飼い犬に手を噛まれた
「飼い犬に手を噛まれる」という諺がある。
恩を仇で返される、という意味だ。
しかし、文字通り飼い犬に手を噛まれると、実はとても痛い。
うちの柴犬は、もともと甘噛みがひどい。
甘噛みとはいうものの、こちらからすれば少しも甘くない。何か気に入らないことがあると、すぐに手や足に噛みついてくる。
それでも今までは、まあ、遊びの一種だろうと思っていた。
ところが、その日は違った。
散歩から帰ってきた夕刻のことである。
いつものように、お尻を拭き、手と足も拭いてやろうとした。
ところが、私がたまたま少し手間取った。
すると柴犬は、見るからに不機嫌になった。
そして突然、
ガブリ。
ときた。
「痛っ!」
と思う間もなく、左手から血が流れ始めた。
それも、バラエティ番組なら「特殊メイクではありません」とテロップが出そうなくらい、派手に出た。
みるみるうちに左手が血まみれになった。
ところがところが妻は車を運転できない。
仕方がないので、私は血だるまのまま、自分で車を運転して整形外科へ向かった。
途中、信号待ちでふと左手を見ると、かなりの量の血が出ている。
病院に着くと、医師は私の手を見るなり、
「派手にやられましたね」
と言った。
傷の手当てをし、レントゲンを撮る。
幸い骨には異常がなかった。
ただし、
「犬の口は雑菌がいっぱいなので、抗生物質の点滴をお勧めします」
とのことだった。
私はそこで、少し迷った。
点滴までしなくても大丈夫だろう。
たかが犬に噛まれただけである。
そう思って、飲み薬と塗り薬だけをもらって帰った。
家に着くと、例の柴犬が玄関まで迎えに来た。
私の左手を見る。
そして、何事もなかったような顔をしている。
「お前なあ……」
私は言った。
すると柴犬は、少し首を傾げた。
反省しているようにも見える。
だが、たぶん反省はしていない。
そもそも、犬に「反省」という概念があるのかどうかも怪しい。
私はしばらく犬の顔を眺めた。
可愛がってやっているのに、なんてことだ。
餌もやっている。
散歩にも連れて行っている。
雨の日だって散歩に行く。
それなのに、こちらがちょっとお尻を拭くのに手間取っただけで、血が出るほど噛まれる。
「飼い犬に手を噛まれる」とは、まさにこのことだ。
ただ、考えてみると、私は少し勘違いしていたのかもしれない。
「飼い犬」という言葉から、私は勝手に「飼い主に忠実な犬」を想像していた。
しかし、うちの犬にとって私は、
飼い主ではなく、
散歩係であり、
食事係であり、
尻拭き係なのだ。
そう考えると、今回の事件も少し納得がいく。
どうやら私は、私を主人だと思っていた相手から噛まれたのではない。
犬は使用人に噛みついただけなのだ。
それでも、これを最後にしてほしいものだ。
