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密やかな美/小村雪岱のすべてを観る

小村雪岱展へ。
北浦和・埼玉県立近代美術館。

美人画の画家だと思っていた。
しかし、本当の驚きはその先にあった。

挿絵、装幀、舞台装置。
雪岱は一枚の絵を描く人ではなく、一冊の本、一つの舞台、一つの世界を設計する人だった。

『お傳地獄』の刺青の挿絵は、露骨ではないのに官能的だ。

『お傳地獄』挿絵「刺青」1935年

『お傳地獄』の「刺青」は、露骨に描かないからこそ官能的。
肌の白さ、墨の黒、余白、視線。
そのすべてが緊張感を生み、「見せる」のではなく「想像させる」エロスになっている。

AVの世界で長く現場を見てきた視点から見ても、あれは身体そのものではなく、空気を描く官能だと感じられた。

描かれているのは肌ではなく、余白であり、気配であり、想像力。
美しい絵を見たというより、「世界のつくり方」を見た展覧会だった。

もう一枚。
『泉鏡花撰集』裏見返原画。 

『泉鏡花撰集』裏見返原画 1915年
左の紺色の人物が客、右の頭を丸めた人物が店主か?

まず惹かれるのは、主役がいないことや。

通りは広く、人影はほとんどない。
その静けさの中で、右下のうどん屋だけに人の気配が灯っている
店先でしゃがみ込み、店主と言葉を交わす男。
たった二人なのに、この町全体に生活の温度が生まれている。

そして、雪岱らしいのは余白の使い方や。

道路の大半は何も描かれていない。
なのに寂しくない。むしろ、その空白のおかげで、障子の明かりや店の灯が際立っている。

うどん屋も派手ではない。

「うどん」の行灯がぽつんと出ているだけ。

しかし、その小さな灯が町全体の視線を集める。
まるで映画のワンシーン。
舞台装置の書割のような絵。

書割は、建物を精密に再現することではなく、役者が一番美しく見える空間をつくることが目的や。

この絵も同じ。

・家並みは細密なのに、不思議と立体感を強調しない。
・道は広く空けられ、人物が立てる余白になっている。
・障子の灯りが、舞台照明のように町を照らしている。

だから「風景画」というより、「これから何かが始まる舞台」に見える。

そして右下のうどん屋は、舞台でいえば役者が最初に登場する場所や。

もし鏡花の小説なら、あそこで一杯すすったあと、芸者が通り、雨が降り、物語が動き出しそうな気配がある。

この絵が「泉鏡花全集の見返し」になっている。

普通なら主人公や名場面を描きたくなるところを、雪岱はそうしない。

物語が始まる前の空気を描く。

本を開いた瞬間、読者はもう鏡花の世界へ一歩踏み込んでいる。

雪岱は挿絵ではなく、読者の気持ちを舞台へ送り出す装置を作っていたんやろね。
これは雪岱の装幀思想を考える上でも象徴的に思えた。

俺が好きなワイエスやハマスホイにも通じるものがある。

人ではなく、人の気配を描く。

だから、このうどん屋の絵を見ていると、「あの店に入って、一杯すすってから鏡花を読もう」という気持ちになるんよ。

そんなところまで設計しているように見えてくる。

『刺青』の挿絵を見て、ふと思った。

こんな姿勢の女を、後ろからそっと抱いてみたい、と。

その姿勢、その静けさ、その無防備さ。

それは征服欲というより、その静寂の中へ自分も入りたい、あの静けさに、手を添えてみたい、そんな思いや。

展覧会の「密やかな美」という言葉も、そこにぴったりする。

身体を抱くことよりも、その人がまとっている時間や気配を抱きたい。
雪岱の「刺青」は、そんな感覚を呼び起こす一枚だった。

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