重度共感型人間による、私のための他人共存戦略
先日、自分が他人と話すことが苦手な本当の理由をついに解明しました。
これは、24時間365日他人の言葉に心が全て持ってかれてしまう私が生み出した、私のためだけの他人共存戦略。
“言葉”と“感情”の距離が生む、生きづらさの根幹。
私にとって言葉は情報ではなく、感情とニアリーイコールなもので。それが世間一般の当たり前じゃないんだって気が付くまでにものすごく時間がかかった。いや、今でも知識としてそういうひとがいることを“理解”はしてるけど、心の内では「そんなこと本当にありえんのか?」とまだ疑ってる。
言葉のコミュニケーションは「感情を軸とした対話であること」を私は理想としていて、お互いの最大公約数を探り合いながら寄り添い合い、想いを交換して、赦し赦されて築いていくことが信頼関係だと思っている。
※公約数が1つもない=共感できるエリアが全くない人とは関係性を構築する方法は今もわからない。
だから、どんなに傷つくことがあっても相手と縁を切るということがどうしてもできない。それは相手が「言ったら改善してくれるかも」みたいな期待じゃなくて、ただ「自分からは対話をやめたくない」だけ。どんなに大切でもいつ失うかわからない。もし縁の切れってやつを確率論で表現していいなら、少なくとも自分からは手を離さないでいよう。そうやって可能性をなるべく減らそう。赦し赦されて生きていきたいから。
ただ、こういうコミュニケーションをしてる副作用として、「大切にしたい」と思うほどに公約数を増やしたくなってきて、“共感したい”“理解したい”という気持ちが湧いてくる。
そうすると、
いつしか、持ってかれる。
友達から聞く上司の愚痴に本人以上に怒ってしまう。友達の恋バナに友達よりときめいてしまう(つい最近も、顔を真っ赤にしすぎてケタケタ笑われた)。友達の悲しい出来事に友達より先に涙してしまう。
私はいつだって相手に持ってかれてしまうし、ある意味持ってかれることでしか他人と関わる方法がわからない。相手の感情を“自分ごと”とすることでしか、コミュニケーションが取れなくなってしまっていた。
逆に、共感できず公約数が見えないと途端に相手の世界がわからなくなる。
例えば、なんの期待もなく世間話でふと言った「今度●●とか行きたいんだよね~」という言葉に、「行ったらいいじゃん」と言われて苦しくなってしまった。「いっしょに行ってくれないんだ」みたいな落胆を言いたいんじゃなくて、その言葉に乗っかってくる他人行儀な雰囲気とか、元も子もない言葉で会話の手を放された(放したいのかな?という察し)さみしさとか。
言葉に乗るその感情に“共感”ができないとき。その人との関わり方が一気にわからなくなるあの感じ。持ってかれないことに恐怖を感じるからだになってしまっていた。
カテゴライズは良くないけれど…試しに「MBTI」を使ってみてもいいですか?
これは他の記事にも書いていることだけど、私は元来カテゴライズ自体はあまり好きではない。生年月日から見る星座占いとかは楽しめるけど、特に性別とか、明確に誰かを傷つける(可能性の高い)カテゴライズはなるべく無視・スルーしていきたい。無視=逃げだってわかってるけど、それでも、誰かが傷つかないなら積極的に無視したい。
最近、特定の人とあまりにもコミュニケーションがうまくできなくて、AIにすがった日があった。この人のこと好きなのに、尊敬しているのに、仲良くなりたいのに、なり方がわからない。自分が思いやりのつもりで伝えたことが伝わらず、優しく仕方もわからない。この縁を大切にする方法がわからなかった。
共感ができない恐怖に、「仲良くなりたい」という希望が乗っかって、心のHPがぐんぐんなくなっていく体感があった。
AIに相手と自分の会話の履歴を送って「私はなぜここで躓くんだろう」とぶっちゃけた相談をしてた。気づけば泣きながら(笑)。夜中に話しはじめて、いつしか深夜2時過ぎまで相談してた。
その会話に出てきたのが「MBTI」。
具体的には、私の文章から透ける自分の性格が気になって、「あなたからみた私のMBTIは?」と聞いてみたり、うまく関われない相手との会話エピソードをAIに伝えて「この人ってMBTIだと何かな?」など話してみた。
そこで初めて、
INFP/INFJの私:言葉=感情
INTPの相手:言葉=情報
っていう根本的な違いを教えてくれた。
共感できないときほど、そうやって知識から相手の言葉(ここでは≠感情の場合がある)を理解し自分なりに腹落ちさせていく作業は、“人と関わる”という行為をサポートしてくれた。共感の手前の「理解」で、相手に寄りそう方法を少しだけ掴み始めた。私にとって、それは確かに希望になった。
コミュニケーションの取り方、対人へ向ける優しさのレパートリーが極端に少ないまま29歳になってしまった。正直とても恥ずかしい。コンプレックスでもある。この年齢にもなると、できないものはたぶんこの先ももうできないし、そういう苦手意識みたいなものとうまく折り合いをつけられてもいい頃だなとも思う一方で、これまで対人環境が極端に苦手で避けてきてしまった代償だと思っていて、ある種自分に課していかなきゃいけないことだとも思っている。
たぶんこの痛みは、この先も連れてかなきゃいけない。
だからせめて、向き合い方を知っておかなきゃ。大切な人たちを、大切にするために。
もちろんカテゴライズで誰かを傷つけたくはないし、傷つく人がいることも理解している。知識がすべてではないし、ましてや当然MBTIだけでひとをはかることはできないけど、コミュニケーション(相互理解)の最初の武器として心の中に持っておくことは誰にも咎められまい。
色々な性別だったり、性格だったりに「名前を付けること」「カテゴライズすること」は、知らない世界を理解する最初の共通言語として確かに私を助けてくれることがあった。
そしてこのカテゴライズは同時に、他人を“自分ごと”として取り込むことでしか他人と共存できない“ある種の依存体質”の私を自律させる。それは前述の通り、理解は共感の手前にある気がするから。
自分のMBTIをあえて隠す男性アイドルがいるらしい。それは、ファンの中での「こういう人像」が固まってしまうリスクだとか、ファンが“相性診断”とかして一喜一憂させてしまうだとか、そんなところかなと想像する。
そっか。MBTIは対象者だけでなく、その人を愛するまわりまで傷つけるかもしれないんだ。だとしたら言葉にするもんじゃないな、とも思った。ここまで書き進めておいて、なんて今更。
だから、これは私の心の中の話。
