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【アウシュビッツ訪問記②】|中谷さんのツアーに参加して

第一収容所の訪問記はこちら↓↓


🕥10:45頃 第二収容所(ビルケナウ)へ

バスで第一収容所から10分ほど移動し、到着。

ビルケナウは、アウシュビッツ最大の収容所であり、アンネ・フランクも一時期ここにいたとされる。
今は草が生い茂っているが、中谷さんは「当時は人が多く、土が踏み固められていて、芝生も生えていなかっただろう」と話す。

ビルケナウのガス室 ── 地下に隠された大量虐殺の仕組み


ビルケナウ(アウシュビッツ II)では、貨物列車で到着した人々がそのままキャンプ奥に運ばれ、すぐに“選別”が行われた。
その場で約75〜80%の人が、労働には向かないと判断され、ガス室に送られたという。

アウシュビッツⅠにある"選別"が行われている写真
実際に利用された貨物列車の一部

クレマトリウム II や III は、地下に脱衣所とガス室、地上に火葬炉がある構造だった。階段を降りた先の脱衣所では、シャワーを浴びるようにと指示され、服を脱がされる。

アウシュビッツⅠにある模型

そこから隣のガス室に誘導され、天井や壁からチクロンB(青酸ガス)が投下される仕組みになっていた。

アウシュビッツⅠにある模型

地下に作られたのは、処刑の様子が外から見えないようにするため。寒さの厳しい冬にも“作業”が止まらないように、という理由もあったらしい。

こうした施設では、ビルケナウ全体で90万人以上が殺されたとされている。終戦前、ナチスは証拠隠滅のためにこれらを爆破し、今は基礎だけが残っている。

爆破されたガス室

また、中谷さんによると、ガス室を爆破することで、連合国との停戦交渉の余地を作ろうとした──そんな政治的な計算があったとされる。
結局その試みは失敗に終わったけれど、戦局が悪化する中で、ナチスがどれほど追い詰められていたかがうかがえる。

収容所の生活環境

収容所のベッドは3段構造で、1つのベッドに4〜5人が体を押し込めて寝ていた。
木の板の上にマットレスなどはなく、板のすき間から冷気が上がってきたという。

バラックには一応ストーブの設備がみられた、煙突が通り、火を入れる場所も確認できる。
けれど、配給される燃料はあったのだろうか。
ポーランドの冬はマイナス20℃近くまで下がることもあり、もともと馬小屋だったというこの建物で冬を越すなんて、想像しただけでゾッとする。

トイレにもプライバシーはなく、ただ穴が並んでいるだけ。衛生状態は最悪で、病気がすぐに広がる環境だったことがわかる。

アンネ・フランクもまた、ここにいた

あの『アンネの日記』を書いた少女、アンネ・フランクも、このアウシュビッツ=ビルケナウに送られている。
オランダのアムステルダムで逮捕されたあと、1944年にアウシュビッツに到着。
そこからアンネと姉のマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送され、チフスによって命を落とした。

アンネが過ごしていたとされるバラック跡

けれど、アンネが送られたビルケナウのバラックやその生活環境を知ると、
彼女が「病気で死んだ」だけでは済まされない過酷さがあったことがわかる。
寒さ、飢え、不衛生、絶望。そのすべてが彼女の命を削っていった。

戦後、この地域の気候や環境のせいで、バラックを維持することができず、今では多くが破壊されてしまっている。 

なぜユダヤ人だったのか?

中谷さんが言っていた。
ナチスが「あなたはユダヤ人だ」と決めれば、本人がそう思っていなくても収容対象になった。自分がユダヤ人だと知らなかった人もいたらしい。

当時のドイツで、ユダヤ人は全体の0.8%しかいなかった。
にもかかわらず、ナチスは「ドイツが戦争に負けたのはユダヤ人のせいだ」とするプロパガンダを展開し、大衆の不満をスケープゴートへと誘導した。
そして、「アーリア人こそが優秀な人種」という優生思想も浸透していた。

たとえば──
・障害のある子は「苦労するから、生まれないほうがいい」とされ、
・アーリア人の子を産めない女性は“劣等”とされた
・同じ理由で、同性愛者も“劣等”として迫害の対象になった

実際、収容所の入口がどこも階段になっていたのを見て、その構造そのものが「選別」の一部だったことに気づかされた。
階段を登れない=障害がある、体力がない=生き残れないと判断され、排除される。
人をふるいにかけるための仕組みが、建物の構造にまで組み込まれていたことが、ただただ恐ろしかった。

あちこちにある階段

そうやって、人間の価値が「生産性」や「血筋」で線引きされていた。

🕚11:45頃 ツアー終了

2つの収容所をまわり、3時間以上にわたる濃密な見学だった。
ただ事実を学ぶだけではなく、「どう見るか」「今の自分とどうつながるか」を考えさせられるガイドだった。

🕕12:30 クラクフへ帰還

ツアーは終了後、再び第一収容所へ戻り、そこからバス停へ向かいました。

運良く12:30発のバスに乗ることができ、14:00頃にクラクフ中央駅に到着。
朝からの長い行程ではあったけれど、静かに余韻の残る時間でした。

このツアーを通して感じたこと


このツアーに参加する前は、「つらい」「怖い」といった感情に襲われるのではないかと思っていました。
でも実際は、それ以上に、日本の歴史や世界情勢と絡めた中谷さんの解説を通して、「なぜこんなことが起きたのか」を少しだけ理解できた気がしたのです。

ナチス政権が成立した背景には、もちろん賛同する者もいたけれど、何より多かったのは「傍観者」だったという話が心に残った。
そして、これは決して過去の話ではない。
今の日本でも、選挙の投票率は低く、「自分には関係ない」と思っている人は多い。
でも、傍観は、結果的に加担に近づいてしまう。

私はこれからの人生の中で、こうした歴史的背景を通して、自分の世界の見方を更新していきたい。
もう二度と、こんなことが繰り返されないように。
そして、平和な世界を少しでも長く保っていけるように。

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