは・・・・・。
その気分はちょっとそっとでは表現できない。
とにかく、もう治ったのだ、
もう苦しめられずに済むのだ、
悪夢に悩まされる必要はないのだ、と
歓喜の念が徐々に滲みだし
心からの解放感を存分に堪能した。
即効性の薬は
重篤な副作用を伴うと一般に言われている。
この向精神薬もその轍に漏れなかったのだが、
その時はその危険性にまで考えが及ばなかった。
【次回予告:第5話】
悪夢は去り、キャンパス・ライフは輝きを取り戻す。
初めての酒、初めてのアルバイト、そして生涯忘れ得ぬ
「運命の女」との出会い。
バブルの熱気に背中を押されるように、宏樹は仲間と共に
「神田川下り」という無鉄砲な冒険へと漕ぎ出していく。
