人生で2回だけ行った本屋
子どもの頃に1回だけ行った本屋がある。
私が小学生だった30年ほど前、母と2人で電車に乗って出掛けたことがあった。
それまで使ったことがない知らない駅で降りて、少しだけ歩いて連れて行かれたのは小さな本屋だった。
細かいところはもうよく覚えていないのだが、そのお店は少し薄暗くて細長いような印象で、内装は木で出来ていて、絵本がたくさん置いてあった。

並んでいるのは子ども向けの絵本や児童書ばかりで、本が好きだった私は「絵本だけ置いてる本屋さんなんだ」と少し楽しい気持ちになった。
店の中には母と同年代ぐらいの女性の店員さんが1人だけいて、母と何やら話していた。
私と母は店員さんに薦められた児童書2冊を購入し、それほど長くは滞在せずに帰ったように思う。
本屋に行った日のことで覚えているのはこれぐらいで、記憶の解像度としては一昨日見た夢レベルの曖昧さなのだが、それでもこの出来事が私の記憶から消えなかったのには理由がある。
この日買った児童書2冊、これがとてつもなくおもしろかったのである。
それはロアルド・ダール作の「チョコレート工場の秘密」と「マチルダはちいさな大天才」という本だった。(リンクを貼ったが、「チョコレート工場の秘密」は私が読んだ田村隆一訳バージョンが見つからなかった)
「チョコレート工場の秘密」は映画が有名なのでご存知の方も多いかもしれないが、少しだけ2冊の内容を紹介したいと思う。
「チョコレート工場の秘密」
謎の多い巨大チョコレート工場の経営者ウィリー・ウォンカが、販売するチョコレートの中に「金のチケット」5枚を封入して、それを当てた子ども5人を工場見学に招待すると発表する。
貧乏だが善良なチャーリー少年は宝くじよりもはるかに倍率が高いと思われる「金のチケット」を運良く引き当て(これがすんなり当たらない展開もとても良い)、チョコレート工場の見学に行くことになり…という話である。
チャーリーと一緒に工場を見学するクセが強すぎる子どもたちが、自業自得な展開でバッタバッタと脱落していくさまが子ども心に愉快痛快で夢中になって読んだ。
「マチルダはちいさな大天才」は「チョコレート工場の秘密」ほど知名度はないかもしれないが、私はこちらの作品の方がさらに好きかもしれない。
「マチルダはちいさな大天才」
マチルダは幼い頃から天才的な頭脳を持つ少女だったが両親が非常に残念な性格で(オブラートに包んで表現しています)、才能を認められずに育ってきた。
さらに入学した小学校の校長が道徳概念を超越した野性味溢れる性格で(オブラートに包んで表現しています)、理不尽を振り回して日々生徒を翻弄する悪の権化のような人物だった。
そんな中マチルダは超能力に目覚め、数少ないまともな大人だった担任の先生と親しくなり、担任の先生と校長のある事情を聞いて超能力で校長を懲らしめようと考え…という話である。
チョコレート工場のチャーリーの場合は周りが勝手に自爆していった印象だったが、マチルダは自らの意志と能力で問題を解決して突き進んでいく感じが爽快だった。
小学生の時に読んだお気に入りの本はたくさんあるが、その中でもこの2冊は特に印象に残っている。
子どもだからこその集中力と想像力、その年齢の理解力、本の内容、すべてがちょうどいい具合に噛み合ったのだと思う。
この本を読んだ後私は初めて「作者推し」という概念を理解し(推しという言葉は当時なかったが)、小学校の図書室のリクエストボックスに「ロアルド・ダールの本を全部置いてください」と投書して、地元小学校図書室のロアルド・ダール蔵書の充実に貢献した。
当時はネットもなかったので本と出会う機会というのは今よりずっと限られていて、この本屋に行っていなければロアルド・ダールを知らない私の読書の方向性は多少変わっていたかもしれないし、そうなると今このnoteの文章を書いている私も何か違ったかもしれず、それはどんな自分なんだろうと考えるとなんとも不思議な気持ちになってくる。
その後大人になり、ふとした瞬間に2冊の本を思い出すことはあったものの特に読み返すことはなく、気付けば30年の月日が流れていた。
そして少し前に息子が「チャーリーとチョコレート工場」の映画を観て、原作の本が気になると言うのでひさしぶりに本を引っ張り出してきた。
あー懐かしい、こういう表紙だったわ…と思いながらパラパラページをめくっていると、裏表紙の内側に母の字で何やらメモ書きがあるのに気付いた。
1994.11 エルマー書店
瞬間、母と行ったあの小さな本屋の記憶が蘇った。
知らない駅、本屋の風景、買った本。
30年越しに本屋の名前を知った。
児童書の「エルマーのぼうけん」からとったんだろうかと考えて、絵本がたくさん並んでいたあの本屋にぴったりだなと思った。
本屋の名前がわかり、あの場所はどこだったのか知りたくなった私はネットで検索した。
なんとなく本屋はもうないかもしれないと思いながら調べたところ、福岡県春日市にある本屋で、なんとその時まだ営業していることがわかった。
絵本と児童書だけを扱うアナログな本屋が(現在の状況はわからなかったが)、ネット通販が幅を利かせる令和の今も30年以上営業を続けているとは驚きである。
お店を紹介するネット記事をいくつか読んだが、お店を訪れた人に積極的に声をかけて本を紹介したり、読み聞かせイベントを企画したり、一般的な本屋の枠を超えて活動されている様子だった。
しかしよくよく調べてみると、店主の方が体調を崩されていて2025年12月末で閉店するというニュース記事が出ていた。
その時2025年10月。
行きたい。
なんかわからんけど猛烈に息子を連れて行きたい。
行きたいを通り越して行かなければいけないような焦燥感さえ感じる。

