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連載小説 『小論文は、つらいよ』 第9話 待ちぶせ

ようやく特別講座の九日目を迎えた。添削は、AIに頼らずに自分なりの表現で答案を作成した者のみにした。そのなかには、杉山麻衣もいた。その答案には、たまに光る表現があって、読むのが私の楽しみにもなってきていた。

田村先生は、毎日のように職員室にいらっしゃることはなくなった。私の授業のやり方に安心されたのだろう。答案の添削をアドバイスどおりにしますと伝えたら、「負担が少なくなって、最後までいけそうだね」と励ましてくれた。

明日の最終日には、田村先生が鰻重をご馳走してくれることになった。「天ぷらは?」と尋ねられたが、私の顔を見た瞬間、先生は苦笑いして「やっぱり、うなぎだな」とつぶやかれた。雷門の前で夕刻六時に待ちあわせる約束もした。あの大きな赤い提灯と、人混みの中に、田村先生が立っている姿を思い浮かべると、なんだか奇妙に落ちつかない気持ちになる。

明日こそ思いきって、田村先生にすべてを打ち明けてみようか。一人で抱えこむには、あまりにも重たすぎる。河谷先生への疑念も、杉山麻衣のことも……。

うな重のふたを開けるタイミングで、話すべきだろうか。いや、それとも……。そんなことまで考えている自分が、なんだかおかしかった。

今日の授業も終了して、浅草橋へと帰路についた。駅の改札で、杉山麻衣が辺りを見まわしていた。誰かを待っているようだ。
「杉山! どうしたの?」
「先生に相談したいことがあって」

私たちは、駅近くの喫茶店に入った。おごるからと言って私が、アイスコーヒーとアイスティーを注文した。節約生活の身には、ちょっと痛い出費だ。少しの沈黙の後、杉山舞衣が話を切りだした。

「小論文の答案なんですが、これからもずっと見てもらえますか?」
「担任の先生は? 同じ現代国語だよ」
「先生にお願いしたいんです」

それは私にとって、憂鬱な願いだった。ただでさえ、あの河谷先生とは、冷たい関係になっている。その人間関係が誤解からさらに悪化するかもしれない。

生徒を自分の色に染めれば、コントロールがしやすい。だから、なるべく受けもちの生徒を他の教師の考え方に染めたくはない。教師とて能力は様々だから、ときとして間違いもある。矛盾もある。生徒がそんな教師と親しくなれば、何もかも受けいれてしまいがちだ。

それゆえ、生徒には自分にだけ顔を向けていてほしいと願う。正直言って、私にもそんな気持ちはある。注目させ、素直に聞いてもらいたい。そうでなければ授業はうまくいかない。いつか、この高校でも、生徒による授業評価アンケートが実施されるかもしれない。そうなれば、自分の生徒を他の教師に奪われまいとする独占欲が生じるかもしれない。

こんな状況で、私が河谷先生と杉山麻衣との間に割りこんでしまうと……。

私が思考を巡らす間、杉山麻衣が不安そうに私をうかがっている。

「担任の先生が了解してくれるならば、引き受けるよ」
「よかったぁ。それで、奨学金のことなんですが……」
「進学するの?」
「はい。大学の文学部にいきたいんです」

どのくらい借金することになるのか、就職してからの月々の返済額はいくらになるのかなど、質問してきた。自分の将来をイメージしたいからだと言う。私は深い考えもなく、答えていった。そして一番の悩みは、連帯保証人のことだそうだ。

「うちは浅草の仲見世で商売をやってるんですけど、コロナのときに、売り上げが極端に少なくなったんですね。それで運転資金を借金したりして……。だから、さらに奨学金の連帯保証人だなんて、頼みにくいんです。担任の先生に、うちの親が相談したんだそうですが……」
「 難しいわね……、でも借金そのものじゃなくて、保証人だからね。あなたの頑張り次第で何とかなるよ」

私には、そう励ますことくらいしかできなかった。そして田村先生と一緒に天ぷら屋に行ったときのことを思いだした。仲見世で、河谷先生と深刻な話をしていた中年の女性は、杉山麻衣の母親だったんだろう。奨学金の連帯保証人か。深刻な話の中身もおぼろげながら想像しえた。

私は、将来の夢を尋ねてみた。すると、初めは就職希望だったけれど、授業を受けているうちに考えが変わったと言った。私と同じような教師になりたいそうだ。

「先生の言葉に共鳴しちゃったんでしょうか。先生は、私たち生徒の魅力を引きだしてくれる、そんな感じがしました」
「ケッコウ、ケッコウ、コケコッコ。そんなおだてにゃ、乗らないよ。甘いケーキは出てこない」

照れ隠しに冗談を飛ばして、私は頭をかいた。ツンとして整った顔が笑いにゆがんでいる。私はそんな杉山麻衣の笑顔を初めて見た。それから、教師の採用は厳しいこと、現実的な教師の生活など教えていった。

喫茶店を後にして、亀戸駅に着くまでの間、何か忘れていやしないかと悩んでいた。すると、一つ先の駅まで乗りこしてしまっていた。アパートに帰り着いてからも、その何かが気がかりだった。

机の上に置いてあるピンクの小さな封筒を目にしたとき、その何かが頭にぶつかるような衝撃で目の前に浮かんだ。美咲が忠告してくれたことの一部を喋ってしまった。杉山麻衣が河谷先生の送りこんだスパイだとすれば、私はそのスパイに気前よく情報を与えてしまったことになる。奨学金の返済で、月々の生活が苦しいことも喋ってしまった。こうした情報を材料として、私を追放しようとするデマを流すことだってできそうだ。

しかし……、悩む。本当にスパイなのだろうか。

一つの可能性。杉山麻衣は純粋な生徒だ。仲見世での商売、コロナでの借金、奨学金の悩み、教師への憧れ。すべてが本当の話だとすれば、彼女はただ私を慕ってくれているだけなのかもしれない。

もう一つの可能性。河谷先生に利用されているスパイだ。就職の条件で必要な内申点をエサにされ、私の弱みを探るように命じられた。とすれば、今日の相談も演技だったのかもしれない。

どちらが真実なのだろうか?
あの屈託のない笑顔が、私の想像に迷いを作っていた。

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