「遊び」は、学びではないのか― 子どもは遊びながら、すでに学んでいる⑤
「遊んでいないで、勉強しなさい。」
この言葉を、私たちは昔からごく自然に使ってきました。
大人の感覚では、「勉強」と「遊び」は別のものです。
勉強する時間があって、遊ぶ時間がある。
だから、遊んでばかりいると、どこか心配になるのかもしれません。
本当に、子どもは遊んでいるときには学んでいないのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
むしろ幼児期には、遊びそのものが大切な学びの時間なのではないでしょうか。
たとえば、積み木で遊んでいる子どもを見てみます。
積んでみる。
並べてみる。
倒れる。
もう一度やってみる。
今度は少し高くしてみる。
横に広げてみる。
「これはおうち」
「こっちは車」
そんなふうに、思いついたことを形にしていく。
そこへ友達が来ると、今度は
「貸して」
「いっしょにやろう」
「まだ使ってるよ」
そんなやりとりも始まります。
大人から見れば、ただ遊んでいるだけに見えるかもしれません。
でも、その時間の中で、子どもは本当にいろいろなことを経験しています。
私は長く、幼児期の基礎教育を「もじ」「かず」「ちえ」という形で考え、教材にもしてきました。
けれど今振り返ってみると、それらは教材の中だけにあるものではありませんでした。
実は、子どもの遊びの中に、もうすでにあるのです。
たとえば「かず」です。
積み木を数える。
友達と分ける。
「ぼくが3つ、○○ちゃんが2つ」と比べてみる。
ひとつ増えた、ひとつ減った、どっちが多い。
これはもう、算数の入り口そのものです。
でも子どもは、「今から算数を勉強しよう」と思ってやっているわけではありません。
だからこそ、無理がなく、自然に身についていくのだと思います。
「ことば」も同じです。
ごっこ遊びの中では、子どもたちは実によく話します。
「いらっしゃいませ」
「これください」
「ありがとうございました」
お店屋さんになったり、先生になったり、お母さんになったり。
役になりきりながら、その場に合う言葉を使おうとします。
相手の言葉を聞く。
自分の気持ちを伝える。
言い方を変えてみる。
そんなことを、遊びの中で自然にやっているのです。
そして「ちえ」は、遊びの中にいちばん色濃く出るのかもしれません。
どうしたら積み木が倒れないのか。
どうしたらもっと高く積めるのか。
どうしたら友達と一緒にうまく遊べるのか。
子どもは遊びながら、いつも小さな問題に出会っています。
そして、そのたびに
「どうしたらいいかな」
と、自分なりに考えています。
私は、この力こそ幼児期にとても大切なのではないかと思っています。
知識を早く覚えることよりも、まずは自分で考えてみること、試してみること。
その土台が、遊びの中で育っていくのです。
さらに私は、「わらい」と「うんどう」も大事にしてきました。
子どもは、遊んでいると本当によく笑います。
失敗しても笑う。
友達と顔を見合わせて笑う。
同じことを何度もくり返して笑う。
楽しいから、またやってみたくなる。
うまくいかなくても、もう一回やってみる。
その気持ちは、学びを続けるうえでとても大切な力だと思います。
そして、走る、跳ぶ、登る、くぐる、投げる、転ぶ、立ち上がる。
そんな身体の動きも、みんな遊びの中にあります。
子どもは身体を動かしながら、
どこまで手が届くのか、
どれくらいの力を出せばいいのか、
どうしたら転ばずに走れるのか、
自分の身体のことを少しずつ知っていきます。
こうして見ていくと、遊びの中には
「ことば」
「かず」
「ちえ」
「わらい」
「うんどう」
という、子どもに育ってほしいものが、みんな入っていることに気づきます。
けれど今は、その遊びの時間や環境が、少しずつ変わってきました。
自由に遊べる場所が少ない。
外で遊ぶ時間も減っている。
兄弟や近所の子どもたちと、自然に遊ぶ機会も昔ほど多くはありません。
そこに、画面のある遊びも増えました。
私は、デジタル機器そのものを悪いと言いたいわけではありません。
便利なことも、楽しいこともたくさんあります。