こうして私はノスタルジックな衝動に突き動かされるがまま、息子を連れてエルマー書店に行ってみることにした。
それから2週間ほど経った10月某日、私と息子は車でエルマー書店に向かった。
30年前母と私の移動手段は電車だったが、私は乗り換えやら荷物やらなんやら検討した結果車で行くことにした。
SNSの情報によると、昔対応してくれた方と思われる店主の女性は残念ながらお店にはいらっしゃらないようだった。
近隣の駐車場に車を停めてお店までの道を少し歩いたが、町の風景は全く記憶になかった。目印だという「エルマー」と書かれた黄色いテント看板も見覚えのないものである。
年季の入った外観に歴史を感じたが、30年前はまた雰囲気が違ったんだろうか。
手書きのポップやチラシが貼られたガラス戸の入り口を抜けて中に入ると、あまり広くない店内にはぎっしり絵本が並んでいた。
30年前にタイムスリップしたような、30年前からタイムスリップしてきたような、やっぱり初めて来たような、不思議な感覚がある。

お店に入るとすぐに、スタッフらしき女性の方が息子に「どんな本が好き?」と話しかけてきてくれた。
息子は即答した。

「や…やまんば?…やまんばね!」と、恐らく予測していなかった返答にスタッフの方は若干困惑しつつ、一言二言会話してからすぐにやまんばの捜索を開始してくれた。
実はお店に来る前、家で以下のようなやりとりがあった。

やまんばが必須条件というわけではないはずだが、息子の中で「やまんば」が強くインプットされてしまったようだった。
2人がかりでやまんばを捜索するスタッフの方を横目に(すみません)私は店内を物色した。
なつかしい本や気になっていた本、シリーズがあることを知らなかった本、どれもこれも気になって目移りしてしまう。
店内の本にはビニールがかかっていなかったので中身を確認しながら選ぶことができた。その場で少し読んでも全く問題なく受け入れてもらえる図書館のような安心感がある。
ここは単に「本を買うところ」ではなく、本を選んで、本を読んで、本に出会うところなんだと思った。
何冊か手にとっていたら、やまんば捜索隊のスタッフの方が数冊の本を並べて「これはどう?」と声をかけてくれた。
その中に「やまんばのむすめ まゆ」のシリーズ絵本があったのだが、「まゆのシリーズおもしろいんだけど、たぶんやまんばとしてはキレイすぎるよね…」とスタッフの方が呟いていた。
短時間のやりとりで息子が求めるやまんばの方向性まで正しく見極めるスタッフの方の感性に感心する。

選んでもらった中から2冊ほど候補をキープさせてもらった。
息子には事前に「今日は好きな本を3冊選んでいいよ」と伝えていたのだが、なかなか決めるのが難しそうである。
私が「あれも欲しいこれも欲しい全部欲しい」と思いながら絵本を読み耽っていたところ、店内を見て回っていた息子が唐突に叫んだ。
「エルマーがある!エルマー買って!」
それは店名の由来にもなっている「エルマーのぼうけん」シリーズの3冊だった。
息子は保育園の時に読み聞かせをしてもらったことがあるらしく、「3冊全部欲しい」と期待を込めた目で見つめてくる。
私の脳内を一瞬打算的な思考が走ったが、

その思考をすぐに現物パワーが捻じ伏せた。

この時点で「今日は3冊」というルールは私の中から消し飛んだ。
家からこの書店まではわりと距離があるのでたぶん閉店までにもう来ることはない。
エルマー書店で本を買う体験は今日しかできない。
息子が大きくなった時に「この本はあの時エルマー書店で買ったな」と思い出す瞬間、プライスレス。
何かがプッツンしてしまった私はその後、

合計7冊の本をお買い上げした。
さらに帰り際に偶然居合わせたバルーンアート作家の方にバルーンをプレゼントしてもらうというラッキーにも遭遇し、私と息子は大満足でお店を後にした。

大幅に予算オーバーしてしまったが悔いはない。
あと車で来て本当によかった…
その日の夜から「今日はどれにする?」と相談しながら買った本を読み進め、私は息子と楽しい読書時間を共有することができた。
しかし移り気な息子はエルマーの3冊目を数ヶ月経った今もまだ読み終わっていない。(いつか時がくれば読むだろうと信じている…)
買った本は今は家の本棚に並んでいるのだが、たまに目に付くと「エルマー書店で買った本だな」と思い出す。
何年か経てばそのうち意識しなくなると思うが、その中のどれかがささやかな思い出と一緒に息子のお気に入りの1冊になっていればいいなと思う。

その後エルマー書店は2025年12月28日に惜しまれつつ閉店を迎えたようだった。
1回しか行ったことがなかった本屋は、人生で2回だけ行った本屋になり、もう行くことができない忘れられない本屋になった。
