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力みと人生観

誰かとか物事に対峙する時に無駄な力みは、たとえ必用だと思っていても良い感じの心身の覚えではないと僕は感じている。
そういったどこかで必用になってくるそれらの力み。
それは、中年以降になると余計な力をぬいて努力してきたものでも『生きることの精算により気持ちの上で必用になってくる』と思っている。一生懸命に生きた上での必死さは必須だとも思えるのである。
けれど、そこからは無駄に力まずにいられたら気持ちの上でどうなのだろうか?
努力や精一杯が必ずしもどんな人にもあった方が良いと、いわれたのはどの時代までだったのだろうか。
自分の正解だと感じる生き方には一生懸命さが大切で、そこに心血を注ぎたいのであれば、絶対に必死さがあるべきだと教えられてきた。
だけれどその頑張りを無駄な方向に感じている場合も時にはある。
それは自分の個性や性質やそれらのその自分なりの器。それをいつの年で気付くか?
若いうちの努力はかってでもしろとは、
自分の器を知ることだと思う。
そこに心血を注ぎ込めるのならば何でもいいのではなく、何でもいいのだと思えた努力の先に、自分の仕事や趣味を選んだ中で、そういった何でも、と思えた上の気持ちで、自分の信じる思想や努力が精一杯に活きてこそ、納得できるのが、自分の泥まみれに一生懸命にしてきた心の込めてきた努力からのその心そのものだと思う。
自分らしいので良いのである。
そういった気持ちを大事に持っていければ、良いのだと思う。

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