「夏の緑茶、メガネのこと」全文無料
清潔なクリーナーでメガネのレンズを手際よく拭く。こんな作業にもすっかり慣れたものだ。拭き終えるとピカピカのメガネをかけ、電気ポットに水を入れてスイッチを入れる。湯の沸くのを待ちながら、急須の茶漉しに茶葉を入れる。緑茶はいつでも熱いほうが良い。読みかけの本に目を落とし、ごおごおと音を立てて湯を沸かすポットの音を聴く。燃え盛るように暑い、夏の朝だ。
俺は二年前メガネを買った。理由は目が悪いからだ。
悪いとはいっても、メガネをかけなくても別段日常生活に支障はなかった。むしろ俺には多少見えないくらいが丁度良かった。この世には見たくないものが多すぎるからだ。
しかしそれでも俺はメガネを買った。俺はもう子供じゃないから見たいものだけを見て生きていくわけにはいかないし、車の免許を取るのにメガネかコンタクトをする必要だってあった (今でも免許は取れていない。取りたいけれど、お金が無いのだ)。そういう現実的な事実に真っ向から立ち向かう、そんな決意と覚悟をもって俺はメガネを買った。
けれどもそれは簡単なことではなかった。極めて挑戦的な試みだった。
まず俺は、メガネを買うために近所のメガネ屋に行った。メガネ屋に行くのは初めてではなかったが、それは単なるお遊び、つまり友人とのちょっとしたおふざけでメガネを試着してはしゃぐといった遊びのために店内に入ったことがあるだけで、メガネを買うためにメガネ屋に入店したことはなかった。
目的が違えば当然心持ちも変わってくる。俺は緊張していた。これまで何度もメガネ屋の内装は見たことがあったし、その雰囲気も分かっていたつもりだった。しかしいざメガネを買うという目的を持って入店してみると、その風景は全く違ったものに見えた。
第一、メガネが並びすぎている。それも均等に、完全に整頓された形で。その不自然なほどに整理されたメガネの配列に、なぜ今まで一度も疑問を持たなかったのか、俺は不思議に思い、そしておののいた。その無感覚に並べられた様は、それがものを見やすくするために作られたのだという事実を一瞬忘れさせるほどで、どこにも出口のない延々と広がる暗闇を思わせた。
しかもそれは形の不揃いの暗闇だった。あるものは丸く、あるものは四角く、またあるものは長方形だったり、あるいは楕円形だったりで、その大きさもそれぞれ違っていた。
片方のレンズが丸く、もう片方のレンズは四角くなっているメガネをみたとき、俺は腰が抜けそうになった。こんなもの誰が買うのだと驚かないわけにはいかなかった。こんなものを好き好んで買う人は、遊び心というものを全く勘違いしているか、極めて退屈でつまらない人物のどちらかだ。
しかし、このへんてこなメガネは売れるから作られ、そして売り場に並べられてあるのだろう。この資本主義経済の基本的なシステムのことを考えれば、売れないものを市場に置くわけはなかった。俺は困惑しながらも、その完璧な配列とその奇妙なメガネを受け容れた。
そして俺はメガネを選び始めた。メガネ屋には試着用の小さな鏡があるから、試着しては確認し、また試着しては確認してを繰り返した。
何度も繰り返すうちに、気に入るメガネが見つかった。店員を呼び、欲しい旨を伝える。するとその若いさっぱりとした男の店員は俺にこう聞いた。
「眼鏡のご購入は初めてですか?」
俺は間髪入れずその問いに「はい」と答えた。流れるように店員は質問を続けた。
「処方箋はお持ちですか?」
「いえ、持っていないですけれど」
「初めて眼鏡を購入なさる場合、眼科を受診していただいて、処方箋をお持ちいただくことをお勧めしているのですが」
俺はその言葉の意味が一瞬分からなかった。店員は全く違う言語を喋っている、そんな感覚に襲われた。しかしそれは確かに日本語だった。だから俺にはその意味が分かるはずだった。
俺は店員の言葉をなぞるように
「処方箋?」
と繰り返した。
「ええ、お持ちでありませんか?」
店員は無感動に返答する。身体の奥底から何か得体のしれないものがこみ上げてきそうな思いだった。しかし負けるわけにはいかない。俺の人生にはメガネが必要なのだ。
「処方箋が無ければ買えませんか?」
俺はほとんど祈るように店員に質問をした。だらりとぶらさげられた俺の両腕の先には、力強く組まれた両手がある。
店員はこともなげに、
「いえ、ご購入できますよ。あくまでお勧めしているだけのことです。眼科を受診なさって処方箋をお持ちになってくるのが色々な面で最善である、というだけのことです。ですから、今ご購入するのはまったく可能なことでございます」
俺はその響きに何か挑戦的なものを感じ取った。
最善。その言葉は、思い返せば常に俺の人生に立ちはだかってきた。
人生は選択の連続である、という言葉は確かだと思う。現に今の俺はこれまでの選択の連続の末に形成されているし、今だって選択を迫られている。そして、選択の中には常に最善が潜んでいる。そうであるなら、人生とは、いかに最善を選び続けられるのか、という試練でもある。
しかし俺はその試練から逃げ続けてきた。それは受験でも、就職活動でもそうだ。選択することが怖かった。もちろん、このままではどうにもならないことは分かっていたし、なんとかしようとしたこともあった。けれどもその困難に俺はついに打ち勝つことはできないままにきてしまった。
最善を選べるのか。
今この店員は俺にそう問うているのだ。
この問いに対して最善の回答をするのは、そう難しいことではない。なぜなら、すでに最善の選択肢は提示されているのだから。眼科に行き処方箋をもらうのが最善である、と示されているのだ。
だが、この問いは易しくはあるが、単純ではない。なぜなら、俺は今すぐにメガネが欲しいからだ。今すぐにメガネを買って、明日からメガネをかけた俺として生活を再スタートしたい。そうすることが、今の俺にとって必要なことのように思った。だから、俺は毅然とした態度で言った。
「今、買います」
店員は呆れ顔で─もっとも、そう見えただけかもしれないが─言った。
「ではこちらへどうぞ」
こうして俺はメガネを買うことができた。
果たしてこれで良かったのか、眼科に行って処方箋をもらってから買うべきだったのか、そんなことはもはやどうでもよかった。あれこれ考えても、時は戻らない。タイム・ウェイツ・フォー・ノー・ワン。今あるのは、俺の手元にはメガネがあって、それをかけることが俺にはできるという事実だけだった。
家に帰って早速メガネをかけて鏡を見た。メガネは明らかに似合っていなかった。けれどそれで構わなかった。なぜなら、時は既に過ぎ去ったからだ。
夏の日差しを受けたポットがかちゃりという音を立てる。湯が沸いた合図だ。俺は急須に湯を入れ、プラスチックのコップに茶を注いだ。火傷しないよう気をつけながらそれを飲む。その緑茶は少し苦かった。
空っぽのメガネケースが机の上に静かに置かれている。メガネをかける生活が、今日もまた始まる。
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