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小説を書くことに、希望はあるのか

二十年前に読んだ、名前も知らない人の夢小説を探している。

『テニスの王子様』の千石清純くんが登場する夢小説だった。福山雅治さんの「ひまわり」をテーマソングに、大人になった主人公と千石くんが再会し、ひと夏を過ごす。

しかし彼はある日突然姿を消し、その後、主人公は彼が数年前にすでに亡くなっていたことを知る。

タイトルも、作者さんの名前も、サイト名も分からない。

細かなシーンもほとんど忘れているのに、二十年以上経った今でも、夏になると思い出す。

バス停や白いガードレール。連なり咲くひまわりの群生。強い夏の日差し。そして、ひょうきんな千石くんと過ごす、おかしくて、美しくて、どうしようもなく切ない夏。

先日、その作者さんに向けて手紙のようなエッセイを書いた。

書きながら、自分でも引くくらい、ボロボロと涙が溢れてしまった。

なぜこんなに泣くのか、自分でもよく分からなかった。


ただ、二十年前には「すごくよかった」「感動した」「泣いた」としか言えなかったであろう小説の感想を、三十六歳になった私はようやく言葉にできるようになっていた。

人と人との間にあるものには、恋人や友人や家族という名前がつかないもの。名前がないからこそ、終わらせることのできない関係もある。

小説の内容を忘れても、そのとき生まれた感情だけが人間の中に残り続けることを。


二十年間かけて、私はようやく「あの小説の何が好きだったのか」を言葉にできた。


心に残る小説というと、私たちはつい「好きな小説」を思い浮かべる。

けれど考えてみると、私の中にはもうひとつ、長いあいだ消えなかった小説がある。

こちらは宝石ではない。
いつまでも胸の奥をざらつかせる、小石のような小説である。

島本理生さんの『ナラタージュ』だった。

古本屋で表紙の写真に惹かれて、なんとなく手に取った。高校生だったのか大学生だったのか、それさえ今では曖昧である。

女子高生だった主人公が男性教師に恋をする物語だ。


これまた私は、あらすじも細かな出来事も、きれいさっぱり忘れていた。
ただひとつ覚えていたのが、読み終えた瞬間の身体の感覚だった。

胸が切ない、ではなかった。
もっと生々しいものだった。

胸焼けに近い。嘔吐する一歩手前のような、「なんだか身体がおかしい」という感覚。

変な姿勢で長時間読んでいたせいだったのかもしれないし、夢中になりすぎて、お茶を飲むのも忘れていたのかもしれない。

それでも私は本を閉じて思った。

「なんだ、この小説は」

嫌だった。
二度と読みたくないと思った。

実際、それから一度も読み返していない。

しばらくして『ナラタージュ』が映画化されることを知った。有村架純さんと松本潤さんが出演するとニュースで見て、それだけで私は「うげ」と思った。

自分でも妙だと思う。
嫌いなら忘れればいいのに、忘れなかった。

千石くんの夢小説をきっかけに、久しぶりに福山雅治さんの「ひまわり」を聴き、ふと『ナラタージュ』のことも思い出した。

そこで初めて、あらすじを調べ直した。

そして二十年近く経って、ようやく、あの嘔吐感の正体が分かった気がした。


私は、主人公が恋をする男性教師を嫌悪していたのだ。

少なくとも、今の私はそう読む。

好きだと言い切ることも、離れることもせず、若い女性の感情を受け止めながら、自分の事情も、自分の弱さも抱えたまま彼女との関係を手放さない。

その曖昧さを、十代か二十歳そこそこの私は、理屈では説明できなかったのだろう。

「この男はずるい」

とさえ、うまく言葉にできなかった。

だから身体が先に拒否した。小説を閉じたあとの嫌悪感は、きっとそのせいだ。


いま考えると、あれもまた、ものすごい読書体験だったのだと思う。

好きだったから二十年覚えていた作品。
嫌だったから二十年覚えていた作品。

ひとつは、夏の光の中にある。

ひまわりの黄色と、海の青と、白いガードレール。そこにいる二人を思うと、今も胸の奥が甘く痛む。

もうひとつは、私の中ではいつも薄暗い雨の中にある。

湿った空気と、息苦しさ。触れればまた胸がざらつきそうで、近づきたくない。


まったく違う二つの作品である。けれど、どちらも二十年近く私の中に残っている。そう考えたとき、最近ずっと考えていた問いに、少しだけ答えが見えた気がした。

小説を書くことに、希望はあるのだろうか。


書いてもどこまで読まれるのか、何をもって「読まれた」とするのかも難しい。コンテストへいくら出しても、賞にかすりもしないかもしれない。何年すればと希望を抱いても、五十歳になっても芽が出ない未来も、ゼロではない。

何時間も、何か月も、ときには何年も費やして書いたものが、数字の上ではほとんど何も起こさずに終わることがある。


それでも。

読者が黙って、持ち帰るものがあるのかもしれない。

私は、二十年前に千石清純の夢小説を書いた人へ、おそらく感想を届けていない。もし送っていたとしても、「すごくよかったです」「めちゃくちゃ感動しました」と凡庸なコメントしか書けなかっただろう。

その作者さんは、自分の小説を読んだ女の子が、その後二十年間、夏になるたびに作品を思い出していたなんて知らない。


『ナラタージュ』を書いた島本理生さんも、一人の読者が本を閉じたあと、「気持ち悪い」と思いながら、それでも二十年近く忘れられずにいたことなど当然知らない。

書き手には、読者のその後が見えない。

ここが、小説を書くことの残酷さであり、希望なのだと思う。

反応がないから、届かなかったとは限らない。忘れられたように見えても、消えたとは限らない。

読者本人にさえ、その作品が何を残したのか分かるまで、二十年かかることがある。

作品は、読者の中で作者の知らない時間を生きる。

宝石になるものもある。
何度触れても美しいまま、夏の光を閉じ込めているもの。

小石になるものもある。
なぜか捨てられず、胸の奥に入り込んでは、ときどき触れるたびにざらつくもの。

どちらが優れた小説なのか、私には分からない。

ただ、どちらも私を変えたことだけは確かだ。そして、小説を書くようになった今の私は、その事実を少し怖く、同時に、とても心強く思う。


私が書いたものも、
誰かの中でそんなふうに残ることがあるのだろうか。


分からない。たぶん、書いている間には永遠に分からないのだろう。今日「いいね」が何件ついたかでは測れない。感想欄にも現れない。

何年か後、その人が夏の匂いを嗅いだとき、雨の音を聞いたとき、誰かに名前を呼ばれたとき、突然一場面だけが戻ってくる。

「ああ、昔読んだ小説に、こんな場面があったっけ」

タイトルも筋書きも、作者の名前さえも忘れていい。それでも、その人の中に何かひとつ残ったなら。

小説を書くことには、たぶん希望がある。


少なくとも私は、二十年前に名も知らない誰かが書いた小説を、まだ抱えて生きている。

だから今日も、小説を書いてみようと思う。


🌻

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