北海道ゆかりの人たち28位 伊福部 昭
伊福部 昭(いふくべ あきら)

1914(大正3)年~2006(平成18)年 享年91歳
映画音楽 現代音楽作曲家
ゴジラ・座頭市物語・大魔神・ビルマの竪琴など日本映画の名作作曲家
独特のリズム・低音楽器の多用・西洋音楽にない和声の使用などで、独自の音楽世界を築きました。映画音楽でも半世紀にわたり活躍、昭和29年公開の「ゴジラ」をはじめ、「座頭市」シリーズや「眠狂四郎多情剣」など300本にものぼる日本映画を音楽で支えた。
伊福部家は大己貴命(オオナムチ=大国主(オオクニヌシ〉)を宗祖する因幡の古代豪族であり、武内宿禰(たけのうちのすくね)を祭り、因幡國一の宮・宇倍神社の神官を明治維新に至るまで代々務めてきました。伊福部家は昭の代で67代続く家系です。
生い立ち
1914(大正3)年、北海道釧路幣舞町にて釧路警察署署長を務める父利三と母キワの三男(7番目)として生まれました。数年おきに各地で警察署長を務める父に伴って一家も移住し、伊福部は小学校を転々とする少年期を過ごしました。
小学3年の時に、父が官選村長として十勝の音更(おとふけ)村村長に就任(任期は3期12年に及んだ)したのを機に家族と共に音更に移り、12歳までを過ごしました。この音更での体験が、彼の音楽形成に大きな影響を与えるものとなりました。
音更にはアイヌ民族の集落がありました。アイヌと親しく交流するようになり、この時接したアイヌの歌や踊りをはじめとする伝承芸能、各地から集まる開拓者が歌う様々な民謡により自身の音楽の原体験を得、特にアイヌの叙事音楽「シノッチャ」からは生涯忘れえない深い感銘を受け、同時にその後の作曲家としての人生に決定的影響を与えたといいます。
大正15年、慣れ親しんだ音更を離れ、札幌の中学校に入学。大自然の中から一転、都会の生活に入りたちまち劣等感と屈辱を味わうことになります。
思春期に大きく傷つき、都会に相応しい文化人になりたいと必死に絵画とバイオリンを学び始めます。特にバイオリンは性に合い、独学で練習し学内の演奏会でバッハを披露するほどになります。
1932(昭和7)年、北大農学部へ進学し、早々に入部した北大交響楽団で18歳の伊福部はいきなり第一バイオリンの首席奏者に任命されます。
昭和8年「ピアノ組曲」を作曲(昭和13年、ヴェネチア国際現代音楽祭に入選)。
昭和9年、三浦淳史(後の音楽評論家)、早坂文雄(後の作曲家)らと「新音楽連盟」を結成。三浦淳史とは札幌二中(現 札幌西高)在学中に出会い、作曲を勧められ、密かに作品の創作を始めたという。
伊福部は三浦のことを称して、「(自分を〉作曲と言う地獄に陥れたメフィストフェレスである」と揶揄します。又、同じく札幌二中時代には、同級の船山馨(後の作家)、一級上の佐藤忠良(後の彫刻家)と出会い、共に絵画クラブ「めばえ会」属し展覧会などを行い、伊福部は主に静物画を描いていました。
後の伊福部の言では、作曲家にならなければ絵描きになっていた、とも言い、独特のイラストレーションの才能はこの頃養われていたものでした。
演奏公演や作曲活動に明け暮れた大学生活でしたが、卒業後は道庁の林務官として厚岸森林事務所に勤務します。
松の苗を育て、冬は木を切って売る作業をしながら、まだ日本はない大規模なオーケストラによる「日本狂詩曲」を完成させます。これをパリの音楽コンクールに応募しようとすると日本国内の一次予選で非難の声があがります。当時はヨーロッパ的な音楽以外は認めないという風潮がありました。しかし、一人の作曲家が戒め無事に送られました。
昭和10年の年の瀬。一流音楽コンクールのチェレブニン賞を受賞したのです。その知らせを厚岸森林事務所で伊福部は聞きました。
「ついに他人から評価された。誰にも弟子入りせず、音楽学校にも行かずに、ずっと自分の作品に不安があった」
後に伊福部は当時のことを振り返って次のように語っています。
あの頃の教養というのは、いかにヨーロッパ化されているかということでした。ですが私は自分の国のものを大切にしたいと考えていました。地理的にも歴史的にも全く異なるヨーロッパの古い音楽を、日本で聴いて涙を流すことが私に言わせれば不自然なんです。近所の盆踊りとか民謡がわからなくて、ベートーベンやモーツァルトがわかるなんていうのはおかしい。自分が日本人である以上、自分の感性に正直であればどうしても民族的になる、というのが私の持論なんです。
昭和11年、チェレブニン賞の本人が伊福部に会いにやってきて、作曲法や管弦楽法を親身に教えてくれました。チェレブニンの教えは伊福部の才能を大きく開花させました。そうして、「君はプロになるべきだ」と薦めます。しかし、彼がプロの作曲家として立ち上がるまでには、それから10年の歳月が必要でした。
太平洋戦争が始まり戦時科学研究院員となり、飛行機用強化木の研究を命じられ、軍部からは軍国日本を鼓舞する作曲依頼が来るようになります。
しかし、終戦を迎えると職はなくなり、伊福部は妻と生まれたばかりの娘を抱え露頭に迷うことになりました。
昭和21年、32歳でバイオリン片手に妻と子を伴って上京します。上京間も無く、芸大の学長から講師の話がきました。学長は教員免許の資格など要りません。新しい音楽が必要なのですと言われて「作曲法」と「管弦楽法」の講義を持つことになりました。
昭和22年、今度は映画音楽の依頼が舞い込みます。三船敏郎主演の「銀嶺の果て」(谷口千吉監督作品)でした。

それまで日本映画音楽は単なるBGMに過ぎませんでした。山で曲を書いてきた男ということで抜擢されました。
デビュー作にもかかわらず、いきなり50人ものフルオーケストラで見事な出来栄えでした。以後、精力的に映画音楽を作り続けます。「きけわだつみのこえ」「原爆の子」「蟹工船」など、毎年10作品、多い時はひと晩で20曲ほど書きました。
ゴジラの登場
「この映画はおそらく音楽によって成功が左右されるだろう。観客が圧倒される場面では同時に圧倒的な音楽が必要だ。この大怪獣映画に相応しい曲を書けるのは伊福部しかいない」
こうして40歳の伊福部に「ゴジラ」の脚本が届けられました。
「歌において人が最も忘れやすいのは歌詞です。次はメロディ。しかし、リズムの印象は最後まで残っているものなのです。この単調なリズムこそがゴジラの存在感を引き立てるはずです」この曲は、誰が聞いても忘れられない日本における映画音楽の元となりました。
昭和31年、「ビルマの竪琴」、「真昼の暗黒街」「鬼火」は、毎日映画コンクール音楽賞、イタリアのサン・ジョルジォ賞を受賞します。
昭和37年、48歳で「座頭市物語」、51歳で「怪獣大戦争」、52歳「大魔神」など、映画音楽だけでも300を超える作品を残しました。