でも気になるのは、それによって何が減ってしまうのか、ということです。
身体を使う時間。
手を使って何かをつくる時間。
友達とぶつかったり、折り合いをつけたりする時間。
そして何より、自分で遊びをつくる時間です。
段ボールを見て、「おうちにしよう」と思う。
新聞紙を丸めて剣にする。
石を並べて道をつくる。
木の枝を拾って、何かに見立てる。
そういう遊びには、決まった正解がありません。
だからこそ、自分で考えます。
そして、考えるからこそ、おもしろくなるのだと思います。
もう一つ、幼児期にとても大切なのは、友達と遊ぶことです。
一人で遊ぶときは、自分の思い通りにできます。
でも二人になると、そうはいきません。
「ぼくが先」
「わたしもやりたい」
「貸して」
「今使ってるよ」
そこには、交渉があります。
少し我慢することもあります。
譲ることもあります。
自分の気持ちを言葉にしないと伝わらないし、相手の気持ちも考えないと続きません。
つまり、友達と遊ぶことは、人と一緒に生きる練習でもあるのです。
こういうことは、大人が「はい、今日から社会性を学びましょう」と教えても、なかなか身につくものではありません。
でも、遊びの中ではとても自然に起こります。
だから私は、子ども同士が関われる時間を、もっと大切にしてほしいと思っています。
最近、長く使ってきた教材に「少し年落ちしてきたのかもしれない」と感じることがあります。
以前なら3歳児用から始められた子が、今は2歳児用から始めることが増えている。
その背景には、家庭や生活環境の変化があるのではないか。
そんなふうに考えてきました。
でも今は、こうも感じています。
子どもたちは「学ぶ時間」が減ったのではなく、
遊びながら学ぶ時間が減っているのではないか。
遊びの中には、ことばがあります。
数があります。
考えることがあります。
身体があります。
人との関わりがあります。
笑いがあります。
失敗があります。
そして、挑戦があります。
そう考えると、遊びにはもう、基礎教育の原型が入っているのです。
だから私は、幼児期の子どもに「もっと勉強させなければ」と考える前に、まずはその子の遊びを見てほしいと思います。
何に夢中になっているのか。
どんな言葉を使っているのか。
どんなふうに困って、どんなふうに乗り越えようとしているのか。
誰と、どう関わろうとしているのか。
そこには、その子の「今」がたくさん表れています。
大人にできることは、遊び方を教えることよりも、遊びたくなる環境をつくることなのかもしれません。
手を伸ばせば、何かに触れられる。
外に出れば、走ることができる。
絵本がそばにある。
親子で話す時間がある。
友達と遊べる機会がある。
少しくらい汚れてもいい。
失敗してもいい。
時間がかかってもいい。
大人がすぐに答えを言わなくてもいい。
そんな環境があれば、子どもは自分で学び始めます。
教育というと、私たちはつい「教えること」を思い浮かべます。
でも幼児期には、教えすぎないことが、かえって大切な教育になることもあるように思います。
自分で気づくまで待つ。
自分で考えるまで待つ。
自分でやってみるまで待つ。
失敗しても、もう一度やろうとする姿を見守る。
待つにも勇気のいることですが、
それもまた、教育なのだと思います。
「遊んでいる暇があったら、勉強しなさい。」
そう言われて育った大人は、きっと少なくないでしょう。
でも私は今なら、少し違う言葉をかけたいのです。
よく遊びなさい。
その中に、たくさんの学びがあるから。
子どもは遊びながら、ことばを覚え、数を知り、考え、身体を育て、人との関わりを学び、そして笑っています。
それは「勉強の前段階」ではありません。
もうすでに、学びそのものなのです。
だからこそ、幼児期の教育を考えるとき、遊びを教育のまわりに置くのではなく、中心に置いて考えてみたい。
私は、そんなふうに思っています。
そして、ここからまた次の問いが生まれます。
遊びの中で、子どもは自ら学んでいる。
では、その「学びたい」という力を、私たちはどう育てていけばいいのだろうか。
次回は、そのことについて考えてみたいと思います。
