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【芸術の末っ子、映画】〈往復書簡〉#01 画面の外では何が起きているのか?

この連載は、映画を研究しながら映像を中心に制作を行なっているわたし小手川将と、画家であり絵画の研究者でもある菊池遼さんとの往復書簡です。わたしはロシア・ソヴィエト映画を専門にしていて、いまは主にアンドレイ・タルコフスキーという映画監督について研究しています。

タイトルに「芸術の末っ子」と冠しているのは、絵画に比べて映画がまだ若いメディアだからです。とはいえ、リッチョット・カニュードが映画を「第七芸術」と呼んでからすでに一世紀以上が過ぎました。映画の幼年期はとうに終わり、ゲームも生まれて末子ですらなくなりつつあるのですが、それでもまだまだ短い歴史しか持たない映画を絵画と並べてみることで、たとえば「見ること」をめぐる問いが、思いがけない角度から照らし出されるかもしれない。そんなふうに期待したわたしの思いつきに、お相手の菊池さんは快くのってくださりました。こうして菊池さんに手紙を出せることを嬉しく思います。


【芸術の末っ子、映画】〈往復書簡〉#01 画面の外では何が起きているのか?

菊池遼さんへ
こんにちは。最近『アバター ファイヤー・アンド・アッシュ』を観ました。壮大な世界観、グラフィックの美しさ、実写とCGの境目がもはやわからないような映像に、素直に圧倒されました。 

さて、早速ですが、映画と絵画はどこが違うのか、というところから、話を始めたいと思います。

閉じるフレーム、開くスクリーン

映画と絵画はどこが違うのか。そのように問いを立てたとき、すぐに思い浮かぶのは、映画批評家アンドレ・バザンの有名な定式です。曰く、絵画のフレームは「求心的」であり、映画のスクリーンは「遠心的」である[1]。どういうことでしょうか。バザンが言っていることを要約すると、絵画のフレームはその内部に自足した世界をつくり、絵画の世界とは異質なものとして外部を切り分けるように機能する。それに対して、映画のスクリーンは窓のようなもので、たとえば登場人物が画面からいなくなってもその外側のどこかにいると思わせるような性質を持っている、ということです。こうした性質を持つ映画のスクリーンは、現実を切り取っているのではなく、その一部を露わにする「マスク」である、とバザンは述べています。

これは基本的にどんな映画についても当てはまります。ある映画で、恋人同士が喧嘩する場面があって、彼女が怒って部屋から出ていったとしても、観客はそのひとの存在がまるごと消滅したとは思わないでしょう。部屋に取り残された男を映している画面に、車やバイクの走行音が聞こえてくれば、この家は交通量の多い大通りに面しているのかなと想像できる。画面には映っていないけれど、スクリーンの外には無限に世界が広がっている。

「オフスクリーン」の使い方

映画用語では、画面に映らない空間を「オフスクリーン」と言います。どんな映画でも、スクリーンの内外を出入りする人物やモノの移動を用いたり、画面外に視線をおくる人物を映したりするなどしてオフスクリーンを活用しています。冒頭で触れた『アバター』シリーズも、昨年メガヒットした『鬼滅の刃 無限城編』や『国宝』のようなエンターテイメント大作もそうです。でも、こうした作品を楽しむ多くの観客は、画面外の世界がどうなっているかを意識しているわけではないでしょう。物語に没入しながら、画面に映っている出来事のつながりを追っていき、悲劇が降りかかる登場人物に同情したり、見事な伏線回収に呆気にとられたりする。

実際、こうしたエンターテイメント作品においてはたいてい、オフスクリーンは物語を語るための手段として機能しています。たとえば、殺人の瞬間を直接映さずに、被害者の悲鳴だけを聞かせるなどは、サスペンス映画でよく使われる手法です。画面に映らないものを暗示することで、ドラマティックな効果を増幅させる──これがオフスクリーンの一般的な使い方です。

