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オーディオドラマ「独りイタリアン」 台本

 嫌いな上司への返信を終え、スマホを鞄にしまった私が吐いた息は、ため息を吐いたとも、一息ついたとも取れるものだった。目の前に置かれたお皿からはブルスケッタが私の顔色を伺っている。ビジネススーツはドレスコードとしては大間違いではないだろうが、今の私はそこそこ着崩しているから店が店ならアウトだろうな。でもここはそんなに敷居の高い店じゃない。大衆イタリアンと言ったら言い過ぎだけど、割とカジュアルなお店だ。店内はちょっと暗いけど。

 低めのソファに低めのテーブルのおしゃれさを最優先したであろう席では、4人組の女子会が開催されている。私の知らない、きっと彼女たちの間でしか通じないであろう隠語と、いったい何人出てくるのか分からない男たちの名前が次々と聞こえてくる。中学か高校の同級生なんだろう。みんなそのくらいの語彙に戻っている。
 
 少し離れたテーブル席では、…あれはきっと合コンだろうな。私と同い年くらいの男女数名が盛り上がっている。座席の位置的に後ろを向かないと見えないが、私は窓の反射を利用してさっきから彼らをこっそりと見ている。窓しか見ていないから顔まではっきりとは見えないけど、うっすら聞こえてくる声色から、女の子たちはかわいいんだろうなと思う。男たちは全員、鼻の下が伸びていないと出せない声を、調子に乗っていないと出せない声量で出している。それを踏まえるとやっぱり女の子たちはかわいいのだろう。
 
 私はというと、そんな奴らを横目にカウンターで独りワインを嗜んでいる。…孤独じゃない。孤高と言って欲しい。私は一人でもこの時間と空間を楽しめるのだ。馴れ合う彼らとは違う。
 
 ただ問題もある。会社勤めのストレスをなんとか自力で昇華しようと始めたこのひとりイタリアンも、だんだん習慣化してきた。ストレスを昇華するという当初の目的はある程度果たせているだろうけど、このままこれが完全に習慣化してしまったら、これも含めた日常を脳がストレスだと判断してしまいそうだ。私はここで非日常に逃避したいのに。
 
 トイレに行きたくなってきた。飲食店でひとりのときにトイレに行くのは難しい。荷物を置いて席を立つと、万一盗まれたときに絶対に後悔する。貴重品だけを選ぶにしても、カバンの中の資料は社外秘だし、全部盗まれちゃまずい。荷物を全て持って行くと、食い逃げをする奴に見られるかもしれない。いやどっちもほとんどの場合起こりえないけど。でも少しでも可能性がある嫌なことは嫌なことなのである。

 結局、財布とスマホだけを持って、急いでトイレを済ませることにした。トイレは私の想像より広くて落ち着かず、荷物を席に置いてきた焦燥感が加速した。

 誰か入ってきた。2人っぽいな。もしかして、さっきの合コンの子たちか?声色が似てる。似てるけど、似てない。同じ人の声だけど、目の前に男がいないときの声だ。メイクを直し始めた。勘弁してください。出られないじゃないですか。このトイレの洗面台は二つだった。私はこういうときに空気を読まずに出ていけるタチではない。でも早く戻らなければ。社外秘が私を待っている。あるいは鞄をダミーに使った食い逃げ犯だと思われかねない。
 
 気持ちゆっくりと済ませたが、彼女たちはまだ動かない。もう流石に覚悟を決めて個室から出た。…覚悟は、決まっていなかった。私が想像していた以上に彼女たちはかわいくて、それでもって性格が悪そうだった。完全に萎縮した私は、蚊の鳴くような声で「すいません…」と言いながら、片方の洗面台を使った。色んな理由で急いでいたけど手は清潔にしたかったから凄く変な手の洗い方になっていた気がする。

 片方の子と鏡越しに目が合った。顔が小さい。鏡越しに正確な大きさは分からないかもしれないけど、そんなことが影響しないくらいに小さい。そんな小顔の彼女が私の顔を見てどこか安心したような顔をしたのを、私は見逃さなかった。私を、自分はかわいいんだということの確認のための踏み台にしやがった。私はこういうのに敏感だ。そもそも私は今「私かわいいでしょ〜」という顔をして歩いてなどいなかった。私だって私の顔が彼女よりかわいくないことなど分かってる。だから勝負を仕掛けてないでしょ。こんなの、手を挙げてるのに銃で撃たれるような、告白してないのに振られるような、下を向いてるのにポケモンバトルを仕掛けられるようなものだ。戦う意志なんてないっての。

 彼女の使っていたリップは、私が普段使っているのと同じものだった。せめて私の使ってるのよりいいメイク道具を使っていてほしかった。

 なんでこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ。ただ単純に私の容姿を下に見られたことが悲しかったのではない。いやそれも悲しかったけど。何よりも、この空間の意味を変えられたことが悲しいのだ。私はこの空間が好きだった。私はこの空間も料金に含めてお金を払っていたのだ。私をひとりにしてくれるが孤独にはしないでくれるこの空間が、たった今私の容姿でもって自信をつける奴らの溜まり場に変わった。もうここには来られないな。次はひとり何を始めよう。悲しさが怒りに変わってきた。なんなんだマジで。怒りに任せて、さっきまで大事に少しずつ飲んでいたワインを一気に流し込んだ。

 ……そのとき、ふと我に帰らされた。……私は、誰も踏み台にしていないのか?自分の問いかけのくせに、冷や汗が出てくるのが分かった。さっきまでの自分の思考が、声に出していないはずなのに耳元で何度も繰り返された。女子会や合コンで盛り上がる彼女たちを自分と比べて、働く自分を肯定するための踏み台にしていた。私だって彼女たちと同じではないか。いやそもそも女子会の彼女たちは私に何もしていない。合コンの彼女たちだって、私に腹を立ててなどいない。自分もしている愚行に腹を立てている自分が、一番愚かなのではないか?

 だめだ。やっぱりもうここには来られないな。今日のことを思い出してしまう。今日のことというのは、トイレでのことじゃなくて、今のこの数秒のことだ。今度はひとり何を始めよう。別の場所でもまた他人を踏み台にしてしまうだろうか。じゃあ個室居酒屋とか?いや、孤独になってしまう。じゃあ私も女子会とか合コンとかをすれば…いや、私はそこでも踏み台を作ってしまうのかもしれない。残りのブルスケッタを食べながら、次の計画を立てようとしたが、意識のほとんどは未来ではなく過去に向いていた。過去というか、ここ数十分のことだけど。ブルスケッタは時間が経ってきっと味が落ちていたんだろうけど、私にはもう、味なんて分からなくなっていた。

作 石塚友笙



一話完結のオーディオドラマ「井戸端モノローグ」

この世界のどこかで生きている、とある人の、一日の、ひとときの出来事。とりとめのない話、くだらない言葉。誰かの日常のほとりに集まろう。

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