第3章 癒しのありか
子供の頃、風邪をひくと、祖母が枕元で「おまじない」のようなことをしてくれました。
不思議なもので、それだけで少し楽になった記憶があります。
今日は「奇跡」をめぐる話の最終回、「癒し」について考えます。
「奇跡」と呼ばれる出来事の中で、いちばん多いのは「病気の治癒」だと言われます。
聖地を訪れたら病が治った。
聖なる水を飲んだら回復した。
そういう話は、洋の東西を問わず、昔からたくさん伝えられてきました。
これらを、ただの作り話と片づけるのは簡単です。
でも、実際に治った人がいるのだとしたら、そこには何かが起きています。
考えてみたいのは、その力の「ありか」です。
聖地や聖水そのものに、病を治す特別な力が宿っているのでしょうか。
もしそうなら、訪れた人は全員治るはずです。
でも、実際はそうなっていません。
だとすれば、こう考えることができます。
深く信じ、心から安心したとき、人の体と心は、回復に向かう状態に整えられる。
信頼と確信が、体の内側にもともと備わっている治る力を、静かに呼び覚ます。
力は外から気まぐれに降ってくるのではなく、その人の内側で目を覚ますのです。
信じる対象は、聖地でも、聖水でも、お守りでも、実は何でも良いのだと思います。
大切なのは、その人が心の底から安心できるかどうか。
鍵は対象の側にではなく、受け取る心の側にあります。
日本には昔から、「病は気から」という言葉があります。
短い言葉ですが、なかなか深いことを言っています。
現代でも、心の状態が体に影響することは、広く知られるようになりました。
安心や希望が、体を守る働きを支えることも、研究が進んでいます。
昔の人が聖地で体験したことと、今の研究が指し示すことは、案外近いところにあるのだと思います。
もちろん、逆のことも起こります。
不安や恐れが続くと、体は守りの力を発揮しにくくなります。
心配ごとが続いた後に、どっと風邪をひいた経験は、多くの人にあるはずです。
心と体は、想像している以上に、深くつながっています。
だからこそ、日々の安心を大切にしたいのです。
温かい食事、十分な眠り、気心の知れた人との笑い。
地味なようでいて、これらはみんな、内側の治る力への応援です。
かつて、多くの病人を癒したと伝えられる人がいました。
その人自身は、自分が奇跡を行ったとは一度も言わなかったそうです。
それどころか、自分と同じことは誰にでもできる、と語ったと伝えられています。
この言葉が、癒しの本質をよく表しています。
治る力は、特別な誰かの独占物ではありません。
すべての人の中に、最初から備わっているものです。
特別な人とは、その力の通り道を認識して、人より広く開いていただけのことです。
三回にわたって、奇跡について考えてきました。
たどり着いたのは、シンプルなことです。
奇跡とは、自然の外側で起こる特別な出来事ではなく、まだ理解されていない自然の働きだということ。
そして、その働きの一部は、私たち自身の内側にあるということ。
遠くの聖地まで行かなくても、力のありかは、案外近くにあります。
祖母の「おまじない」も、今思えば、安心という名の癒しだったのでしょう。
母が痛い所に手をあててくれたら、なぜか痛みが和らいだ経験も癒しだったのでしょう。
枕元の温かい気配が、小さな体の治る力を呼び覚ましていました。
そう考えると、それらも立派に、法則にかなった出来事でした。
「不思議」は遠くにあるのではなく、日々の暮らしの中に、静かに息づいています。
今夜あたり、温かいものでも飲んで、内側の力をねぎらうことにします。
三章にわたり、お付き合い下さり有難うございました。
富士山麓からあなたへ。
ボンちゃん。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします!
いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!
ありがとうございます。