本当は何がほしいのか
今回もあちこちに話が飛んでしまうであろうことが予想されます。
お許しください。
新聞でこんな記事をみつけました

ひとのあくびがうつる。このことは皆さんも思ったことがあるのではないでしょうか。我が家でもよく家族と笑いあう話題のひとつになっていました。
「ほらいまお母さん○○のあくびうつったね!」
しかしそのことについて、それは真実なのかどうしてなのかなど調べたことはありませんでした。
今回急に興味がでてググってみたらでてくるでてくる!
「あくびはうつる?」ことについて、こんなに書かれていたのですね。
あくびそのものについては、
かつての有力説とされていたあくびの理由として「脳の酸素不足」というのは近年の研究では説明がつかなくなってきており、
現代においての医学的見解としては脳の温度調整や酸素不足の調整、集中力の切り替えサインなどが考えられるようになってきたのだそうです。
そして「うつる」ことについては「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞が関わっているのではないかと言う説や(この細胞は、他人の行動や表情を見たときに、自分の脳内でも似た反応を起こす働きがあるもので、例えば誰かがレモンをかじるところをみて思わず自分の口の中に酸っぱさを感じるようなことなのだといいます。)
共感に関わる心理的な理由が原因とする説など、諸説あるらしいのですが、親しい人(友人や家族など)ほどあくびはうつりやすいのだとか!
心理的なことが関係していることや、しかも共感性がひそんでいる説に、今までの自分の体験を重ねることができ、スッキリするような思いがしました。
更に今回のこの記事!
母のあくびで胎児が伝染するなんて、これはもう「見ていない」のにどうして?と不思議でなりません。記事のなかでは「腹圧やホルモンなどの変化を感じ取っているとみられる」とありますが、こんな「あくび」という些細な変化までも感じ取れるなんて、お母さんの様々な変化がどれだけ胎児に影響しているのだろうかと改めて考えさせられました。
この話だけでもnote一つ書けるくらい興味深い内容なのですが、
もう一つ気になる記事が同じ日の新聞にあり、脱線していきます。
よろしければどうかおつきあいください。
気になった記事というのはこちらです

この「バター」という小説は有名ですね。我が家でも夫がkindleに、次男が学校の図書館で借りたなど話題になりました。

私は実際には小説はまだ読んでいないのですが、発売当時に話題になった時の主題をもとにこの記事を読み、更に「読んでみたい!読まなくては!」と思いを新たにしました。
さて、私はこの二つの記事から何を得たかと考えた時に自分でも意外なキーワードがでてきたことに気づきました。
一つ目のあくびの記事からは
「イタリアの大学」
二つ目の記事からは
「怒り」
あくびのメカニズムとか心理学的な内容にももちろん興味をもち、こんなことが知れてよかったなあという満足感みたいなものも感じたのですが、それはなんていうか、ちょっと物知りになったというようなくらいの喜びで、「あとでこどもたちにも話そっと♪」みたいな感じなんです。
でもここにさらっと書かれていた「イタリア・パルマ大などの研究チームが科学誌カレントバイオロジーに発表した」というところが一番興味をそそられました。
こういうことをイタリアでは研究しているのかーと思い、調べてみたところ、このあくびがうつるということについては、もうずっと以前からイタリアの他の大学でも研究がされていたようなことが読み取れる記事を目にすることが出来ました。
イタリアおもしろいなあ!
あくびがうつるということは、私も家族ももうずっと前から感じていたけれど、それをもっと深く掘り下げてとか「これってすごい発見なんじゃない?」とか思ったことはなかったことを考えると、そこからの発想に違いでこんなに大きな差がでるんだなというようなことを感じたのです。
発見がすごいことでなくてもいいのです。
何処に目を向けるかということで全然違う世界があるのだなという事を感じたのです。
もう一つの記事もそういうことなのです。
私の感じた「怒り」は、「こういう怒りがちゃんと受け止められる」という事に対する「真っ当な世界に対する安堵感」と「いつ自分にもむけられるかわからない不安」とを感じました。
この記事では出版社の倫理観について筆者が抗議したという内容なので、こんな新聞記事になる内容から自分事のように「私もこんな立場になったら」などというのはおかしな話です。
しかし私はそんな風にすぐ考え、以前から家族にもつい訴えかけてしまっていましたが、「お母さんにはこんなことおこるはずないでしょ」とあきれられていました。
だから最近はあまり口にしなくなったのですが、どうしても考えてしまいます。
自分の倫理観は大丈夫か?と問わずにはいられなくなるのです。そして更にはこの記事を読んだ時には筆者の怒りになぜかとても共感し、こんなふうに自分の怒りを「ちゃんと」受け止めてもらえなかった経験があったというようなことが、その感情だけが私の心のどこかからか引っ張り出されるような思いがしたのです。なんともいえないような気持ちになりました。
こんなことはなかなか人に説明ができません。
でも、なんだかとても大事なことのような気がして、すぐに消えないように何度も頭の中で反復してしまいます。
子どものころお祭りで
金魚すくいをみてやりたいと思ったのは金魚が欲しかったからだったのだろうか。
この作品を観た時、そんなことを考えました。

金魚をすくって水を入れたビニール袋にいれてもらうと、とても嬉しくて何度も見ながら帰宅。
だけど、家にある洗面器にうつすと、なんだかもう気がすんでしまったのでした。
色のついたせまい洗面器は室内に置かれ、その中のほとんど自由に泳げずにいる金魚は、もう私の気持ちをひきつけなくなっていたのでした。
金魚がつかまえられたから満足したのだとその時は思っていたのですが、いまこの久保さんの作品をみながら、「これだあ」と思うのです。
欲しかったのは、水と光と金魚だったんだ
あの水の中で、光の中で
のびのびと泳ぐ金魚の景色すべてが欲しかったのだと気づきました。
どうでもいいのかもしれないとも思うのですが、
こういうことを考えることがとても好きです。
