専業作家として、生きたい。
書くことだけで、生きていきたい。
そんな願いに、私はようやく気づいた。
専属編集者のセッションで、いつもお世話になっている岡本編集長に、恐る恐るその話をしたところ、
「前からそうだと思っていました」
と、驚くほどあっさり返された。
「言葉の端々に出ていましたよ」
えっ。
ど、どこに……???
こちらとしては、自分でも最近まで認めていなかった感情の重大告白のつもりだったのに、岡本さんにはずいぶん前から見抜かれていたらしい。
ありがたいやら恥ずかしいやら、私はパソコンの前でモゾモゾと体を動かした。
けれど、振り返ってみれば「そんなつもりは」と思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
この一ヶ月ほどで、私の周囲は急に賑やかになった。
仕事の問い合わせが増え、仕事以外でも声をかけてもらう機会が多くなった。読者から感想が届き、会って話したいと言ってもらえることもある。
それ自体は、ありがたく、うれしいことである。
書いたものが誰かに届き、私という人間にも関心を持ってもらえたのだから、以前の私が見れば、きっと諸手を挙げて喜んだだろう。
実際、今の私もうれしい。
ただ、それとは別に、外で人と会うとひどく疲れるようになった。
仕事の場でも、休みで誰かと過ごしているときでも、私は相手の表情や声の調子、言葉の選び方から、勝手にその背景や意図を読み取ろうとしてしまう。
その場では楽しく過ごせるのに、別れた後になって脳内で私はまだ席に座って、反省会を続けていた。
そうして家へ戻る頃には、すっかりエネルギー切れを起こし、六歳の子どもより先に布団へ突っ伏している。
頭の中がやけにざわざわして、寝ることでしか解決できない。枕に顔を埋めながら、私は呻いた。
もう、書くことだけで生きていかせてくれ。
静かな部屋で、ただ原稿に向かわせてほしい。
その方向へ進まなければ、心が先に限界を迎える予感がした。
こんなふうに苦しさを抱えたとき、いつも頭の片隅には、平安文学に出てくる人々の姿が浮かぶ。
悲しいことが起きるたび、彼らは世を儚んで出家しようとする。
恋に振り回されたり、権力争いに負けたり、家族との別れがあったり。何か深く悲しいことがあると、平安人はすぐに俗世を捨て、髪を下ろそうとする。
高校生の私は、『古今和歌集』や『源氏物語』を読みながら、
「また出家しとる」
と半笑いで読んでいたのに、大人になって何度同じことを思ったか。
私も、出家させてくれ。
いや、仏門にも修行にも、これっぽっちも興味はない。早朝から掃除をしたり、冷たい床に正座をしたり、粗食に耐えたりする覚悟もない。
ただ、俗世から少し離れたい。
世界の音量を小さくして、誰にも呼ばれず、何も返さず、静かな部屋で文章だけを書いていたい。
人が嫌いなわけじゃない。
むしろ、人と関わる仕事ばかり選んできた。
中学教師だった頃は、生徒たちと毎日顔を合わせ、介護職では高齢者の方と関わった。
大変なこともあったけど、人と過ごすことが楽しくてしかたなかった。
誰かの人生に近いところで働くことを、私はずっと愛している。
だから、今になって「人と会うより、一人で書いていたい」と思うことは、以前の自分が大切にしてきたものを裏切るようで、少し怖かった。
人と関わることが好きだった私は、一体どこへ行ったのだろう?
教育や介護に意味を感じていた気持ちは、もうなくなってしまったのか。でも、きっとそうではない。
私は今も、人と関わりたい。
ただ、誰とでも、どこまでも、同じ濃度で関わり続けたいわけではない。
信頼できる人たちと関わりたいし、大切だと思う相手の言葉には耳を傾けたい。
そのうえで、私は何よりも、文章を通して、人と関わりたいのだと気づいてしまった。
書くことであれば、一度自分の中へ持ち帰り、考えられる。
相手の言葉にすぐ返事をせず、何度も読み直し、自分の感情と他人の感情を分けてから、言葉を渡せる。
会話では、その場で返さなければならない。けれど文章なら、沈黙も言葉の一部にできる。
私は、文章を通して人と関わるとき、一番深く誰かとつながれるのかもしれない。
その関わりを望んでいるのだ。
それに気づいた途端、これまで曖昧にしてきた願いが、急に輪郭を持った。
専業作家になりたい。
自分の文章を書きたい。
書くことだけで、生きていきたい。
朝から机に向かい、エッセイを書き、小説を書き、本を書く。一日の大半を、自分の中にある言葉や物語を形にすることへ使いたい。
誰かの考えを言葉にする仕事ではなく、自分の中に生まれたものを書くことを、生活の中心に置きたい。
これまで私は、文章コンサルタントを主軸に活動するつもりだった。作家はあくまで副軸として。これが綺麗な形だと思ってきた。
教えることも、人の思いを言語化することも、やりがいを感じる。けれど、それは現在の働き方であって、私が本当にたどり着きたい場所ではなかった。
私はずっと、現実的な言葉を使って、自分の願いを小さくしていたのだと思う。
「作家一本では食べていけないから」
「まだ一冊、本を出しただけだから」
「書店流通もしていないから」
「小説で賞を取ったわけでもないから」
そんな駆け出しの人間が、「専業作家になりたい」などと口にするのは、随分夢見がちで、おこがましい話じゃないか。
夢を見る前に、働かなければならない。エッセイや小説は、仕事や家事を終えたあとの時間でやるものだ。そうやって自分を納得させてきた。
けれど、納得したふりをしただけで、体も心もずっと反対していたのかもしれない。
「書かせてくれ」
ずっと、心の底で、私が叫んでいた。
生活の中で書く時間が削られていくと、私は息が浅くなる。
誰かと会い、話を聞き、頼まれた仕事をして、すべてが順調に進んでいるはずなのに、自分だけが少しずつ薄まっていくような感覚がある。
反対に、何時間も小説を書いた日は、どれほど疲れていても、自分の中へ戻ってこられた気がする。
自分の文章を書くことを、副軸だと言えない。とりわけ小説を書くことを、趣味の場所へは戻せない。
余暇に楽しむものでも、仕事の隙間に押し込んでおけば満足できるものでもない。生活の中心に置かなければ、私自身がうまく保てないものになっている。
だからといって、明日からほかの仕事をすべて辞めるわけじゃない。
「専業作家になりたい」と書いたところで、急に印税だけで暮らせない。書いたものがバンバン売れる保証もなければ、小説が評価される確証もない。
そんなことは、十分に分かっている。
ただ、自分がどこへ向かいたいのかを、もう誤魔化せなくなってしまった。悲しいほど、怖いほど、こそばゆく恥ずかしいほどに。
教えることも好きだから、講座や教育の仕事は続けるけれど、たくさんは受けない。
一方で、書く仕事を増やし、実名で小説を出し、賞へ応募し、自分の物語を安全な場所に隠したままにしない。
叶えられるかどうかを査定する以前に、もう私は、そういう生き方しかできない体になっている。だから何度、心が折れようとも、やるしかないのだ。
どうせ、筆は手放せない。
夢は、今の実績に見合うかどうかを審査してから抱くものじゃない。
まだそこへ届いていないからこそ、行きたい場所として掲げる。
私は、専業作家として生きていきたい。そして、その文章を通して、あなたと深く出会いたい。
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