やめ創価が考える創価学会が嫌われる理由
花粉はそろそろ終了かと油断しておりましたら今週はのどが腫れました。
体調のせいか小噺にしたいと思うお話が中々みつからないので今回は↑こちらを縷々述べたいと思いますのでよろしければお付き合いください。
折伏が強引
少し前さかんに動いていた「創価学会の日常チャンネル」というYouTubeチャンネルに原田会長が降臨あそばし、創価学会が嫌われる理由として「折伏大行進の時の強引な折伏のイメージ」のため、とのたまったと聞いております(いまわかは再生数を上げるのも腹立たしいので一切見たことがありません)。
↑こちらを聞いた感想としましては「トップの意識がそこ(折伏大行進:昭和30年前後)で止まってんのか」。
確かに私も「親が強引かつしつこい折伏を受けたことがあるから創価学会は大嫌いと言っていて、私も近づくなと言われた」と友人から言われたことはあります。けれども昭和は遠くなりにけり、そのころのイメージだけで嫌われていると考えるのはトップとして現状認識が甘すぎないか。
さて創価学会草創期の折伏がとっても強引だったのは有名ですが平成の折伏はどうだったか。
じっくり時間をかけて対話して、相手が創価学会の教義を正しく理解し共感し納得して入会してます!…とはお世辞にも言えず、友人や家族とお茶するだけのつもりで来た相手を【偶然その場に居合わせた】幹部に引き合わせ対話に持ち込むなどと言うことはあるあるのやり方。その場で相手が少しでもやってみようかという気持ちを見せたら逃さないとばかり最短その日のうちに本尊送り…といったことを幾度も目にしてきました。
友人や家族とお茶しながら楽しくおしゃべりするだけのつもりで来たのに見知らぬ人に囲まれ退路を断たれるのはいくら創価学会の人側が相手の幸せのために、と言ったところで相手にとっては恐怖で不快で友情・信頼関係をぶっ壊す所業でしょう。
創価学会は顕正会のことを「なりふりかまわぬ強引な折伏」と非難していますが、私個人の意見としては〈五十歩百歩〉だと思います。令和になってからはどうなのか、もう非活になって久しいのでシランケド。
F活動
一般の人が創価学会のイメージとして挙げるのがこの「F活動」。
「久々に同級生から電話かかってきたと思ったら公明党だった」というアレです。
私は長く電話をかける側でしたから、かかってきた相手がどう受け止めているかについて考えているようで実は考えが及んでいませんでした。
しかしやめてからたまたま私が創価学会員で合ったことは知らない同僚から、
「選挙になると毎回実家の方(かなり遠方)からわざわざパンフを送ってくるの、大して仲良くなかったんだけど(含まれる嘲笑の響き)。すごい情熱だよねえ」
と言われ、また他の同僚からは
「最近、家の固定電話に電話がかかって来て、子どもの学生時代の友だちからで。息子にかわったらしばらくして『そんなことなら電話してくるな』と怒って切っちゃってて。『どうしたの』って聞いたら『公明党だった』って」
という話を聞かされました。
その時の私の気持ちをどう表現したらいいのか。
穴があったら入りたい……
私も重点区に友人知人がいれば遠方でも足を運んでいました。行った方が誠意が伝わる!とこっちの勝手な思い込みで突撃、相手にしてみれば自分勝手な用件でわざわざ遠くから来ましたオーラ出すなど全く意味不明、「すごい情熱だよねぇ(嘲笑を隠し切れない)」としか言えないでしょう。
離れてみて、相手の立場に立ってみれば確かに久々に電話してきて懐かしく嬉しい気持ちで出たらなんだよそんな話かよ!となるわな、としか思えません。
F活動の対象とされるのが嫌なのは、何度もしつこいとか押し付けがましいとかいうこともありますが友人・知人・親戚という関係を利用しながら相手のことを票としか見ていないという点だろうと思います。一票入れてくれるか、家族にも入れてくれるよう頼んでくれるか、こちらの言うことを聞いてくれるか、そこにしか関心がない。
かつての己の姿ながら失礼で不快で人として残念です。
無自覚な上から目線
これは活動をやめて組織と一定の距離を置いてから初めて気がついたことですが(逆に言うとこれまでの2点は活動している時からうっすら自覚があったわけです)創価学会の人たちって、ナチュラルに上から目線なのです。
「私達は正しい仏法を知っている!知らない人たちかわいそう、救ってあげなきゃ」というのが基本的スタンス。
まあ創価学会が宗祖と仰ぐ日蓮が「法華経が一番なんじゃ!正しい仏法を信じないと不幸になるんじゃ!国がダメになるんじゃ!」ていう激しいお方なのでしょうがないと言えばしょうがないですが、付き合っていて疲れるし不快です。
世の中の大半の人たちは創価学会を信じていなくても、勤行していなくても題目をあげなくても池田先生を尊敬していなくても立派に自分の人生を生きていて、「正しい仏法」の必要性も特に感じていないし、「救ってあげる」なんて大きなお世話なのです。
自分(たち)を客観視できない
創価学会では「人と比べるな」ということをよく言われますが、やっぱり多くの人が見て「あの人は幸せそうだ」と感じなければ、いくら本人が「私は幸せです!」と言っていても説得力に欠け(痛々しく)、その人のやっている信仰を自分もやってみよう、とはなりません。
一度自分や自分の属している組織を外側から見てみて下さい。
穴があったら入りたくなりますよ……
