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連載小説 『小論文は、つらいよ』 第5話 疑惑

疑惑が、心に影を落とした。 この講座の参加者、杉山麻衣という生徒のことが、昨日からどうにも引っかかっていた。

美咲によれば、その生徒は三年C組だそうだ。担任はあの河谷先生だ。彼女も私と同じく、現代国語を教えている。四十代の女性教師だ。

今年四月にほんの少しだけ言葉を交わした。でもそれ以来、ほとんど、話をすることはない。いつも私のことを避けている。朝の挨拶をしても、事務的な返礼をするばかりで、すぐに視線を外す。嫌な相手だと思う心が私の顔に現れてしまったのか。

いつも冷たい表情のままで、笑顔を向けられたことがなかった。ところがある日、その表情は私に対してだけだということがわかった。他の先生とは陽気に談笑している。そんな姿を目にした。どうやら私は、河谷先生に嫌われてしまったようだ。

職員室では席は離れている。それが唯一の救いだった。伝わってくる無言の冷気が少しだけ和らぐからだ。

近所のコンビニで、おにぎり一つに野菜サラダを買った。朝食用の木綿豆腐にバナナも。少し節約しなければ。就職を機に、アパートを借りて経済的にも自立したつもりだった。でも自宅にいたころとは違って、お金の出ていくのが早い。薄給だから、お金がすぐに底をつく。

アパートのドアを開けると、部屋の中から熱気が押しよせてきた。慌てて窓を全開し、エアコンのスイッチを入れた。

AIチャットボットへの接し方についてレジュメを作っておこう。レジュメの効果は大きかった。板書をする労力が減る。生徒は、板書を書き写す負担が少ない分、話に集中できる。

おにぎりを食べながら、Perplexityで、AI関連の記事を読んだ。このAIは、最新のニュースを要約して紹介してくれる。このAIが小論文の素材集めには、役立っている。

特別講座二日目の朝、なんだか頭が重い。熟睡した感じがしなかった。気になっていることがあるからだろう。

この暑さのせいもあって、足取りは軽くとはいかない。職員室の引き戸を開けると、田村先生がいらっしゃった。出勤日じゃないはずなのに。私は気がかりなことを打ち明けて、相談に乗ってもらった。

「三年C組の杉山麻衣のことなんですが」
「何だね?」にこやかな表情が、私を安堵させた。
「特別講座の参加者なんですが、いろいろと私のことを聴きまわってるそうなんです」
「ふーん、よっぽど車先生のことが気になるんだね、その生徒は」
「スパイじゃないかって、親しい生徒が心配してくれてるんですけど」
「あっ、ちょっと待って」

田村先生は周囲に目をやった。そして耳打ちをされた。
「壁に耳あり、障子に目ありと言うからね。ちょっとその話題は、この職員室じゃ……」

会議室に入った瞬間、まとわりつくような湿気の空気が肌に触れた。教卓上に貼った座席表からすると、私の右手に問題の生徒が座っていた。私は座席表とその席を二度見した。

整った顔立ち。けれど、制服の着こなしはどこかルーズだった。シャツの第一ボタンは外され、シャツの裾が腰の位置で、きちんとスカートにおさまっていなかった。スカートの丈は規定ぎりぎりよりもやや短く、座っていると膝の上までよく見える。異性を意識しているのだろうか。このルーズさが、男子たちの目を引きつけていた。

彼女は机に肘をつきながら、私の方をじっと見ていた、私の力量を推しはかるかのように。唇の端に、笑いとも無関心とも取れる線を浮かべたままだ。まばたきの回数が少ない。その大きな目が、妙に印象的だった。

初日の授業では、私は少しおどけてみせた。 余韻が残っていれば、軽い笑いくらいは引き出せるだろう。たぶん。

「今日も暑い中、みんなよく来てくれたね」

数人の生徒が小さくうなずいた。反応はまだ浅い。私はほんの少しだけ声の調子を変えて、場の空気に軽さを加えた。

「誰か、この生暖かい風を冷たい風に変えてくれよ。魔法の呪文を知らないかい? えっ、知ってるって? 驚き、桃の木、山椒の木。特許もんだよ、東京特許許可局」
早口言葉ですべってしまった。舌がもつれてしまって、はっきりとした言葉にならなかった。

会議室の後列から、笑い声が広がった。普段教えている生徒たちだ。前列の男子数名も顔を見合わせて肩を揺らしている。少し安心した。

「ほんとに、敵は受験だけじゃないよね。この暑さだって手ごわい。ところで、みんな、朝ご飯はちゃんと食べてきたかい? この時期は体力勝負になるからね。食欲が落ちてる人は、冷やっこやバナナなんか、試してごらん。胃にやさしいし、夏にはちょうどいいから」

「冷やっこ……」という声がどこからか聞こえたかと思うと、今度は別の場所からくすくすと笑いが広がった。

「じゃあ、昨日の復習から始めようか。覚えてるかな? 授業の最初に、私がどんな仕草をしてみせたか?」

私は軽く腰に手を当てて、挙手を促すかのように右手をかざした。

「a コサックダンス風、b マイケル・ジャクソン風、c 盆踊り風。さあ、どれだったかな?」

生徒たちは顔を見合わせたり、下を向いて笑いをこらえたりと、思い思いの反応を見せた。そして私の視線は杉山麻衣に自然と戻っていった。唇の端をほんの少しだけ持ちあげていた。笑ったというよりも、「笑ったように見せた」という印象だった。目は、笑っていない。

やはり、他の生徒とは少し違う気がする。そう思ってしまうのは、私の思い過ごしだろうか。

今日のテーマ、コミュニケーション。配ったレジュメに沿って話を進めながら、私は生徒たちの反応を一つずつ拾っていった。デジタルなコミュニケーションとアナログなコミュニケーションとの違いや、ボディーランゲージについて、説明を加えていった。

「人は、どうやって気持ちを伝えてると思う?言葉? もちろんそう。でも言葉だけじゃない。視線、眉の動き、声のトーン、間の取り方……。言わなくても、伝わることってあるよね」

後列の山田が、大きく二、三度、うなずくのが見えた。ボス的オーラを放っている彼には、このことがよくわかっているらしい。

私は続けた。
「LINEで、『は?』って、ひらがなと疑問符だけが送られてきたら……、なんか、怖くない?」

後列から、美咲の屈託のない笑い声が聞こえてくる。

杉山麻衣も笑みを浮かべてはいた。ただ、それは貼りついた仮面のように見えた。私の話に耳を傾けながらも、まるで、すでに結末を知っている者が、退屈そうに映画をなぞるような目をしていた。私の言葉の一つ一つに、驚きも戸惑いもない。ただ静かに流しているだけ。その冷ややかな視線が、妙に胸に引っかかった。私と彼女とでは、見えている世界がそもそも違うのだろうか。

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