短編小説「ボツになった付箋たち」Act 1
「……まただ」
日曜日の朝。寝癖を爆発させたままキッチンに向かった湊(みなと)は、冷蔵庫の扉に貼られた黄色い付箋を見て大きなため息をついた。
『麦茶を作ったら、ピッチャーを最後まで閉めること。こぼれます。 理人』
几帳面で無愛想な同居人、理人(りひと)からの業務連絡だ。
彼は家事全般を完璧にこなす代わり、大雑把な湊の行動にこうして小言を付箋で残していく。洗面所の鏡には『歯磨き粉は下から絞る』、玄関には『靴は揃える』。
「別に嫌わなくてもいいじゃんか……」
同居を始めて半年。最初は仲良くなろうと努力した湊だったが、この冷たい付箋攻撃の前にすっかり心が折れていた。理人は今頃、近所のスーパーへ買い出しに行っているはずだ。
冷蔵庫を開けると、ラップのかかったフレンチトーストのお皿があった。理人が作った朝食だ。これだけは本当に美味しくて、湊は文句が言えなかった。
フレンチトーストを温めようと電子レンジに向かった時、レンジの横に理人のシステム手帳が置きっぱなしになっているのに気づいた。普段なら絶対にそんな隙を見せないのに、珍しいこともあるものだ。
「……ん?」
手帳の間に、何枚もの黄色い付箋が挟まっているのが見えた。端が少しはみ出している。湊はほんの出来心で、その一枚を指で引っ張り出した。どうせまた新しい小言のストックだろうと思ったのだ。
しかし、そこに書かれていた文字を見て、湊の目は点になった。
『寝顔が可愛かったから起こせなかった。遅刻しても俺のせいじゃない。 理人』
(※文字の上から二重線でぐちゃぐちゃに打ち消し線が引かれている)
「……は?」
パニックになりながら、湊は別の付箋も引っ張り出した。
『フレンチトースト、お前が好きだって言ってたから多めに作った。……いや、これは恩着せがましいか。』
『寝癖、触りたくなるから直してからリビングに来い』
『今日も可愛い』
最後の丸めた付箋を見た瞬間、湊の顔から火が出そうになった。
いつも無表情で冷たい言葉ばかり並べる理人が、手帳の中でこんな一人相撲を繰り広げていたなんて。しかも、可愛いってなんだ。男同士だぞ。
「ただいま。……おい、何やってる」
玄関から低い声が響いた。買い物袋を提げた理人が、リビングの入り口で固まっている。そして、湊の手に握られた大量の「ボツ付箋」を見て、持っていたエコバッグを床に落とした。
「あ、いや、これ、手帳が……」
「……見なかったことにしろ!!」
理人が顔を真っ赤にして突進してくる。いつもはクールな彼が、耳の先まで茹でダコのように赤くなっていた。
「見なかったことって無理だろ! お前、俺のこと……っ」
「うるさい! 朝飯食え! フレンチトーストだぞ!」
「恩着せがましいって悩んでたやつ!!」
「言うな!!」
理人は手帳をひったくると、そのままソファに顔をうずめてしまった。その背中があまりにも小さく見えて、湊は思わず吹き出してしまった。なんだか急に、彼が愛おしくてたまらなくなったのだ。
「……フレンチトースト、俺が一番好きなやつ。ありがとな」
「……」
「今度から、そういう付箋も冷蔵庫に貼ってよ」
ソファから顔を上げないまま、理人が「うるさい、バカ」と小さく呟いた。
冷蔵庫の黄色い付箋が、今日からは少しだけ違って見えそうだった。