聞こえる声、見えない姿

けれども、他方で、オフスクリーンを物語のためではなく、作品全体を構成する原理のようなものとして用いる映画もあります。わたしが研究しているアンドレイ・タルコフスキーの『鏡』(1975)は、そのような作品のひとつです。

この映画は、断片的なエピソードが一見脈絡なく連なり、同じ俳優が異なる時代の異なる人物を演じていて、さまざまな時間軸が複雑に錯綜する作品です。多くの観客が困惑するに違いないこの映画には、「作者の声」という不思議な存在がいます(未見の方は、ナレーションのようなものと思っていただければ、ひとまずは問題ありません)。『鏡』の物語がこの「作者の声」の話者による回想であることは、早い段階で示されます。しかし、物語の中心的な語り手であるはずの「作者の声」が発せられる位置は、映画を通じて不確定なままです。わたしたち観客には、かれの声は聞こえるのに、その姿は見えない。要するに、この声の話者はオフスクリーンに位置づけられている、というわけです。かれは他の登場人物のように画面に映されることなく、ときに登場人物と会話し、ときに物語全体を鳥瞰するかのような言葉を紡ぎます。「作者の声」は、回想し、語り、映画の世界全体を統御するナレーターのようであると同時に、オフスクリーンに配置される登場人物のひとりでもある。

『鏡』は、監督であるタルコフスキー自身の記憶をもとにした自伝的な作品と言われています。実際、過去を思い出すとき、わたしたちは出来事を明確な順序で再現できるわけではありません。記憶は、断片的で、前後のつながりが不明瞭で、確かなことと不確かなことの境界はあいまいになる。回想する「わたし」は、過去の出来事の内部にいると同時に、それを現在から振り返って眺めてもいる。『鏡』という作品は、オフスクリーンという領域がつねに孕んでいる不確定性を、回想という主題と結びつけることで、作品の構造そのものに組み込んでいるのだと解釈できます。

オフスクリーンを意識すること

絵画ではどうでしょうか。菊池さんは、絵画を見るときに、描かれていないものへの想像力を喚起されるような経験をしたことはあるでしょうか。わたしは、映画を見ることの魅力のひとつは、このような「外」に無限に広がる世界への想像力を刺激してくれるところにあると思っています。映画を鑑賞する際に、画面に映っていない空間を想像で補うこと──この働きは、ふだんは無意識のうちに行われています。しかし、オフスクリーンについて意識してみると、『鏡』のような作品でなくても、いろいろな映画が今までとは違って見えてくるかもしれません。

たとえば、ダリオ・アルジェント『サスペリアPART2/紅い深淵』(1975)における、ジョルダーニ教授の殺害シーンを見てみましょう。このシークエンスは、ジョルダーニが自宅の書斎に戻るところから始まります。それと並行して、開かれたドアや大きな窓が映されるので、外部から何者かが侵入する可能性を観客は想像させられます。しかも、書斎に着いた教授の姿が窓越しに捉えられるのです。このフレーミングによって、観客は画面の外に誰かがいること──つまり、ジョルダーニが部屋の外から見られていることを察知する。

【写真1】外から見られていることを観客に察知させるフレーミング

誰かの視線を感じたのか、ジョルダーニは警戒して、ナイフを取り出し、室内をきょろきょろと見回す。どんどん緊張感が高まり、観客は殺人者の出現を予期する。ところが、窓の外からまず画面に現れるのは殺人者ではなく、不気味に笑う機械仕掛けの人形です。

【写真2】画面に現れる人形


一直線に向かってくる人形を、ジョルダーニが一撃で破壊する。脅威は去ったかに思えます。安堵の笑みを浮かべるジョルダーニの表情を捉えるショットが映される。

【写真3】人形を破壊した直後のショット

しかし、突如、画面の右端、カーテンの背後から本物の殺人者が飛び出してくる。人形は囮に過ぎなかったのです。観客がオフスクリーンに想像していた恐ろしい何かは、予想とは異なるかたちで、予想とは異なる場所から、画面内に侵入してくる。観客が画面に映らないものをあれこれ想像してしまうからこそ、それを裏切る演出が可能になるわけです。 

