「貧しい子が自衛隊に行く」——古賀千景議員の発言が暴いた、リベラル系組織の差別構造

発言の中身を正確に確認する


2026年6月15日、参議院決算委員会。

立憲民主党の古賀千景参院議員が

防衛省の子ども向け冊子「まるわかり!日本の防衛〜はじめての防衛白書2024」の配布意図を追及する質疑の中で、こんな発言をした。

「分かってほしいのは、自衛隊に子どもたちって、経済的に厳しい子どもたちが行くんですよ。豊かな子どもたちは自衛隊とかなりませんよ!」

委員会室がざわつくと、古賀氏は即座に「すいません、それ失礼しました。訂正します」と撤回し、

「本当にそこにね、生活の厳しい子どもたちが生きていると、安定した職だというところ、そこはわかってほしい」と言い直した。

小泉進次郎防衛大臣はこれに対して真っ向から反論した。

「先生が言う『近隣の国々に対する配慮』という前に、自衛官の子どもたちへの配慮に欠ける発言だったのではないでしょうか?」

「今先生の発言は、自衛官の子どもたち、みんな貧しい家庭の子しかいないと、こういった形で言われましたけど、全くそういうことはありません。事実誤認だと思います」

委員会室から「そうだ!」という声が上がり、

古賀氏は最終的に「私の発言は撤回させていただきます。

申し訳ありませんでした」と謝罪した。

これが事実の経緯だ。

「失言」ではなく「世界観の露出」だった


ここで最初に指摘すべきことがある。

これは言い間違いや不注意な表現ではない。

「失言」というのは、本来言いたかったこととは違う言葉が出てしまった場合に使う。

しかし古賀氏の発言は、「言いたいことがそのまま出た」ものだ。

「経済的に厳しい子が自衛隊に行く、豊かな子はならない」という認識は、

彼女の中に長年蓄積されていた世界観がそのまま言語化されたと見るのが自然だ。

なぜそう言えるか。

訂正後の発言を見ると分かる。「生活の厳しい子どもたちが生きていると、安定した職だというところ、そこはわかってほしい」

これは「自衛隊員=経済的弱者」という認識の枠組みそのものを捨てていない。

表現を和らげただけで、発言の根底にある認識は変わっていない。

30年間教壇に立ち、

自衛隊に進んだ生徒もいると本人が言及した。

その経験を経てなお、あの発言が出てくるということは、

長期間にわたって同じ世界観を保持し続けてきたということだ。

入隊動機は多様だ——当然の話を確認する


少し立ち止まって考えてみれば、これは明白な話だ。

自衛隊に入隊する動機は一種類ではない。

国防への志
体を動かす仕事への適性
技術や資格の習得
災害救助への関心
家族が自衛官であったこと
地域での就職先として選んだこと
安定した公務員という側面

現実には無数の動機が複合的に絡み合っている。

仮に経済的な安定が動機のひとつに含まれていたとして、

それで何が問題なのか。

医師を目指す学生の動機に「収入の安定」が含まれていても誰も批判しない。

弁護士でも、公務員でも同じだ。

なぜ自衛隊だけ、「経済的理由で選ぶのは不本意な選択」という前提で語られなければならないのか。

その前提自体がすでに差別的な眼差しだ。

志と生活の安定は両立する。

「国を守りたい、かつ安定した職に就きたい」という動機は、何ら矛盾しない。

むしろその両方を兼ねた選択として自衛隊を選ぶ人間が多数存在することは、

少し想像力を働かせれば分かることだ。

30年間の教員経験は、この単純な想像力を育てなかった。

それがもっとも深刻な問題だ。

「善意に基づく偏見」という最も根深い差別


古賀氏を「差別主義者」と断言することには慎重でありたい。

「差別主義者」という言葉は、

意図的・組織的に特定集団を貶める人間に使うべきで、

古賀氏の場合は構造が少し違う。

より正確に言うと、これは「善意に基づく偏見」の典型例だ。

古賀氏の頭の中にあった図式はおそらくこうだ。

「自衛隊に行く子→経済的に苦しい家庭→選択肢がなかった→だからかわいそう」

本人にとってこれは「社会的弱者への眼差し」であり「共感」のつもりだった。

悪意ではなく、同情として機能していた認識がそのまま出た。

しかしこれは当事者から見れば、

自分の職業選択を「貧困ゆえの消去法」として勝手に定義されることを意味する。

自分で選んで自衛官になった人
誇りを持って服務している人
子どもに自衛隊という仕事を肯定的に語っている親

そういう人たちの主体性を丸ごと消している。

「あなたはかわいそうな境遇だから自衛隊になったんですよね」という解釈を、

本人の同意なく押しつけている。

同情という形をとった支配だ。

相手を対等な人間として見ていないという点で、

悪意のある差別と本質的に変わらない。

むしろ悪意のある差別は本人も「言ってはいけない」と自覚している。

善意に包まれた偏見は自覚がないまま長年保持され、

検証される機会も生まれない。

古賀氏が最も「現場を分かっている」と自負していた部分に、

最大の盲点があったという皮肉な構造だ。

日教組との関係——個人の問題ではなく組織の問題だ


ここで背景を押さえる必要がある。

古賀千景氏は単なる元教員議員ではない。

日本教職員組合(日教組)の特別中央執行委員を歴任し、

