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​「何もしなくていい」は愛か、無関心か。夫の言葉を認知の窓から捉え直す

​「私って、この人にとって何なんだろう」

長いことそんな暗闇の中にいた私は、最近、ある思考実験を始めた。

夫は、私を褒めない。

「可愛い」と言われた記憶もほとんどない。

出かける時、化粧をしてから…と言っても、「しなくてもいいだろう」と言う。

服を変えても、「初めて見る」だけ。
似合ってるとか、可愛いとかは、一切言ってくれない。

「いいんじゃない」くらいは言うけれど、私には(どうでも)が見えてしまう。

料理に対しても、がんばって作ったと工程の話をすると「わからない」「簡単なのでいいのに」という。

何をしても、大きな反応はない。

セックスレスの問題も「寂しくない?」とか「して欲しいことはない?」と聞いても「寂しくないし、して欲しいことも何もない」と言われてきた。

感覚では「家族になったから、セックスはしたくない」のだと思う。

私に求めてるのは「家事育児」だけ。

私は長い間、それら全てを「夫は、私に対して性的価値を感じていない」と思っていた。

私は、夫にとって、都合のいい家政婦でしかないのだろうと。

実際、それが正解なのかもしれない。

でも、最近になって別の解釈が頭に浮かんだ。

きっかけは娘だった。


娘はよく、「がんばるから認めて」「もっと褒められたい」という気持ちが透けて見えることがある。

私とアピールの仕方が似てるなぁ…と、見捨てられ不安が強いのか、まだ子どもだからなのか、性格の遺伝なのか、育て方の問題なのか…少し胸が痛む。

そんな時、私は決まってこう返す。

「がんばらなくても、愛してるよ。」

「お母さんにとっては、お化粧なんかしなくても、そのままのあなたで、とっても可愛いよ。」

私が伝えたいのは、「がんばったから愛される」ではない。

できても、できなくても、がんばっても、がんばらなくても、あなたは私にとって大切な存在だ。

そういう、無条件の愛がある。

そのことを知ってほしいだけだ。

そして、ある日ふと思った。

もしかして…

夫の「何もしなくていい」も、同じ構造なんじゃないだろうか。


夫は昔から、

「働かなくていい。」

「無理しなくていい。」

「化粧しなくてもいい。」

そんなことを言う人だった。

私はそれを長い間

「期待されていない。」

「私に興味がない。」

「どうでもいい。」

そう受け取ってきた。

でも、本当にそうなのだろうか。

もし夫の中では、

「何かをしてもしなくても、お前の大切さは変わらない。」

という意味だったとしたら。

もちろん、本当のことは夫にしかわからない。

だからこれは事実ではない。

ただの思考実験だ。


同じ言葉でも、意味づけはひとつじゃない。

「化粧しなくてもいい。」は、

「興味がない。」
という無関心とも受け取れるし、

「化粧をしなくても十分可愛いよ。」
という肯定とも受け取れる。

「何もしなくていい。」は、

「行動に価値を感じない。」
という蔑みにも、

「しなくても価値は変わらない。」
という無条件の愛とも受け取れる。

どちらが正しいかは、私にはわからない。

でも、少なくとも「興味がない」だけが唯一の答えではないのかもしれない。


人は、現実そのものよりも、「現実の意味づけ」に苦しむことがある。

もちろん、だからといって何でも都合よく解釈すればいいとは思わない。

現実から目を背けるのとも違う。

ただ、ひとつの出来事に対して、矛盾しない解釈が複数あるなら。

その中で、自分の心が少し穏やかになる解釈を持っていてもいいのではないだろうか。

最近では、娘が私を喜ばせようと「お母さんに感謝してる?愛してる?」と夫を問い詰めることがある。

夫はタジタジになりながら「はい、感謝してます。愛してます」と答えている。

娘に言わされているだけの姿だけれど、そんな夫を見ていると、案外それも本当で、私が勝手に絶望していただけなのかもしれないと思えてくる。


私は最近、「認知の歪み」について考えることが多い。

でも、「歪み」と聞くと、間違いを正すイメージがある。

本当は、そうではないのかもしれない。

一つしか見えていなかった景色に、もう一つ窓を増やすこと。

それが、認知を柔らかくするということなのかもしれない。

夫が実際にどう思っているのかは、わからない。

本当の願いは、ちゃんと褒めてほしいし、寂しいと思う。

それでも、

もしかしたら、家族になった関係というのは、無条件の愛に近いのかもしれない。

そんな可能性を持てるようになっただけで、少しだけ世界の見え方が変わるような気がした。

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