オフスクリーンを意識することは、映画が「何を見せているか」だけでなく「何を見せていないか」を問うことにつながります。作り手がどこにカメラを配置し、何を映し、何を映さないことを選んだのか。その選択によって想像を誘導されたり、裏切られたりしながら、わたしたちは映画を見ています。そして、そのように想像させられている観客自身もまた、スクリーンの外側にいます。映画を見るという経験は、画面の外にいる者が、画面の外を想像させられながら、画面内に映される出来事に魅了される、という構造を持っていると言えるでしょう。

往復書簡のきっかけ

実は、この往復書簡を始めようと思ったきっかけのひとつは、菊池さんの個展「柔らかい本質」を訪れたことでした。そこで展示されていた〈aporia〉と題されたシリーズは、鑑賞者の位置によって異なる文言が浮かび上がる仕掛けになっていました。正面から見ると読める文字が、横に移動すると消え、別の文字が現れる。どこに立つかによって、見えるものが変わる。

【写真4】菊池遼《aporia #1》パネルにアクリル絵具 2025年

ここで、冒頭に述べたバザンの主張に立ち戻ってみます。絵画のフレームは「求心的」であり、その内部に自足した世界を閉じ込める──しかし、菊池さんの作品群の前に立つと、この定式に疑問が生じます。〈aporia〉シリーズは、フレームの内部に収められた画面だけで完結するようなものではありません。鑑賞者がみずからの身体を動かし、位置を変えることではじめて、作品の全体が経験されるようになっています。菊池さんは、フレームの「外部」──鑑賞者が立っている空間──を、絵画の意味を構成する要素として意図的に組み込んでいますね。

映画において、画面に映っているものは、想像される画面外の空間と結びついている。絵画において──少なくとも菊池さんの作品においては──フレームの内部に見えているものは、フレームの外部に立つ鑑賞者の身体を巻き込んでいる。媒体は異なりますが、いずれにおいても、見ることのうちに、見えているものだけでは完結しない何かが入り込んでいるように思われます。

菊池さんは、絵画のフレームについて、あるいは絵画がつくり出す空間について、どのようにお考えでしょうか。絵画においても、フレームの外を想像させるような作品、あるいは見えているものと見えていないものの関係を問うような作品はあるでしょうか。絵画を見るときの鑑賞者の想像力について、何か考えていることがあれば、それも聞いてみたいです。

ずいぶん大風呂敷を広げてしまった気がしますが、ひとまず、このように問いを投げかけることで、最初の手紙を閉じたいと思います。

小手川将

[1]アンドレ・バザン『映画とは何か(上)』野崎歓、大原宣久、谷本道昭訳、岩波書店、2015年、321頁。


著者プロフィール

小手川将
1993年生まれ。専門は映画論、表象文化論。現在の主な研究対象はロシア・ソヴィエト映画、とりわけアンドレイ・タルコフスキーについて。研究と並行して、映画制作など、イメージと経験の関係をめぐる創作活動にも取り組んでいる。論文に「観察、リズム、映画の生──アンドレイ・タルコフスキー『映像のポエジア』の映画論における両義性」(『超域文化科学紀要』26号、2021年)、“Кинематографическое чудо: репрезентация трансцендентного через внекадровое пространство в фильме А. Тарковского «Сталкер»” Чудо как эстетическая категория в литературе и кино. Сборник научных статей (2025)など。監督作品『籠城』が2022年に完成。

菊池遼
1991年生まれ。画家。博士(造形)。鑑賞距離に応じて作品の見え方の変化する視覚的な効果を用いて、人の知覚や物事の意味を揺さぶる絵画作品を制作。近年の論文に「古典主義的アカデミー絵画における物質をめぐる美学について」(『造形研究論集2025年度』、2025年)、「鑑賞距離から考察する絵画の造形性──〈void〉シリーズの分析を中心に──」(博士論文、2023年)など。


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