立憲民主党の日教組組織内議員として参院選に出馬・当選した人物だ。

つまり教員として現場にいた、

というより、日教組の幹部として政界に送り込まれた人物として理解すべきだ。

これで今回の発言が腑に落ちる。

日教組は長年、自衛隊・安保体制に批判的な立場をとってきた組織だ。

「平和教育」の名のもとに、

自衛隊を「戦争の道具」として位置づける教育実践を支持してきた歴史がある。

その組織文化の中で長年活動してきた人間の世界観として、

「自衛隊=経済的弱者の受け皿」という認識が自然に形成されていたとしても驚かない。

さらに言えば、

今回の質疑そのものの動機も日教組的な文脈と一致している。

防衛省が学校に配布した冊子の「政治的中立性」を問題にする

これは日教組が長年とってきたスタンスそのものだ。

学校現場への防衛・安保教育の浸透に対して従来から強く反発してきた組織の代理人として、

古賀氏はあの質問をした。

そしてその質疑の中で、

組織を通じて醸成されてきた自衛隊観が口から出た。

個人の失言ではなく、組織的な価値観の露出として見るほうが正確だ。

リベラル系組織に「善意の差別」が生まれやすい理由


ここで一歩引いて、より構造的な問いを立てる必要がある。

なぜこういうことが、リベラルを自称する組織で起きやすいのか。

保守系組織は「現状維持」を基本とするため、

外部社会との接点が多い。

企業、市場、地域社会と日常的に摩擦しながら存在している。

摩擦があるということは、

外部からの「それは違う」というフィードバックが入ってくるということだ。

一方でリベラル系組織は「社会を変える」という使命感が結束の核になる。

この使命感が組織内部で完結した正義の体系を作りやすい。

外部との摩擦は「抵抗勢力からの攻撃」として解釈され、

組織をより閉じた方向に強化する。

批判が来るたびに「私たちは正しいから攻撃されている」という確信が深まる。

日教組の場合はこれが特に極端な形で現れやすい。

学校という閉じた空間で、

同じ思想を持つ同僚と長年過ごし、

組合活動でさらにその世界が強化される。

子どもという反論しない相手に日々接する職業でもある。

「私は現場を知っている」という確信が、

外部からの視点を不要なものとして排除させる。

結果として「組織が世界になる」という状態が生まれる。

組織の外に存在する多様な価値観や生き方が、

文字通り視野に入らなくなる。

自衛官が誇りを持って服務しているという現実、

その家族が職業に誇りを感じているという現実が、

認識の枠組みの外に置かれる。

そしてここが核心だが、

そういう組織は往々にして「自分たちこそ差別と戦っている」という強い自己イメージを持っている。

その自己イメージが、内部で生まれている差別を不可視にさせる。

「弱者に寄り添う」という語りが、自衛官とその家族を保護対象から外す論理と平然と共存する。

自分たちが差別していると気づかない構造が完成している。

ダブルスタンダードという政治的問題


もう一点、切り離して考える必要がある政治的問題がある。

与党議員が同種の発言をした場合を想定してほしい。

「○○の仕事は貧しい人がなるもの、豊かな人はならない」

野党は「差別発言だ」「大臣辞任を求める」と国会審議を止めにかかり、

メディアは連日報道する。

謝罪・撤回しても「謝罪では済まない、問題の本質は変わらない」として追及は続く。

今回の古賀氏の場合、

本人が謝罪・撤回すると「反省している」で幕引きになった。

同じ行為に対してルールの適用が非対称になっている。

これは個別の事案の問題ではなく、

政治的追及の選択的運用という構造的問題だ。

メディアがこの非対称性を問題にしないこと自体が、また別の非対称性を構成している。

さらに深く掘り下げれば、こんな問いが残る。

古賀氏は30年間教員として、自衛隊志望の生徒をどう扱ってきたのか。

「かわいそうな境遇の子」として見ていたとすれば、

その生徒たちは進路相談の場でどんな眼差しを受け取っていたのか。

教育現場での影響という点では、

今回の国会発言よりもこちらのほうが本質的な問題だ。

しかし誰もそこには踏み込まない。

「視野の狭さ」ではなく「閉じた論理体系」の問題だ


最後に整理する。

今回の古賀氏の発言を

「視野が狭い」
「配慮が足りなかった」

という個人の資質問題として片付けることは、問題の本質を見誤ることになる。

これは閉じた論理体系の中で長年生きてきた結果として、

他者の主体性と多様性が認識の枠外に置かれる、

という組織的・構造的な問題だ。

個人を責めて終わらせると、同じ構造の中から同じ発言が繰り返されるだけだ。

「リベラル=差別しない」

という自己イメージと、現実の発言・行動の間にある乖離。

それを生み出しているのは個人の悪意ではなく、

善意に包まれたまま外部からの検証を拒絶し続けてきた組織の文化だ。

その文化が問われないまま「謝罪で終わり」になるとき、

傷つくのは自衛官とその家族であり、

かつて「かわいそうな境遇の子」という眼差しを向けられながらも声を上げられなかった生徒たちだ。

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