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サザンパシフィックの思い出

横浜から東南アジアへ─DOS開発文化の航路

F10キーを押した瞬間、画面が暗転し、白い文字が一気にスクロールする。あの速度を知ってしまうと、もうMASMには戻れなかった。

VZ Editorで指先が覚えたコマンドを叩き込み、OPTASMが一瞬でオブジェクトを吐き出し、DSD87で全画面のソースとレジスタを睨みつける。編集からデバッグまでが、まるで一呼吸で回るような開発サイクルだった。

1980年代末、日本はまだPC‑98が圧倒的シェアを誇っていた。
そんな中で「あえて」IBM‑PC互換機を選ぶことは、小さな孤立と、
ひそかな誇りの両方を意味していた。

その孤立をつなぐ港が、横浜・サザンパシフィック

雑誌広告に記された「西区南幸2‑16‑20 三和横浜ビル3F」を頼りに、
横浜駅西口から川沿いに歩いてビブレの少し先、大きな通りに面した
テナントビルの階段を三階まで上がると、扉の向こうは別世界だった。

棚には海外の開発元によるツールやユーティリティが並び、
英文マニュアルの活字はディジーホイールでくっきりと打たれているが、
ときには行間が少しズレ、図表が手描きのままということもあった。
それらに添えられる日本語ガイドは、ドットインパクトプリンタの粗い
印刷をコピーした薄い冊子。数ページに要点を凝縮し、必要な注意点だけを
簡潔に示す “確かな道標” だった。

勤務先で触れる、オフセット印刷された、リングバインダ綴じの
マニュアルよりも、そういった冊子のほうに個人的な好感を覚えていた。

1989年 NEC PC8801mkⅡからの買い替えで、東芝 J‑3100SLを手にした。
IBC-PC/XT互換機としての自由と制約、その両方を抱えた相棒だ。
同年、東南アジアへ赴任し、日本での変化を直接見ることはなくなった。

東南アジアの熱気と湿度の中、現地メンバに教わり週末に足を運んだのは、有名大学に隣接する雑多な学生街。その一角に、ひっそりと輸入PC雑誌を扱う店があった。周囲にはコピーや海賊版の書籍やソフトが並んでいたが、その一角だけは明確に区切られ、米国から届いた正規の雑誌が整然と積まれていた。日本のPC雑誌では見ることの少ない薄い紙の手触りとインクの色合い、音楽誌のようなホチキス止めの装丁・・・そこに、横浜西口の事務所ビル三階で感じた異国の空気が確かに重なった。

現地で手にした米国PC雑誌には、まだ見覚えのあるSLRやSoftAdvancesの広告が載っていた。93年頃まで、OPTASMや高速リンカは紙面の一角で息づき、DOS開発文化の終盤を告げていた。横浜のカウンター越しに受け取ったツールが、海の向こうで生き延びているのを目にする・・・
それは「自分の選んだ道具の航路」を遠くから見守るような感覚だった。

気づけば、日本ではDOS/VとWindows 3.1が主役になり、サザンパシフィックは姿を消した。 手元に残るのは、あのOPTASMとDSD87の広告が掲載されている黄ばんだ「インターフェース誌」だけ。それは単なる印刷物ではない。8ビットから16ビットへ移る時代の速度感、都市の喧騒の中にあった異国の入口、そして東南アジアの学生街で感じた同じ空気~すべてが、その紙面から香り立つ。

もう戻れないが、あの頃の感触は、今も記憶の奥に息づいている。


この記事は、歴代三度目となるCoPilotとの雑談から発生したものです。
ヘッダ画像は「人力投稿」用にFlux1で生成したものを流用。

相変わらず深夜にならないと本来の切れ味を取り戻してくれない、
Claude Sonnet待ちの合間に、Perplexity使っても殆ど情報が集まらない
古の開発ソフト、OPTASM, DSD87の思い出を綴ってみました。

いま振り返ると、RAM 640kB, HDD 20MBの16ビット機で、
Lisp/ Prologの知識ベース作ろうなんて全く正気の沙汰では無い~



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