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私の被爆体験記 / 佐川 修 (2011年9月4日 記)

 わが家は昔から広島の地場産業である製針業を営んで居りました。
戦争も激しく成り、戦火を逃れる為父は工場を中国上海に移し広く事業を展開させ、何不自由なく暮らして居り、当時たまたま内地に帰って居りました。
家族は父龍三46才、母政子38才、長兄正司19才 宇部高専(現在の山口大学工学部)在学中、長姉千恵子16才 市女4年生在学中、二姉郁子12才 6年生、三姉陽子10才 4年生、次兄元9才 3年生、妹志津子1才、そして私 修6才 1年生、「長兄、長姉の母親は病死」
 家族は爆心地より約1.9キロメートルの広島市舟入川口町で平和に暮らして居りました。長兄は宇部、二姉、三姉、二兄は集団疎開で福木村(現馬木町福田)のお寺に行って広島には居りませんでした。
8月5日はたまたま家族との面会日で父母、妹と私はそろって大喜びで面会に行きました。久し振りの家族に見せる学芸会で、全員大張り切りで、歌やおどり劇等を見せてくれ、大変楽しく、他の家族も久しぶりに親子水入らずの本当に楽しい一日を過ごし、夕方遅く帰宅し疲れてぐっすり休みました。
翌8月6日父は早朝より所用で横川方面に外出、母は町内会から雑魚場町(現在の国泰寺)の市役所付近に町内会長の先導で早朝より建物疎開に行って居ました。
母は近所の人がどうしても行かれない為、たまたまその代わりに参加したそうです。
楽しかった前日の面会が二人の姉と兄の見た母の最後となりました。
こんなむごい事が起ころうとは誰が想像したでしょうか。
 その日、8月6日は朝から快晴で、私は爆心地から約2.0キロメートルの舟入国民学校に登校、長姉と妹は自宅にて留守番、私は登校後校庭で教頭の笹村先生の話を聞き乍らぼんやりと東方向の空を見て居りますと、飛行機の爆音が聞こえ、一機の飛行機が朝日にキラッと光ったのを発見し、じっと見て居ると白く光ったパラシュートが落ちて来ました。
8時15分その時、今まで見た事もない真黄色の強い閃光が光り、笹村先生の「退避!」と言う大声ですぐに地面に伏せた瞬間、ものすごい爆発音と共に空が真っ黒くなり、ものすごいごみ、板きれ、瓦等がぎっしりつまった爆風に見まわれ、夢中で目と耳を今まで習っていた通り押さえてじっとして居りました。今、自分が生きて居るのか、死んで居るのかも分からない感覚におそわれました。
日射しのカンカン照りの下におりながら我々は幸いにも火傷もしないで、又大きな怪我もなく、運よく助かりました。
多分放射線と放射線の間(死角)に入って居たのでしょう。
同じ舟入川口町で私のおじさんなど背中に大火傷を受けた人も又、舟入川口町より遠い江波町の方でも大火傷を受けケロイドに成った人も居られる様でした。黒い雨にも遭ったように思います。
 話は前に戻りますが、とに角担任の住村先生の誘導で教室に入り、人員を確認の上、家に帰る様に言われ通学路を走って我家に向かいました。人々が逃げまどうなか…途中街中全て煙がいっぱいで、道の両側は炎につつまれ、恐くて恐くて、大声で泣き乍ら家にやっとたどり着いたら、長姉と妹も泣き乍ら待って居ました。
新築だった我家はしっかり建って居ましたが、何も持ち出せず、3人外で待って居ると、衣服は焼け落ち、体にはベルト1本だけで全身真っ黒に焼けただれ、頭の皮は髪の毛が付いたまま後ろから前にたれ下り、焼けとけた皮膚を両手にぶら下げ、前かがみにころげる様に大声で泣きさけびながら、千恵子!修!志津子!とよろけ乍ら来た人が居ました。その人が私達の母親でした。
 私は抱きつこうにも抱きつく所がない程体の皮膚は垂れ下がり、どうしようも有りませんでした。熱い熱い、苦しいと言って母も泣きさけんで居ました。
その内父も帰って来て母を宇品の陸軍病院につれて行き、治療と言っても薬もなく、ただ天プラ油をぬった状態で帰されて来ました。
 母の心情やいかにつらかった事か、今の自分だったらその場で死んで居たでしょう。可愛い7人の子供、愛する夫が気になり、すでに盲目状態の体で他人に帰る道、方向を聞き乍ら何キロもの道を走って帰って来た「子を思う母の気持ち」を察するに思い出せば今でも言葉に成りません。
苦しかったでしょう、熱かったでしょう、悔しかったでしょう。
