連茉「メディアアヌトの問い」㊵日本における「メディアアヌト」の初出

日本においお「メディアアヌト」ずいう蚀葉が、珟圚の意味においお最初に甚いられたのはい぀か。この問いに答えるためには、単に語の出珟を確認するだけでは䞍十分である。ここで問題ずすべきは、「メディアアヌト」ずいう語が、珟代に連続する抂念ずしお、どの時点で自芚的に甚いられたのか、ずいう点である。すなわち、本節では、①単なる語の䜿甚ではなく、②珟圚の意味に連続し、③抂念的自芚を䌎った甚法ずしおの初出を怜蚎する。

新聞デヌタベヌスを甚いお調査するず、1977幎昭和52幎3月11日の朝日新聞・東京版倕刊に掲茉された「時代時代の“蚌人”䞀堂に『メディアアヌト展』点描」ずいう蚘事が確認できる。しかしながら、この展芧䌚の内容は、「ポスタヌ、新聞、雑誌の広告、テレビコマヌシャル、レコヌドのゞャケット、カレンダヌなど」ずされおおり、東京アヌトディレクタヌズクラブ東京ADCによる創立25呚幎蚘念䌁画であった。ここでいう「メディア」は明らかにマスメディアを指しおおり、出品者も田䞭䞀光、亀倉雄策、氞井䞀正らグラフィックデザむナヌである。したがっお、この甚䟋は語ずしおの存圚を瀺すものではあるが、珟圚の意味におけるメディアアヌトの初出ず芋なすこずは困難である。

たた、読売新聞デヌタベヌスには、1986幎7月11日の党囜版倕刊に「日本倧孊芞術孊䌚『メディア・アヌト研究䌚』䟋䌚 映画『フォヌビデン・ゟヌン』リチャヌド・゚ルフマン監督・80幎」ずいう告知が芋られる。ここでは「メディア・アヌト研究䌚」ずいう名称が甚いられおいるが、その掻動内容の詳现は珟時点では䞍明である。玹介されおいる䜜品はミュヌゞカル・コメディ映画であり、少なくずも今日われわれが想定するメディアアヌトの実践ずは異なるものであった可胜性が高い。この事䟋もたた、語の存圚を瀺すものではあるが、抂念的な成立を瀺すものずは蚀い難い。

䞀方で、1980幎代末の日本においおは、珟圚「メディアアヌト」ず呌ばれる領域に盞圓する実践がすでに掻発に存圚しおいたにもかかわらず、それを指し瀺す名称は定たっおいなかった。「矎術手垖」1986幎10月号の特集は「ハむテック・アヌトの珟圚圢」、「ナリむカ」1987幎6月号の特集は「テクノ・アヌト」であり、雑誌『ur』創刊号の特集は「ハむパヌ・アヌト」、さらに7号では「ハむパヌ・アヌト2」、8号では「マルチメディア」ず題されおいる。

すなわち、1980幎代末の段階では、察象ずなる芞術実践は存圚しながら、それを統䞀的に指し瀺す語圙が未確定であり、「ハむパヌアヌト」「テクノロゞヌアヌト」「メディアアヌト」ずいった耇数の呌称が競合する語圙的揺らぎの状態にあったず考えられる。

このような状況の䞭で、珟圚の意味に連続するかたちで「メディアアヌト」ずいう語が自芚的に甚いられた最初の䟋ずしお重芁なのが、1989幎、雑誌『urりル』創刊号に掲茉された浅田地の論考「メディア・アヌトぞの導入—私的なメモ・ランダム」である。このテクストは6ペヌゞ皋床の短いものであり、「私的な」「メモ・ランダム」ずあるように詊論的な性栌を匷く垯びおいる。しかしながら、ここで重芁なのは、「メディアアヌト」ずいう語が単なるラベルずしおではなく、新たな芞術領域を指し瀺す抂念ずしお提瀺されおいる点である。

すなわち、この論考においお浅田は、「メディアアヌト」ずいう語を甚いるこずで、テクノロゞヌ、情報、衚象の倉容ず結び぀いた新しい芞術の領域を指し瀺そうずしおいる。これは既存の芞術ゞャンルを暪断的に再線成する詊みであり、「導入introduction」ずいう語が瀺す通り、抂念の提瀺ずしおの性栌を持぀。この意味においお、このテクストは単なる甚䟋ではなく、日本における「メディアアヌト」ずいう抂念の導入点ずしお䜍眮づけるこずができる。

もっずも、この時点で甚語がただちに定着したわけではない。朝日新聞1990幎10月20日倕刊の蚘事「ハむテク駆䜿しお開くハむパヌアヌトの䞖界 自圚に『超珟実』描く」では、「ハむパヌアヌトは、テクノロゞヌアヌトずかメディアアヌトず呌ばれる堎合もあり、定矩がはっきりしおいない」ず蚘されおいる。

この蚘述は、圓時の蚀説空間においお耇数の呌称が䜵存し、抂念が流動的であったこずを端的に瀺しおいる。同蚘事では、草原真知子によるアメリカのシヌグラフやオヌストリアのアルス・゚レクトロニカの玹介、怹朚野衣による女性アヌティストの掻躍ぞの蚀及、さらには東京郜写真矎術通での「むマゞナリュりムI」における岩井俊雄の䜜品など、今日のメディアアヌトに明確に連続する実践が取り䞊げられおいる。

以䞊を螏たえるならば、日本における「メディアアヌト」ずいう語の初出は、語の単玔な出珟ずしおではなく、抂念的導入ずしお1989幎の浅田地の論考に求めるのが劥圓であるず考えられる。

もっずも、ここで補っおおくべきなのは、浅田地がこの語を無から創出したずいうより、圓時の海倖動向に反応し぀぀甚いた可胜性が高いずいう点である。ずりわけ1980幎代末のドむツ語圏では、リンツのアルス・゚レクトロニカを䞭心に、芞術ず先端技術を結び぀ける実践や蚀説が掻発化しおおり、さらに1989幎にはカヌルスルヌ゚にZKMZentrum fÃŒr Kunst und Medienが蚭立されるなど、「芞術」ず「メディア」を接続する制床的枠組みが敎い぀぀あった。したがっお、浅田の「メディアアヌト」ずいう語法も、日本独自の呜名ずいうよりは、こうした囜際的な蚀説空間、なかでもドむツ語圏の議論を背景ずしお導入されたものず考える方が自然であろう。ただし、浅田自身がドむツ語の「Medienkunst」をどの皋床盎接参照しおいたかに぀いおは、今埌さらに資料的な裏づけを芁する。

次節では、この語の成立に先行する系譜ずしお、1960幎代の「アヌトテクノロゞヌ」、山口勝匘による「ハむテクノロゞヌ・アヌト」、坂根厳倫による「サむ゚ンス・アヌト」ずいった動向を振り返る。これらの流れの䞊においおこそ、浅田による「メディアアヌト」の導入は、その歎史的意味を持぀のである。

いいなず思ったら応揎しよう