『先生』 第2話ー一か八かの問いかけ。池袋の熱気と、憧れの先にある沈黙―
【第2話:憧れの地、池袋での邂逅】
鶴見俊輔さんの言葉に救われ、心酔した宏樹さん。
過酷な現場仕事を退職したばかりの彼が偶然目にしたのは、
「思想の科学」総会の案内でした。
「先生に会えるかもしれない」
期待と不安を胸に向かった池袋の小さな会場。
そこで彼は、白髪の老人に宿る圧倒的な存在感を目撃します。
勇気を振り絞り、あえて先生自身の言葉を借りて投じた一石。
しかし、返ってきたのは予期せぬ沈黙と反論でした。
憧れの人の前で味わった、苦い落胆と孤独。
それでも立ち去りがたい宏樹さんは、吸い寄せられるように
懇親会の会場へと足を向けます。
それから、半年ぐらい経過しただろうか?
この半年、ある現場作業で働いていたが、
余りに過酷な労働条件に辟易して退職したばかりであった。
暇がてら、何気なくインターネットで検索していると、
ふとある画面に宏樹の目は釘つけになった。
「思想の科学」が池袋で総会を開催すると掲載されていた。
「思想の科学」とは、丸山眞男・都留重人等々
十五年戦争に批判的であった有志によって敗戦後設立された
思想家集団のことである。
宏樹は鶴見俊輔先生が「思想の科学」の同人であることを
書物から熟知していた。
期日を見ると、まだ間に合う。
参加するにはい色々条件を付けられるかな、と気もそぞろであったが、
思い切って電話してみた。
「北林宏樹と申しますが、今度の総会に参加させてもらいたいのですが、
何か資格や条件が必要なのでしょうか」
「ありがとうございます。参加費千円を支払ってくだされば、
どなたでも参加できます」
宏樹は、拍子抜けし、あっさり承諾した。
宏樹は先生は出席するだろうかと
一抹の不安とともに、期待に胸を膨らませた。
ついに当日になった。小さな会場だが、
中は聴講する人で、ぎっしり詰まっていた。
講師は松本健一氏とダグ・ラミス氏である。
十年近く前のことなので正確には覚えていないが、
松本健一氏は、戦前の二・二六事件のことを主に取りあげ、
金融恐慌・昭和恐慌で農村がいかに疲弊していたかを語り、
蹶起将校に同情し、
又、昭和天皇がリアリストで英邁な指導者であることを強調していた。
松本氏の発言が終了した後、質問の時間に入った。
その時、短小矮躯だが
ホワイトヘッド張りに巨大な頭蓋骨を備えた白髪の老人が
躊躇なく発言した。
発言の内容は忘れてしまったが、
宏樹は、直感でああこれが鶴見俊輔先生かと一瞬にて認識した。
羨望の眼差しで見つめた。
宏樹は松本氏の天皇が英邁な君主ということに疑義を呈していた。
十五年戦争における天皇の戦争責任を追及したかった。
小心者の宏樹も何か先生がおっしゃってくれるものと期待して、
又、聴衆の間に活発な議論が交わされると妄想して、
勇気を振り絞って先生の著書から見事なまでに剽窃して、
「昭和天皇は狂信的な軍国主義者でなく自由主義者でした。
自由主義者のリアリストなら己の戦争責任を認識できたはずです。
正式に退位し、公式にアジアの民に謝罪するべきでした。
又、我々は民主主義という虚妄の世界に住んでいます」
あんに反して今度は先生から何の発言もなかった。
聴衆の間にも何の反応もなかった。
先生の本からそのまま剽窃したのがまずかったか?
その時はそう感じたが、後になって、先生の別の著書に、
「私の本の一行でも一句でも覚えていたら嬉しい」と
記載されている箇所に目をとめて
そんなに悪いことをやった訳ではないということが分かった。
松本氏は、宏樹の意見に反論した。
「昭和天皇が、謝罪していないということはありません。
現に鄧小平は昭和天皇から謝罪の言葉をかけてもらって、
たいへん感銘したと発言しています」
宏樹は険しい顔つきになった。
数年前から、中国の対日感情は悪化していた。
たびたび、反日デモが繰り返されていた。
そんな有様であるから、
宏樹には松本氏の発言がにわかには信じられなかった。
一方、ダグ・ラミス氏は、宏樹の発言に憤慨していた。
宏樹が、現在の日本は虚妄の民主主義国だと発言したからだろう。
ダグ・ラミス氏よれば、
日本は成熟した自由な民主主義国ということになるらしい。
宏樹は適当に受け流して聴講していた。
先生も何も述べられなかった。
一通り講義が終了した後、
恐らく韓国からの留学生だろうと思える青年が、
「韓国では、学生がこういう政府に批判的な集会に参加すると、
秘密警察に目をつけられるのです。
こういう自由がある日本は幸福です」
と述べると、万雷の拍手が沸き上がった。
三時間ほどで、つつがなく「思想の科学」の総会は終了した。
宏樹の、鶴見俊輔先生と直接意見を交わしたい、
それができなくてももっと意見を開陳してもらいたい、
できれば弟子にしてもらいたい、という妄想は吹き飛んでしまった。
失意落胆してしまった。
この後、懇親会があるらしい。
やけになっていた宏樹は参加するかどうか迷ったが、
無料で軽食をとれ、お酒も飲めるそうだから、
おなかの空いていた宏樹は、参加することにした。
懇親会の会場に向かう途中、
中年の夫人が、宏樹に声をかけた。
「昭和天皇が自由主義者ですって。あなたよく勉強しているわねえ」
はてな、先生の著書を読んでいないのかな、と
宏樹は訝しく思ったが、
そうだよな、主婦は家事・子育て忙しいから
じっくり読書に費やす時間なんてないよなあ、
そのてん、俺は未だ果報者だと再認識した。
【次回予告:第3話】
賑わう懇親会、一人ワイングラスを傾ける宏樹の前に、
鋭い目つきの男が現れる。
男が突きつけた「君は信念のために命をかけられるか」という問い。
そして、再び目の前に現れた先生の、あまりにも意外な「姿」とは。
