私の被爆体験記 / 木村 正恵 (2011年9月11日 記)
1945年8月6日 原爆が広島に投下されて、2日後のことだったと記憶しています。
私は祖父母から「あんたのおじいちゃん、おかあさん、和ちゃんよ」と小さなブリキの箱の中の骨を見せられました。みんなのすすり泣く声だけが聞こえました。
当時6才の私にはその時の状況がよく理解できず、ただ箱の中を見つめるだけでした。
8月6日、朝、私は長束国民小学校の校庭で被爆しました。爆風で校舎の窓ガラスが割れて散乱し、先生の指示で、帰宅することになったと思いますが、私には、その日の記憶があまりないのです。帰宅した時、家の窓のガラスはすべて割れ、天井がたれ下がっていたのだけは鮮明に憶えています。
前日の8月5日、材木町に住んでいた祖父、母、妹の和子(当時2才)は長束の母の実家で夕食を共にしました。今思えば、それが最後の晩餐になってしまいました。
父は1944年、外地で戦死してから、母は祖父と二人で理髪店をしており、8月6日早朝、お客様のことを考え、暑くならないうちに帰らねばと妹を乳母車に乗せて材木町の家に帰ってゆきました。
長束の祖母は建物疎開の材木を取りに市内に出かけており、長束に帰宅中、寺町で母と出会い「気をつけて帰りんさいよ」とお互いに言葉をかわしたのが母娘の最後の会話だったと、後に祖母から聞かされました。
私自身の説明が遅くなりましたが、何故こうして今、生存しているのか。実は4才の頃から長束の母の家に疎開していたからです。
原爆投下日のことは前述しましたが、私はその後結婚するまでずっと、ここ長束の母の実家で育てられました。
本当は孤児になるはずであった私ですが、叔父が結婚後も、いとこ達と一しょに、姉妹弟のように育ててくれたお陰です。
毎年、8月6日が来ると祖母は当時の惨状を話してくれました。初めて入市した日のこと、私の家族を捜す為に出かけたのですが、ドームの側の元安川は、暑さを逃れる為に水を求めて、折り重なるように死体の山…
この死んでいるのかと思うと、まだ生きていますという人、水を下さいという人、妹の体は全焼しておらず、兵隊さんにちゃんと焼いてもらったんよ、と言いました。母は必死で妹を守ろうとしたのだと思うと胸が張りさけそうでした。
残された私のことも、どんな思いを残して亡くなったんだろうと思うと涙が止まりませんでした。
成長するにつれ、何故私だけを残して、と精神的に辛い思いをしましたが、家庭をもち子供を育てていくうちに、一人娘を残して死んでいかなければならなかった母の気持ちが理解できるようになり、私はあたりかまわず嗚咽したことがありました。自分のことしか考えていなかったことへの反省の涙でもありました。
話が前後しますが、私達、広島の被爆者は、あの日から放射能に汚染された水を飲み、野菜を食べ、放射能がどんなに恐ろしいものかの知識もなく、ただ、その日を生きる為に何でも食べました。あれから66年の歳月が過ぎてゆきました。しかしながら、こうして元気で生きのびて来ました。
勿論、それは数多くの犠牲者のお蔭で今日の生活があることを決して忘れてはいけないと思います。
あの日のことを絶対に風化させてはならない、そんな思いで、今まで避けてきた記憶を辿り、ここに記しました。
