ハックルベリー・フィンの冒険
『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み終えた。読み終えた、というより読破!な気分である。「トム・ソーヤーの冒険」然り、「幸福な王子」然り、海外の児童書は罠だと思う。子ども向けと思いながら読むと泡を食らうぞ。本が好きな私でも、なかなか苦労した読書となった。

『ハックルベリー・フィンの冒険』は1885年に発表された作品である。1885年と言うと日本では内閣制度が新しく創設され、日本文学では写実主義と呼ばれる小説が台頭し始めた頃だ。そんな時代の小説なので、もちろん今とは価値観が全然違う。差別用語である「黒んぼ」(版によっては「ニガー」)が作品の中に200回以上出てきたり、魔女や不吉な前兆を信じる文化があったり、家同士で殺し合ったりする。私が一番やきもきしたのは、ジムをすぐに逃さなかった場面だ。「囚人」はこうあるべき、というトムの考えによって、もたもたしているうちにジムはまた捕えられてしまった。いや、さっさと逃がせよ!と突っ込まずにはいられなかった。
そう、読みづらいというよりはやきもきするのだ。どうしてこうしないの?あるいは、なぜこんなことをするの?が、何度も何度も頭を巡る。「トム・ソーヤーの冒険」を読んだときにも感じたが、私はトムやハックにはどうしても共感出来ない。彼らの冒険にわくわくしないことが楽しみきれない原因かもしれない。
しかし、そんな私でもぐっとくる場面があるから、名作として今も語り継がれているのだろう。作品の舞台は1830〜40年代、黒人の奴隷制度が廃止になる前の時代である。当時、黒人の逃亡を補助することは禁じられていて、ハックはそのことに苦悩する。ジムを助けると決心したときのハックの言葉が印象に残っている。
「よし、それなら、おれは地獄に行こう!」
(福音館書店)
ハックの「天国/地獄」論は読んでいてとても面白いと感じた。現代の日本人が簡単に発する天国、地獄と、ハックが言う天国、地獄はきっと重さが違うだろう。この瞬間、ハックにとってジムは奴隷ではなく、友達なのだと思った。
「みんなには、ジムを閉じこめる権利なんか、
ない!すぐ行けよ!……一分だって、むだにするな。ジムを放してやれよ!やつは、奴隷じゃない。この地上を歩いてる、どの生き物ともおんなじに、自由なんだ!」
(福音館書店)
こちらはトムの言葉。個人的には「平等なんだ」ではなく、「自由なんだ」と言うのが好きだ。当時のことを考えると、そりゃ平等という言葉は出てこないかという気もする。
ハックは冒険の中で殺人者、泥棒、詐欺師に出会う。ハックが冒険に出る理由となった、ハックの父も酷い暴力を振るっていた。この人たちはみんな、白人である。他にも、身近な死に心を痛め詩を書く女性、鉄砲を喰らったトムの看病をしてくれる医者とも出会う。この人たちも白人である。私は人間の価値というのは人種ではない、と訴えているように感じた。生まれた国や肌の色で人間は決して測れない。今となってはそんなこと当たり前のように思えるが、でもどうだろう、今でも気づかずに差別をしているときはないか。例えば、外国人は観光地を汚す、とか。こういう言葉を聞くたびにもやもやしてしまう。いやいや、外国人が汚したのではなく、「その人」が汚したのだろう、と。
さて、私はこれから『ジェイムズ』を読む。「ハックルベリー・フィンの冒険」で、ハックと共に冒険する黒人・ジムの視点で進む作品だ。そもそもこれを読みたくてトム・ソーヤーとハックルベリーを読み始めた。ようやく目的に辿り着いた。長かったが、こういう読書は嫌いではない。毎回こうだと疲れるけれどね。
