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教わる態度が、いちばんの才能── 中学受験の国語で学べる「上から目線」の正体

LINEで文末に「。」をつけると怖い。
絵文字を使うとダサい。
そういう書き方は「おじ構文」「おば構文」と呼ばれ、揶揄の対象になっている。

テレビでも、若いタレントがそれを声高に言っている場面を一時期よく見かけた。あの光景には強烈な違和感がある。

その正体が、中学受験の国語の問題文を読んでいてはっきりした。


入試問題に、その答えが載っていた

榎本博明『「上から目線」の構造』(日本経済新聞出版)。

2025年度の佼成学園中学校・第一回入試、大問四で出題されている。

まず、なぜ現代人がこれほど「上から目線」に敏感なのかを説明する。
人格そのものが商品のように扱われる時代になり、自分の価値は「人からどう見られるか」で決まるようになった。だから上司であれ先輩であれ、部下や後輩から良く思われているかどうかが気になって仕方がない。

そこまで書いておいて、筆者はこう問う。

「上から目線」を指摘し批判する側と、どちらが「上から」なのか、と。
「あなたのその上から目線はよくありませんよ」
その言い方こそ、相手を見下す上から目線ではないか。

これである。 テレビの光景に感じていた違和感は、ここだった。

だが、本題は上下ではない

とはいえ、「批判する側こそ上から目線だ」で終わらせると、ただの言い返しになる。筆者の本当の指摘は、その先にある。

見下され不安が強い人は、人間関係を上下の図式でしか読めなくなる。すると、親切なアドバイスまでもが「優位を誇示する材料」に見えてくる。感謝どころか、「その上から目線はやめてください」となる。

上下でしか読めないから、教わることができなくなる。

学びの効果が最大化するのは、実は上下がないとき。
教える側は、その子が学ぼうとしている姿勢そのものに敬意を持つ。教わる側は、渡される知識や技術に敬意を持つ。
どちらが上でもない。互いにそう感じているときに、学びは最大化する。

教える側の敬意というのは、優しく接することではない。
わからないところで立ち止まっていること。
それでも机に向かっていること。
書いた答えを消して、書き直したこと。
あれをすごいと思えるかどうかである。
思えていない指導者は、必ず伝わる。子どもは、自分が敬意を持たれているかどうかを、驚くほど正確に嗅ぎ分ける。

「それ、知って何になるんですか」

同じ学校に、または塾に、同じ期間通う。
同じ教材を、同じ講師から教わる。
それでも成果はまったく違う。

その根っこに、能力ではなく態度があると感じている。

学べない子は、別に態度が悪いわけではない。
ただ、先生に対しても、テキストに対しても、その向こうにある学問そのものに対しても、敬意が薄い。

「それ、知って何になるんですか」

はっきり言わないまでも、こういう考えでいると、学びが薄くなる。

言い返すためではなく、受け取らないために言っている場合も多い。
教わるという行為は、その瞬間、知らない側に立つことを引き受ける行為。多少なりとも謙虚さが必要。
それを引き受けられないとき、人は相手の価値のほうを下げにいく。

知らないと言えない人、自認できない人は、学べない。

念のため書いておくと、これは礼儀の話ではない。
敬語を使う子が学べるわけでもないし、口の悪い子が学べないわけでもない。むしろ生意気なくらいの子がぐんぐん伸びることは、いくらでもある。
差が出るのは、差し出されたものを、いったん受け取ってみるかどうか。
受け取ってから捨てるのはいい。受け取らずに捨てる癖がつくと、そこで止まる。

大人も、まったく同じ

子どもだけの話ではない。

目の前に専門家がいるのに、自分の感覚だけを根拠にその人の発言を否定する大人がいる。
専門家がいつも正しいなどとは思っていない。
おかしいと思えば言えばいい。

ただ、その否定の仕方である。
中身に入って、どこがどう違うのかを言うのか。
それとも、立場や言い方で切って、中身には触れずに済ませるのか。

文末の「。」が怖いから読まない、という構えは、後者。
自信のある人物は自分を変えることにそれほど抵抗がないが、自信のない人物は今の自分にこだわる。
本当に自信があれば、人の意見に素直に耳を傾ける心の余裕があるはず。アドバイスを取り入れれば、もっと有能な自分になれる。それだけの話。

