密やかな美/小村雪岱のすべてを観る
小村雪岱展へ。
北浦和・埼玉県立近代美術館。
美人画の画家だと思っていた。
しかし、本当の驚きはその先にあった。
挿絵、装幀、舞台装置。
雪岱は一枚の絵を描く人ではなく、一冊の本、一つの舞台、一つの世界を設計する人だった。
『お傳地獄』の刺青の挿絵は、露骨ではないのに官能的だ。

『お傳地獄』の「刺青」は、露骨に描かないからこそ官能的。
肌の白さ、墨の黒、余白、視線。
そのすべてが緊張感を生み、「見せる」のではなく「想像させる」エロスになっている。
AVの世界で長く現場を見てきた視点から見ても、あれは身体そのものではなく、空気を描く官能だと感じられた。
描かれているのは肌ではなく、余白であり、気配であり、想像力。
美しい絵を見たというより、「世界のつくり方」を見た展覧会だった。
*
もう一枚。
『泉鏡花撰集』裏見返原画。


まず惹かれるのは、主役がいないことや。
通りは広く、人影はほとんどない。
その静けさの中で、右下のうどん屋だけに人の気配が灯っている。
店先でしゃがみ込み、店主と言葉を交わす男。
たった二人なのに、この町全体に生活の温度が生まれている。
そして、雪岱らしいのは余白の使い方や。
道路の大半は何も描かれていない。
なのに寂しくない。むしろ、その空白のおかげで、障子の明かりや店の灯が際立っている。
うどん屋も派手ではない。
「うどん」の行灯がぽつんと出ているだけ。
しかし、その小さな灯が町全体の視線を集める。
まるで映画のワンシーン。
舞台装置の書割のような絵。
書割は、建物を精密に再現することではなく、役者が一番美しく見える空間をつくることが目的や。
この絵も同じ。
・家並みは細密なのに、不思議と立体感を強調しない。
・道は広く空けられ、人物が立てる余白になっている。
・障子の灯りが、舞台照明のように町を照らしている。
だから「風景画」というより、「これから何かが始まる舞台」に見える。
そして右下のうどん屋は、舞台でいえば役者が最初に登場する場所や。
もし鏡花の小説なら、あそこで一杯すすったあと、芸者が通り、雨が降り、物語が動き出しそうな気配がある。
この絵が「泉鏡花全集の見返し」になっている。
普通なら主人公や名場面を描きたくなるところを、雪岱はそうしない。
物語が始まる前の空気を描く。
本を開いた瞬間、読者はもう鏡花の世界へ一歩踏み込んでいる。
雪岱は挿絵ではなく、読者の気持ちを舞台へ送り出す装置を作っていたんやろね。
これは雪岱の装幀思想を考える上でも象徴的に思えた。
俺が好きなワイエスやハマスホイにも通じるものがある。
人ではなく、人の気配を描く。
だから、このうどん屋の絵を見ていると、「あの店に入って、一杯すすってから鏡花を読もう」という気持ちになるんよ。
そんなところまで設計しているように見えてくる。
*
『刺青』の挿絵を見て、ふと思った。
こんな姿勢の女を、後ろからそっと抱いてみたい、と。
その姿勢、その静けさ、その無防備さ。
それは征服欲というより、その静寂の中へ自分も入りたい、あの静けさに、手を添えてみたい、そんな思いや。
展覧会の「密やかな美」という言葉も、そこにぴったりする。
身体を抱くことよりも、その人がまとっている時間や気配を抱きたい。
雪岱の「刺青」は、そんな感覚を呼び起こす一枚だった。
