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連載小説 『小論文は、つらいよ』 第8話 謎

電車がガタンと大きく揺れた。そのときに私のカバンが田村先生の体にあたってしまった。「あっ、ごめんなさい」の私の一言がトリガーとなった。遠くの思い出から現実に呼び戻されたかのように、おもむろに田村先生は、口を開かれた。

「創業明治20年でさぁ、もとは、そば屋だったのが明治の末期に天ぷら屋に衣替えしたんだよ。天丼の老舗でね、『大黒屋』っていうんだ。天ぷらのタレが甘辛くて独特なんだよ。たぶん長年にわたって寝かしてるんだね。天ぷらは、ごま油で揚げるから、独特の香ばしさがあるんだよ。その揚げたてを、タレに漬けこむからさぁ、色は真っ黒で、衣はしんなり。」
「スーパーの黄色っぽいのとは違うんですね」
「うん。初めての人は、その黒さにびっくりするんだろうな」

実物の雷門の提灯はでかかった。これを背景に記念写真を撮っている人たちが多かった。あちこちで様々な言語が飛びかっている。普段は静かな職員室にいることの多い私には、この賑やかさに圧倒された。田村先生は慣れた調子で人混みを歩いていらっしゃる。私はキョロキョロと周囲を見たりしてたから、人とぶつかりそうになることも多かった。遅れがちな私を気遣って、振りかえりながら、田村先生は歩みを何度か止められた。

この雷門をくぐると、狭い参道の両側に、小さな店がくっつくように軒を連ねていた。この仲見世で、見覚えのある姿を目にした。河谷先生だ。杉山麻衣の担任だ。

河谷先生は、ある一軒の店先で、一人の中年女性と深刻そうに話しこんでいた。お店の人だろうか。その女性の横顔には、どこか杉山麻衣の面影があるような気がした。

私はとっさに、田村先生の影に隠れるようにして、知らない素振りをした。田村先生とご一緒のところを誤解されてしまうのも嫌だが、それ以上に、あの二人の会話を邪魔してはいけないような緊張感を感じたからだ。

数分歩いて、浅草寺の手前を左の道に入るとすぐだった。瓦屋根の木造建築が目印だ。うっすらと汚れて年季の入った格子戸を開けると、香ばしい天ぷらの香りが漂ってきた。店内には明治期の雰囲気があった。そう広くはない。椅子もテーブルも古そうだ。座り心地の悪そうな椅子に腰掛けると、おばあさんが冷水のグラスを二つ持ってきた。慣れた調子で田村先生は注文された。

しばらくして運ばれてきた天丼を目にすると、私は思わず「えっ?」と声をあげそうになった。丼から立ちのぼる湯気の向こうに見えるのは、真っ黒に染まった物体だった。天ぷらの概念を破壊している。鰻にすればよかったと後悔した。でも甘辛い醤油の香りが鼻をくすぐる。恐る恐る口に運ぶと、意外にも上品な甘さと、ごま油の香ばしさが口いっぱいに広がった。

「どうだい、驚いたろう? これが伝統的な江戸前の天ぷらなんだよ」田村先生は微笑んでいらっしゃる。
「正直びっくりしました」
「娘もね、この天ぷらを初めて見たときには、車先生と同じ顔をしたもんだよ」

その刹那、田村先生の視線が、空に浮かんだ。亡くなった娘さんの記憶が蘇ってきたのだろうか。突然の死とは、事故なのか、病気なのか。不意に好奇心が湧いた。でも尋ねれば、田村先生の心に悲しみが蘇ってくる。お話をしていただけるまで待つしかない。

食事をしながら、私が浅草を初めて来たことを話すと、こんなことをおっしゃった。

「フランス座は知らないの?」
「何ですか? それ」
「フーテンのさくらさんだから、フーテンの寅さんを演じた渥美清さんのことは色々と知ってるんだと思った」
「えっ、そのフランス座が渥美清さんと関係あるんですか?」

フランス座は、渥美清さんが下積み時代を過ごした演芸場だそうだ。そのことを田村先生は説明してくれた。そして腹ごなしに散歩してみようと提案なさった。その演芸場のある地区は六区街といって、かつては娯楽街として賑わっていたらしい。でも今では雷門や仲見世とは対照的に、通行人も少ないそうだ。ストリップ劇場があるから、イメージが悪いのかもしれない。そう田村先生が説明してくれた。

私一人、浅草橋駅まで戻って、帰路についた。田村先生は浅草で私鉄に乗り換えるらしい。私は亀戸駅で降りて、自転車に乗って帰った。特別講座の報酬をあてにして買った自転車だった。この炎天下では、アパートまで15分も歩くのが辛くなってきていたからだ。

夕食は買い置きのカップ麺で済ました。それを食べながら、宿題の添削のことを考えていた。でも田村先生の娘さんのことや、河谷先生のことが頭から離れなかった。頭の中が混乱している。整理がつかない。

宿題は、ごく少数を除いて、生徒のほとんどがAIに頼りきってる状況だ。それならば内容上の評価や修正もAIに頼めばいいんじゃないか。そういう考えに至った。一回50分の授業準備に数時間はかかるのに、添削まである。時給計算をすると、マクドナルドでアルバイトしたほうがはるかにいい。

私と同じくらいの年齢になるという田村先生の娘さんは、何が原因で亡くなったのだろうか。想像してみたところで、キリがない。それよりも、河谷先生と杉山麻衣によく似た中年の女性は、どんな深刻な内容を話していたのだろうか。心に引っかかって仕方がなかった。

ふと私はあることを思いだした。美咲が渡してくれた小さなピンクの封筒のことだった。特別講座のことばかりに頭を占領されて、ジーンズの後ろポケットにしまい込んだまま忘れてしまっていた。

その中身の内容を読んだ私は、愕然とした。そこに書かれていたのは私の身辺調査に関することだった。つまり、奨学金を借りているのかどうか、彼氏がいるのかどうか、親しい男子生徒はいるのかどうか、夜のバイトはしていないかどうかといったことを嗅ぎまわっている者がいるから、発言や行動には注意するようにとの内容だった。

女性教師が不祥事を起こして、懲戒免職になったという事例をネットで調べてみた。すると、男子生徒との性的トラブルや、奨学金返済のための風俗店でのバイトというのがあった。こうした疑いが私にないかどうかを探り、杉山麻衣を利用して、河谷先生は私を免職に追いこもうとしているのだろうか?

しかし杉山麻衣の、私に味方してくれるような授業中の発言を思いだすと、訳がわからなくなってきた。もしかして、私は何かの罠にはまってしまったのだろうか?  それとも、杉山麻衣自身も何かに巻き込まれているのだろうか?

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