備忘録(198X)〜タバスコ
中学生の頃のことだ。父が【タバスコ】という調味料を買ってきた。
その存在こそ知ってはいたが、我が家の食卓に“赤い刺客”がやってきたのは、それが初めてのことだった。
*
「ほれ見れ、スパゲティにもピザトーストにも合うんだべ。……ほれ、うめぇど」
父は母特製の鉄板ミートソースにタバスコを景気よく振りかけ、実に美味そうに頬張っていた。
私も折良く、味覚が“大人の階段”を登り始めていた時期である。あの刺激的な辛味と酸味の虜になるのに、時間はかからなかった。以来、親子して即席麺から焼きそばに至るまで、あらゆるものにタバスコを投入する“激辛愛好家”への道を突き進み始めたのである。
父と競うように瓶を空にする日々だったが、ある日、ついに『大事件』が起きた。
昼食のナポリタンを前にした私は、いつものようにタバスコの瓶を手に取り、勢いよく右腕を振った。しかし、その日に限って蓋の締まりが甘かったのか、あるいは私のスイングが鋭すぎたのか。
次の瞬間、「ボトボト……ボトッ!」という鈍い音とともに、瓶の中身の半分ほどがナポリタンの山へと一気にダイブしたのだ。
鮮やかなオレンジ色だったナポリタンは、瞬く間に“禍々しい深紅”へと変貌を遂げた。私は戦慄したが、ふと横を見ると、父はテレビのニュース番組に夢中になっている。
悪魔が耳元で囁いたのは、その時だ。
この地獄を啜る恐怖か、あるいは父の目を盗むスリルか。空腹と混乱で理性が焼き切れた私は、音を立てないよう迅速に、かつ隠密に、手元にある“真紅のマグマ”と、まだ手付かずだった父の皿を「サササっ……」と入れ替えた。
父の皿はまだ平和なオレンジ色を保っている。一方で父の前に差し出された私の皿には、もはや食品とは思えないどす黒い赤が鎮座していた。幸い、父はテレビで流れる衝撃映像に釘付けで、おまけに最近始まった老眼のせいか、手元の色彩変化には無頓着だった。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく鳴っていたが、父がこちらを振り返る気配はない。
数分後、ようやくテレビから目を離した父は、手慣れた手つきでタバスコを三、四回パパッと追い打ちで振りかけると、何の疑いもなくフォークでナポリタンを豪快に巻き取り、口へと放り込んだ。
……その瞬間、父の動きがピタリと止まった。
石像のように固まったまま、咀嚼する顎だけが微かに震えている。数秒の不気味な静寂の後、それはやってきた。
「……ッ!? ぬッ!?ぬゎんぢゃこりゃあぁ~っ!!」
直後、父の顔は見たこともないほど真っ赤に沸騰し、松田優作扮する“ジーパン刑事”さながらの絶叫がリビングに響き渡った。
涙と鼻水を全開放しながらキッチンへ猛ダッシュし、蛇口に口を突きつけて水道水と牛乳を交互に胃袋へ流し込む。その地獄絵図のような光景を、私はただ“罪悪感”と、“バレたら確実にシメられる”という恐怖に震えながら見守るしかなかった。
しばらくして、ようやく口の中の消火活動に成功した父は、殆ど空になったタバスコの瓶をそっと横倒しにし、震える声でこう宣言した。
「……引退だ。オレの舌は、今日をもって刺激物から卒業する……!」
結局、皿をすり替えたという隠蔽工作は闇に葬られたが、父の受けたショックは相当なものだったらしい。以来、我が家の買い物リストから【タバスコ】の文字が永遠に消え去ったのは、言うまでもない。
*
あの日以来、我が家の食卓から鮮やかな赤色は失われ、私の心には消えない黒いシミのような罪悪感が残った。