 そこで一旦皆んなで江波山へ逃げ、このままでは我家も焼けてしまう恐れがあるので、父の友人の外林先生(後の舟入高校校長先生)宅の応接間を一間借り数週間過ごす事になりました。
心配した通り、やはり我家も夜中に延焼で火が移り翌8月7日の朝早く行って見ると全て灰になって居りました。
何十匹もの錦鯉も他人に食用として盗られ、我家の築山の有る広い庭が幸いして、となりの家は焼けずに助かっておりました。
その日は長姉が足に五寸釘を踏んでけがをし、それが化膿して歩けなくなり、翌朝父が知人からリヤカーを借りて来て廿日市の病院まで運んで治療を受けました。
私も付いて行きましたが早朝から何も食べず一日掛りで行って来ました。子供にはしんどい道のりでした。途中、畑に出来ていたトマト等採って食べたことを憶えております。行く時も帰る時も道路にも川の中にも防火用水の中にも黒こげの死体で一杯でした。
特に川という川、廿日市に行くまで何本かの電車の鉄橋を板を敷いてリヤカーを渡しましたが、その下は死人で一杯で皆んな腹にガスがたまり上を向いてプカプカ浮いて流れていました。
後で聞いた話ですが、一夜の間に宮島まで死体が流れ、満ち潮で又戻って来たそうです。道路では着物のヒモを引きづって走っている人、よく見るとそれは腸でした。頭の骨は割れ脳が丸見えの人、それでも皆んな走る様にして逃げておりました。
人の生命力はすごいものだと子供心にも感じたものです。
街中には真っ黒にこげて空(くう)をつかむ様に苦しんだまま、死んで居る人が山の様に有りました。正にこの世の地獄です。
 8月9日大火傷をした母の弟(おじさん)が亡くなり、8月12日に私の母が亡くなりました。
死ぬる前、全身にわいたウジを箸で取ってあげるとニッコリ笑ってくれました。よほどうれしかったのでしょう。細い声で「ありがとうね!」それが母の最期の言葉でした。
私は余りの悲しさに泣くのも忘れておりましたが、気が付いたら「お母チャーン!」と言ってワンワン泣いていたのを覚えております。これでも街中の惨状のほんの一部です。
 市内郊外全体いかにひどい状態だったことでしょう。想像もつきません。とにかく恐かったです。
 兵隊さん達が死人を焼くのですが、焼却するにも街中焼けて燃やす物がない状態で半焼きのまま穴を掘って埋めておりました。
母も何とか骨にはしましたが、やはり半焼けの所が有り、よく焼けた所だけ拾って骨壺に入れ持ち帰りました。可哀想な事です。
そして終戦となり長兄、集団疎開に行っていた姉、兄も帰って狭い部屋で着る物もなく、食べる物もなく、ただただ、ひたすらひもじかったです。
父がその内、焼跡に当時としてはとても大きなバラックを建て、そこに移りやっと人心地つきました。
小さいけど工場も再開し、毎日父は真っ黒になって働き、私達を大きく育ててくれました。今になって思うに、我父は偉大な人だったと思います。自分が父親だったらとうてい何も出来ず投げ出していたでしょう。
兄弟ゲンカもしっかりやり、色々な事が有って今が有りますが、高校生に成った頃から被爆者と言う事で何かと差別を受けた事も有りました。(修学旅行、特に就職等、色々)被爆を経験した我々は多くの放射能を浴び汚染された物を、いやと言う程何年も口にしております。それでも、今日73才まで何とか生きて来れました、我々は目の前2.0キロで直爆を受けて居ります。 今まで他の人に被爆について体験を語った事は余り有りませんが、二、三年前から生死に係わる病気をして、やはり、今、我子、我孫達に、じいさん達小さい時、こんな目に遭ったんだと言うことを伝えておくべきと思い、これからは絶対に戦争はしてはいけない、又させてはいけない事、されてもいけない事を分かって貰う為に初めて被爆体験について書いてみました。
今伝えておかないと、伝える時が無くなります。多分体験を語れる最後の年代だと思います。今が最後のチャンスと思います。

昭和20年 家族記念写真 自宅庭にて撮影

右から
長姉 千恵子 16才 市女4年生
長兄 正司  19才 宇部高専
妹  志津子  1才
母  政子  38才
三姉 陽子  10才 小学4年生
二姉 郁子  12才 小学6年生
次兄 元    9才 小学3年生
本人 修    6才 小学1年生
※父は上海出張中で不在


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