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第二章 「美容師」

あなたはなぜ美容師になったのですか——。

幼少期、父の転勤で海外にいました。当時の海外では新たな産業が次々と生まれ、それまでの終身雇用という概念が崩れ、技術と経験のある人がいつでも転職できる時代へと移り変わっていました。その中で母は新たな時代の到来を予見し、これからは大学を卒業することが当たり前になり、その先で資格や技術を身につけるべきだと考えたようです。

両親が離婚して母と子で日本に戻ってからは、私たちが将来、独立自尊できる環境を整えることを常に念頭に置いて育てられたように思います。母一人の生活でしたから、生活の基盤には自然と私たちの手も必要となり、家事全般の手伝いは当たり前のようにこなしていました。私は料理が好きで、率先して教わっていました。そんな私を見て「一流の料理人になれる」とおだてられ、その気になって料理を続ける。今思えば、楽しく手伝いをさせる母の秘訣だったのでしょう。小学生の頃は将来料理人になるものだと本気で思っていて、夕食作りは私の役目でした。職業というものを初めて意識した時期です。今でも主婦が作るような料理なら一通り作れます。家事全般をやらせることは、整理整頓の考え方や手先の発達など、子供にとって非常に有用なことだと思います。

中学生になると、私も少し色気づき、若干やんちゃな時期を迎えます。そこでまた母から一言。「あなたは手先が器用でおしゃれさんだから、美容師という職業はどう?私が行きたくなるような美容室がないから、あなたが作りなさい」

ちょうどその頃、ヴィダルサスーンのドキュメンタリー番組を見る機会があり、世界を舞台にした美容師の凄さに感動した記憶があります。技術を習得すれば私にもできる——何の裏付けもない自信でした。今思えば、「自信とは、自らが自分自身を信じること」と言えます。

母一人の生活でしたから、早く自立して妹弟の将来的な支えになりたいと考えていました。今思えば、家族のために何らかの形で役に立とうという考え方が、その後の私にとって良い方向に働いたのだと思います。自分のためだけに夢を追っていたなら、今の私はなかったでしょう。「家族のため、社員のため、お客様のために活きる」を、私は自らの戒めとしています。

先ほど、やんちゃな時期があったと書きました。誰にでも思春期はあるものですが、私にも数年間、母を困らせる時期がありました。

高校進学後、新たな知識との出会いを楽しみにしていた私ですが、アテが外れます。中学時代の勉強の延長のような内容が多く、新しい知識だという実感が持てず、興味を失ってしまったのです。所詮子供の発想ですが、単純に「面白くない」と感じてしまいました。

思春期のせいにするのも変ですが、学校に興味を持てない私は当然「サボり」始めます。程よくサボっていればよかったのですが、2年生最後の通信簿は——

遅刻数:120日/早退数:130日/欠席数:30日。

はい、留年決定です。

学校に行かない時間は何をしていたかというと、ほとんど喫茶店で一日中本を読んでいました。学校が終わる時間帯からは家庭教師のアルバイトをしていたので、中学生の家庭を訪ねて勉強を教えていました。終わるのが午後10時頃で、そこから友達の家で数時間過ごす。怠惰な時間を過ごしていた時期です。

普通に通っても面白くない学校で、留年して下級生と同じクラスで授業を受ける。基本的には不良でしたから、かつて下級生だった同級生も気を使います。自業自得ですが居場所がなく、2年生2回目の夏に自主退学しました。

今になれば、同級生が2学年分いることになります。同級生の数が単純に倍になったとも言えます。美容室を開業した時には、その同級生たちが怖いもの見たさで多数来店してくれ、感謝しきれません。留年時の担任の先生もご来店くださり、開口一番「よく更生したな」。よほど悪い印象を持たれていたようで、真面目に働く姿を見て喜んでいただけました。本当に申し訳ありませんでした。

退学後、母には内緒で東京の美容室に住み込みで働ける場所を探し、母の制止も聞かず家を出ました。中卒による美容師見習い人生の始まりです。

世間の水は冷たく、中卒のまま人生の荒波を泳ぎ切る不安の中、半年が過ぎていきました。ただ時間が過ぎていく恐怖、成長が感じられない日々。美容師の仕事自体には習得する楽しみがありましたが、何か物足りない。アカデミックな知識に触れられない寂しさも抱えていました。

そんな時、母から電話がかかってきました。「そろそろ世の中が分かりましたか。帰って来なさい」。私は帰りました。

ここまでがやんちゃな時期です。自分自身のためだけに生きてしまうと家族に多大な迷惑をかけてしまう——そう痛感し、もう二度と迷惑をかけまいと、家族のために生きることを誓った時期でもあります。

さて、ここからが大変です。3年間のモラトリアムが生んだ、ただの中卒の小僧。

母から出された課題は「父親に会う時に恥ずかしくない学歴を身につけなさい」というものでした。別れた父は京都大学卒業。母の設定するハードルは、それはもう高いものでした。「父とは違う道を選びなさい」とも言われました。父は上場企業の研究員から大学教授になった人です。課題はともかく、高校を卒業できなければ次はありません。

選択肢は、高校受験、夜間定時制への編入、通信制高校のいずれかでした。母からの信用がゼロだった私は、ともかく確実に通える選択をするしかなく、定時制へ編入することにしました。2年生から編入できたので、残り3年間を通うことになります。

最初の高校が進学校だったこともあり、入学するまでは勉強ができるほうでした。家庭教師のアルバイトでも高校受験生を教えていたので、知識は十分にありました。定時制での勉強内容はさほどレベルが高くなく、ほぼ知っている内容です。出席さえしていれば単位は取れる状態でしたが、この「出席する時間」そのものが非常に長く感じられ、これが3年間続くことに前途を暗く感じ、憂鬱に感じていた時期でした。

その頃の私は、もう一つの選択肢があることを知りませんでした。この環境から何とか前に進みたいと調べる中で、その存在を知ったのです。大学入試資格検定、いわゆる「大検」です。今ならネットで簡単に調べられますが、当時は県庁まで足を運んで教えていただきました。

試験まであと3ヶ月という時期でした。ここから現状打破のための猛勉強が始まります。10科目ほどを受けて合格しなければ次がない、今の環境を変えることができない。必死でした。教科書を集め、独学で紐解き、記憶できるだけ詰め込んで試験に臨みました。

結果、何とか合格。やっと大学を受けることができる。一浪した友人たちと同じ土俵に立てる。この数年間の怠惰な時間が無駄にならずに済んだと、心底ホッとしたのを覚えています。後にこの経験が仕事になるとは、当時は思いもしませんでした。

大学入学後、大学の学びとは別に資格を取得することは必然だと考えていたので、経験のある美容師の仕事を選びました。数ヶ月経験した美容師の仕事は、手荒れなどの大変さもありましたが、それ以上に魅力的でやりがいのある仕事だと感じていました。

大学卒業の次の課題が起業です。「自分自身は何ができるのか」が重要になります。世間ではよく「何がやりたいのか」と問われますが、それには本質が抜けていると私は思います。できることを積み重ねなければ、「やりたいこと」は実現できません。

学士になり、人様に何ができるかと問われれば、ただの大学の卒業生に過ぎません。社会が必要としている資格や技術を身につけて初めて、人は必要とされる存在になります。私に何ができるのか——「学士であり、美容師である」。

私は24歳で美容室を開業することを決めました。

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