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私の被爆体験記 / 熊野 則之 (2011年12月3日 聞き取り 級友・有田、木村)

原爆投下時、私は昭和13年7月18日生まれの7才、大手町国民学校の1年生で、大手町に住んでおりました。
 当時、私の父は国鉄呉駅に勤務しておりましたが、父からは、広島は明日にも全滅になる、とにかく、すぐにでも疎開するようにと再三言われておりました。
大手町に祖母を一人残して、私達家族は父の赴任先の呉の官舎に移りました。
 8月6日の朝、家で宿題をしている時、官舎の窓ガラスが震動で、ビリビリと音をたて、その時、子供心になにか今までにない異変が起きたと思いました。広島に一人残した祖母のことが心配で、広島の方を見ると、もくもくと灰色の雲が見えたのを憶えています。
 広島に原子爆弾が落とされたのでした。
父は大手町に一人残した祖母のことを案じ、7日、8日と広島入りを試みましたが叶わず、9日にやっと入市出来ましたが、大手町は全滅の状態でした。焼け野原で、広島の町は全くなくなっていたのです。
 祖母は、たまたま疎開していて無事で、幸いにも家族はみな命をとりとめました。
 父は惨状は見ていると思いますが、幼い私には何も話してはくれませんでした。
一週間後、私も住んでいたところが見たくて、父と共に広島駅に着いた時には、まわりに何もなく、宇品の海が近くに見え驚きました。
広い通りも瓦礫の山で、それをまたぎ、父に手を取ってもらいながら歩くのがやっとでした。途中兵隊さんに爆心地近くは危険だからと引き止められましたが、何としても住んでいた家を一目見たい一心で歩き続けました。やっと辿りついた我家には石灯篭の台と真っ黒に焼けた金庫が一つ残っているだけでした。
 戦後、比治山にABCC・放射能影響研究所が出来、私は放射能の空気を吸ったのではないかということで、3回も検査を受けました(受けさせられました)。物資の乏しい時でもあり、最初は、行けばめずらしいものがもらえるとの子供心から検査を受けたわけですが、2回、3回と受けるうちに、真っ裸にされ、ありとあらゆる検査をされることに恐怖心さえ感じるようになりました。
 研究所は直接原爆を受けた人と、そうでない人との比較のデータを得る為に、検査していることをあとで知りました。以後、毎年のように検査の案内が来ましたが、その後は断り続けました。
 55才になって胃がんを発症し、尾道で手術を受けましたが、無事回復しました。医師より被爆との因果関係があるのでは、との話がありましたが、発症後すでに20年近く経過しており、その後再発もなく現在に至っています。
しかしながら、小、中、高時代に、私より元気だった友人が数名、白血病に冒され、若い命を失っております。現在こうして健康で生かされている自分に感謝すると共に、亡くなった友人達の無念さに想いをはせ、冥福を心より祈るばかりです。

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