エッセイ 不自由の自由
自分は基本的に、自由に生きています。
自分はずっと一人で生きているため、ほとんど誰からも邪魔されることがありません。
だから、自分は今まさに自由なのです。
そして、その自由の力でもって、時に楽しく、時に苦しいといった感じで、自由な人生を送っています。
しかしだからこそ、自由な日々には、ある種の不自由な要素も必要なのだと思っています。
今現在、自分はまったくネットを使うことなく生きていますが、これはある意味不自由なことです。
しかし自分はわざと、この、「電子機器をまったく使わないという不自由」を、自分に対して制約として、自発的にかけているのです。
なぜなら、電子機器を使い始めた瞬間に、不安になってしまうからです。
電子機器を使っているときに感じる問題が、指先一つで事実上なんでもできてしまうということです。
もちろん、このネットの時代は不自由だと思う人だっているでしょう。
ネットの空間では、細心の注意を払って発言しないことには炎上してしまう恐れがあります。
このことから、ネットがそもそも自由であるはずがないと思う人だっているかもしれません。
しかし、そもそも、自ら何も投稿しなかったら、どうなるでしょうか?
ある人が普段、スマホやパソコンを使って何をやっているかは、投稿しない限り、まったくわかりません。
これは完全にプライベートなものであり、ブラックボックスなのです。
そんなときあなたは、この時代は監視資本主義の時代であり、ネットのシステムそのものが人々を追跡していると思うかもしれませんが、それはおそらく一般人とはあまり関係のないことでしょう。
というのも、その追跡の目的は広告を売ることだからです。
だから、スマホやパソコンで個人が何をやったとしても、投稿さえしなかったら、つまりネットでの行動が他人に知られない限り、その人は自由なのです。
というわけで、電子機器を使うこと自体は自由だと思いますが、だからこそ、とても危ないのではないかと考えられます。
なぜなら、なんでもできてしまうからです。
ネット上にはあらゆるサービスがあります。
それはつまり、手段が無限に供給されているということです。
しかもネットはそもそも速いですから、あらゆるデジタルな行動を、指先一つで瞬時に、なんでもやることができます。
これはある意味、恐ろしいことのように思えます。
いいこともできる一方で、悪いこともできてしまうわけです。
そしてこのことに関しては、行動そのものが他人に認知されない限り自由ですから、何をしようが個人の自由なのです。
これは恐ろしいことなのではないでしょうか。
このような状況の下で生きていると、だんだんと認識が混乱し始めるような気がします。
手段が多すぎて、行動の目的が不明瞭になり、決断が拡散してしまいます。
だから自分は普段、電子機器を一切使わないという制約を、与えています。
とはいえもちろん、作業をするのに必要なときには電子機器を使いますが、それ以外の場合においてはまったく使いません。
そしてそうであったとしても、文章の執筆をする分には何も問題ないし、読書もできますから、自分は日々の日常生活において、基本的には電子機器を使ってはならないという不自由を、自らに課しているのです。
以前湯川秀樹は、創造性に対しては自己制御が必要であると述べました。
これはつまり、自由には不自由も必要だということです。
そして、ある程度の不自由が課されているからこそ、自由の力が奮発するのです。
やはり、自由の力を発揮するには、ある程度の不自由さ、あるいは不便さというものは大事になってきます。
今現在、スマホやパソコンを使うことで無限の手段が供給され、それを使用する可能性があるという事態が生じている以上、自由については十分気をつけなければならないと思っています。