ここをこう変えたほうがいい、と言われて、自分を全否定されたかのように反応してしまうとき。
たぶん、その余裕のほうが失われている。

以前、「観察眼は、観察し続けている人にしか残らない」と書いた。 教わる力も、まったく同じ構造をしている。受け取り続けている人にしか残らない。

絵文字をがちゃがちゃ使う人を見ると清々しい

逆のことも見えてくる。

文末に「。」を打ち、絵文字を好きなだけ使い、まわりの目をまったく気にしていない人がいる。
そういう人を見ると、清々しい気持ちにさえなる。

若者からの同調圧力に屈していないというより、そもそもお構いなしで生きている。
自分の価値を、人からどう見られるかで測っていない。文章の冒頭の、「人格が商品のように扱われるあの市場」から、そもそも降りている。

ただ、正直に書いておくと、外から見分けはつかない。
まわりの目を気にしていないのか、単に自分のやり方に固執しているだけなのか。振る舞いとしては、どちらも同じに見える。

見分けがつくとすれば、たぶん一点だけである。
書き方を笑われても動じない人が、中身についての指摘はちゃんと受け取るかどうか。

この二つは両立する。というより、両立しているときがいちばん強い。
余裕がある人は、笑われても平気で、それでいて人の話はよく聞く。
実はこの二つは、同じ一つのものの裏表なのだろう。

余談だが、この同じ入試の大問二は、早見和真『アルプス席の母』。

野球部の父母会には、十数ページにわたる禁止事項がある。日傘禁止、間食禁止、試合中の単独での声出し禁止。 その全部を承知のうえで、母親は甲子園のアルプス席で叫んでしまう。

「航太郎ーっ! がんばれーっ!」

同じ試験の中に、同調圧力の構造分析と、それを破る瞬間が並んでいた。偶然かもしれないし、意図しているのかもしれないが、そんなことを想像しながら読むのは楽しい。
意図的に大問どうしの関係性を作っている学校は実は結構ある。

これを、十二歳が読んでいる

改めてすごいと思うのは、この文章を小学6年生が読んでいることである。

しかも佼成学園の設問は、読解で終わっていない。 最後の問八は、こう聞く。「上から目線」にならないために、あなたならどのような態度でアドバイスをしようと思いますか、と。

読み取らせたものを、そのまま自分の行動に返させている。 12歳が、他人にものを教えるときの自分の態度について、50字で考える。

中学受験の国語には、大人が読んでちょうどいい新書が、そのまま出てくる。強制力がなければ、十二歳がこの手の本を自分で選ぶことは、まずないだろう。
受験という装置の、これは明らかに副産物である。
そういう本、筆者、考え方に出会えていることに変わりはないのだから。

もっとも、この反転は武器としても覚えられてしまう。
「それ、上から目線じゃない?」と言われたときに、「それを言う君こそ上から目線だ」と返せてしまう。
そこまで含めて、大人が一緒に読んでおきたい文章だと思う。

敬意は、要求した瞬間に虚勢に変わる

もうひとつ、指導する側に刺さることを書いている。
尊大な態度は、自信のなさの表れである。虚勢を張らないと崩れてしまうから、必死に打ち消そうとしている、と。

ということは、教える側が「敬意を持て」と要求し始めた瞬間、それは虚勢に近づく。
敬意は要求するものではなく、払うに値するものに払い続けるもの。

だから、こちらがする行動は説教じゃない。
「知らない」と言える、そういう自分を受け入れて、開示できる様な関係をつくること。
そして、この人から教わりたいと思われ続けるだけの腕を鈍らせないこと・・・いや、腕だけじゃない。
人間力そのものを磨き続けるしかない。

学べる子は、才能で学んでいるのではない。
教わる態度を持っているから学べている。
そしてその態度は、こちらの態度に映る。

要求するのではなく、値し続ける。
そういう指導者でありたい。

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