私の被爆体験記 / 江上 弘子 (2012年4月27日 記)
昭和20年8月6日私は国民学校(現舟入小学校)1年生(6才7ヶ月)でした。太陽が照りつける、大変暑い朝でした。空襲警報解除後に登校し、朝礼が始まって、教頭先生の話の途中でした。
8時15分ピカッと光ったのと同時にものすごく大きなドーンと言う地響きがして、周りが全然見えなくなって、何かが起きたのだろうと震えました。
20秒位して、金色や銀色が混じった灰が光りながら降って来ましたが、徐々に明るくなり、前が見えてきました。するとL字型の校舎東側が火事になっていて、先生方が消しておられました。
校舎はボロボロに壊れ、スレートや材木が散乱していました。
現在でも仲良しの友達は整列していて時に私の前に居たので、校舎の通気口の屋根の下敷きになったが、少しの隙間から明かりが見えたので、這い出したそうです。皆はグランドと芋畑(食糧難の為グランドの半分は芋畑だった)のあいだにある防空壕に向かって走りました。私も防空壕に入ったが、中はいっぱいだったので、入口付近に居ました。
途中で、上級生の男子が頭にスレートの破片が刺さったまま走っていたのにはびっくりしました。後に学校が始まって、その子を見かけた時、大きな傷跡に成っていましたが、無事で良かったなと思いました。
そのうち女の先生が私に「どこか痛い所は無い?」と見てくださいました。走っているときに何かにぶつかったので、腕が痛かったが、先生は「どうもなってないから、大丈夫よ」と言って、次の人の方に行かれました。怖くて一人で家に帰ることが出来ず、防空壕にいました。1時間位たった頃、壕の外で、父と6年生の兄の話し声が聞こえたので、私は恐る恐る外に出て父の後をおいかけ「お父ちゃん」と半べそで呼びました。父は振り返り、「おお無事だったか!」と喜んでくれました。兄はもう居なかったので、父と帰りました。帰る道は、火傷で、黒くすすけた人達が沢山江波の方へ急いでいて、中には力尽きて倒れて「水を下さい、下さい」と小さな声で呼びかけている人も居ましたが、どうしてあげることも出来ませんでした。
家に帰ると、ガラス窓や戸は無く、北側の壁も柱も吹っ飛んで、家は少し傾いていました。襖には血が飛びちってガラスの破片も刺さっていて家には入れませんでした。この血は姉(21才)の耳にガラスが飛んできて切れて、出血が止まらずついたものでした。姉は綿花と手拭きで耳をおさえ一人で江波の陸軍の兵舎に治療を受けに行く途中、気持ちがわるくなって道路わきにしゃがんでいると、人に声をかけられ、気が付いて現地に行ったそうです。
怪我や火傷の人が多くて、やっと簡易な治療を受けて夕方帰って来ました。その後姉の片耳は少し聞こえにくくなっていました。
姉は中国塗料に勤務していたので、いつもは早く家を出ていたのに、その日に限って遅くなり、出勤する支度をしていたのでした。会社は吉島に有ったので、ふだん通りに家を出ていたら、命が危なかったかもしれません。
2才の弟は台所でカボチャを食べていて食器棚の下敷きになりました。
その時はタンコブが出来ていただけと思っていましたが、大人になって、ずっと腰が悪かったので、総合病院でレントゲン検査をしてもらうと、小さい時の古傷もあると言われました。原爆の時に気づかずそのままにしていたからだと思います。
防空壕の前で遊んでいると全身火傷で衣服と皮膚がぼろぼろにたれさがり、顔は腫れて、目だけ光って黒くすすけた人が、「只今帰りました」と小さな声で、言って立っておられました。皆はビックリして「貴女はどなたですか?」と尋ねると、「私はYですよ」と答えられました。皆は「ご苦労さま、良く帰って来られましたね」とねぎらいました。町内会で出る勤労奉仕で建物疎開に行っておられたのです。ご主人は戦死されていたから、3人の子供さんの許へ一生懸命に帰って来られたのだと思います。もう一人の男性の方も行って居られたが、二人共2、3日内には亡くなられました。
この事は私の脳裏に今も焼き付いています。
我が家でも、勤労奉仕に出る番が来ていたのですが、会社(父の勤務していた会社は日本酸素という軍需工場)が忙しく休めず、母は臨月だったので、他の人に代わってもらっていました。夕方近くになり、三菱造船所の幼年学校の寮に入っていた16才の長兄も帰り、6年生の兄もどこで遊んでいたのか、帰って来ました。次兄は背中と両腕全体にピンポン玉の様な大小の火腫れが出来ていました。消毒液も薬も無いので、じゃが芋やカボチャをすりおろして、毎日貼りました。剥ぐ時にとても痛がっていました。火傷のあとはありましたが、ひどいケロイドも残らず綺麗に治っていました。
家族が揃い200メートル離れた畑に畳を敷き蚊帳を吊って寝ることになったが、食べ物はなく、原爆が投下されてずっと燃えていた北の方は街全体が火の海で空まで赤く、私達の方へ迫って来る様で恐くて眠れませんでした。
近所の人達も同じように、三日間畑で生活しました。その間、父と兄が半壊した家に板を貼って、なんとか雨風を凌ぐ程度に修理して、家での生活が始まりました。
屋外で被爆した兄と私は毎朝血の涎(ヨダレ)が出てシーツが15cmくらいの地図になっていました。
最初のうちはほっぺたに血がカリカリに付いて居ましたが、だんだんと淡くなってきて5、6年続きました。毎日は洗濯しなかったとは言え母は大変だったと思います。母はピカドンの毒が出ているのだろうと言っていました。5年生の時には喉の真ん中にゴルフボール位の大きな「おでき」が出来て赤くはれ、熱も39.5度出て、うなされました。たまたま隣家のご主人が薬問屋に勤めておられ、奥様も元看護婦さんだったので、薬を飲ませてくれ、3日位で治りました。高校時代は身体検査表には3年間「甲状腺腫」と書いてありました。
被爆後2週間位して、兄と学校へランドセルを取りに行きました。教室は天井から大きな柱や板きれが落ちて散乱し、足の踏み場の無い状態でしたが、やっと自分のランドセルを捜し求める事が出来ました。もし、教室で被爆していたらと思うとゾッとしました。臨月だった母は8月28日に弟を無事出産しました。
食糧不足で、母乳はわずかしか出ず、砂糖湯やおも湯を呑ませていました。その内ミルクの配給が貰える様になりましたが、少ししか貰えないのに、現在の市役所まで歩いて行かなければなりませんでした。
9月の終わりとは言え、まだ暑さがきびしかったです。私が3才の弟の手を引き、母は赤ん坊を背負い、市役所迄行きましたが、帰りはへとへとになりました。
その後母と弟は「検査を」と言われ、見たこともない外車の送り迎えで、何度も比治山のABCCに連れて行かれました。
食糧難は家族の多い我が家では大変厳しかったです。父が仕事から帰って、道路の側面を耕し、いろいろの野菜を植えました。
又、被爆後に天満川の下流で沢山のあさり貝が繁殖していて、多くの人が採りに行っていました。我が家でも父と兄が金網を箱に張り、採りに行きました。小さい貝なので、佃煮にしたり、茹でて野菜のだし汁等にしました。とても貴重な、蛋白源でした。
今思えば育ち盛りの兄達は、どれほどひもじかった事かと、考え深いものがあります。姉や下の弟は既に癌で亡くなり、次兄も肝硬変で、55才で亡くなっています。
私も癌の恐怖を抱きながらも、現在迄、幸せに生きてこられました。これからもまだ、5年や10年は有意義な人生を送りたいと思っています。
被爆者も高齢化しています。
私も自分の子供達や孫達に私の体験を通して、原爆の恐ろしさを伝えておかなければならないことを痛感しています。
そして敢えて、つらい体験を記す決心をしました。
