超!短編小説『Bar Twilight』3部作/第三話:『ゴセンゾオイカリ』
土曜日の深夜零時。代官山の路地裏に佇む『Bar Twilight』のドアが開いたとき、店内の空気が一瞬で凍りついた。
いつもなら、一週間の仕事を終えた常連たちの穏やかな私語や、氷がグラスにぶつかる心地よい音が響いているはずの空間。しかし、その老人が入ってきた瞬間、カウンターにいた数人の客たちは一斉に口を閉じ、気圧されたように手元のグラスに目を落とした。BGMのビル・エヴァンスが奏でるピアノの旋律だけが、冷え切った空間を虚しく漂っている。
「……いらっしゃいませ、源治さん」
カウンターの中から、リカがいつもより一段低い、落ち着いた声で迎えた。 今日のリカは、昼間のタイトなオフィススタイルを脱ぎ捨て、体のラインを強調する純白のボディコンミニスカートを身にまとっている。二十代後半の若々しくグラマーな肉体、露わになったしなやかで健康的な脚。その圧倒的なセクシーさは、普段なら男たちの目を釘付けにするはずだったが、今夜の不穏な空気はそれさえも覆い隠していた。
七十代の元資産家、源治。 代々代官山の一等地に広大な土地を持っていた地主であり、この店の最高齢の常連客だ。いつもなら、上質な和服や仕立ての良いスーツを粋に着こなして冗談を飛ばす彼が、今夜は泥をこねたような顔をして、よろよろと足元を覚束なくさせながらカウンターの席に腰掛けた。
「源治さん、お顔色が優れませんね。いつものウイスキーにいたしますか?」 リカの問いかけに、源治は答えない。ただ、脂汗の浮かんだ額を震わせ、じっと自分の皺だらけの手を見つめていた。
静寂が、痛いほどにバーを支配する。他の客たちは息を潜め、完全にサイレントな観客と化していた。
やがて、源治の薄い唇から、ひび割れたガラスのような声が漏れ出た。
「……騙された。全部、失ったよ、リカちゃん」
源治の目から、大粒の涙がボロリとこぼれ落ち、木製のカウンターにシミを作った。
「実の息子のように可愛がり、何でも相談に乗っていた男がいたんだ。そいつに、実印も書類も、すべてを預けてしまっていた。今日、弁護士から連絡があってね……先祖代々、何百年と守り続けてきたこの代官山の土地が、すべて他人の手に渡ってしまったことが分かった。もう、取り返しがつかんのだ」
源治は声を詰まらせ、子供のように肩を震わせて泣き出した。 周りの客たちは、あまりの絶望の深さに言葉を失い、ただただ固まっている。
「ご先祖様に顔向けができん……。私は一族の面汚しだ。あの世へ行ったところで、先祖全員から罵られ、未来永劫なじられ続けるに決まっている。守るべきものを失った老いぼれに、もう生きている価値などない。死ぬしかないんだ。今夜、ここへ来たのは……最後にリカちゃんの顔を見て、お別れを言いたかったからだ」
「死ぬ」という明確な言葉が、重苦しい静寂をさらに深く切り裂いた。誰もが、どう声をかけていいか分からず、ただ時計の針が進む音だけが大きく聞こえる。
だが、リカの瞳だけは、決して揺らがなかった。
彼女は無言でボトルを手に取ると、流れるような、しかしどこか儀式めいた厳かな所作でミキシンググラスを扱い始めた。 ベースに選ばれたのは、深紅のチェリーブランデー。そこに、焦がしたシナモンの香りと、度数の高いラム、そして一滴の燃えるようなアブサンが落とされる。
トントン。
源治の前に置かれたのは、まるで生き物の血か、あるいは燃え盛る業火のような、真っ赤な液体だった。
「リカちゃん、これは……」
「当店特製のカクテルです。お名前は――『ゴセンゾオイカリ』」
リカは、いつもの妖艶な笑みを消し、商社の最前線で修羅場をくぐり抜けてきた大人の女性としての、冷徹なまでに真っ直ぐな瞳で源治を見つめた。
「飲んでみてください。ご先祖様の『怒り』の味です」
源治は震える手でグラスを持ち上げ、一気に口に含んだ。 カクテルが喉を通った瞬間、爆発的な熱さが胸の奥を焦がした。濃厚な甘みの後にやってくる、激しいアルコールとシナモンの刺激。まるで、何十人もの人間に胸ぐらを掴まれ、揺さぶられているかのような、圧倒的なエネルギーだった。
「……熱い。まるで、本当に叱られているようだ」 源治はハァハァと荒い息を吐きながら、胸を押さえた。
「そうよ、怒っているわ」 リカは毅然と言い放った。
「でもね、源治さん。あなたのご先祖様が怒っているのは、土地を失ったことなんかじゃない。お金や土地なんて、時代の流れでいくらでも浮き沈みするものよ。彼らが本当に怒り狂っているのは――身内だと信じた男に裏切られ、一番傷ついている最愛の子孫が、たかが地面のために自ら命を捨てようとしている、その弱腰に対してよ!」
リカの言葉は、弾丸のように源治の胸に突き刺さった。他の客たちも、彼女の気迫に息を呑んでいる。
「何百年、何代にわたって命を繋いできたと思っているの? あなたの命は、あなた一人のものじゃない。ご先祖様たちが命がけで繋いできたバトンなのよ。土地を失ったくらいで死んでたまるもんですか。生きて、泥水をすすってでも、裏切った奴らの行く末を見届けてやりなさいよ!」
源治は目を見開いたまま、動けなくなった。真っ赤なカクテルの熱さが全身を巡り、冷え切っていた彼の血を、急速に沸騰させていく。先祖たちが「バカ者が、勝手に死ぬな!」と背中を叩いているような、不思議な力が体の底から湧き上がってくるのを感じていた。
リカは静かにカウンターから出ると、源治の隣の席に腰掛けた。 ボディコンミニスカートから覗く彼女の太ももが、源治の足に触れる。リカは、源治のシワだらけで冷え切った両手を、自分の温かい両手でぎゅっと包み込んだ。
そして、源治の耳元へ顔を寄せた。 そこから聞こえてきたのは、バーのオーナーとしての甘い声ではない。昼間、巨大な富とビジネスの荒波をコントロールしている、一人の凛とした商社OLとしての、絶対的な説得力を持つ声だった。
「明日も、ちゃんと来てね」
源治の身体がビクリと跳ねる。
「あなたの席、ここでちゃんと空けて待ってるから。ね?」
それは、ただの慰めではなかった。「生きて、またここへ戻ってこい」という、魂の契約のような囁きだった。
源治の目から、さっきとは違う、熱い涙が再びこぼれ落ちた。しかし、今度の涙には絶望の色はなかった。彼は、まるで母親の言いつけを守る子供のように、何度も、何度も小さく頷いた。
「……うん。うん、行くよ。明日も、明後日も、ちゃんと来るよ、リカちゃん」
「よし。いい子ね」 リカはフッと微笑むと、いつものセクシーなオーナーの顔に戻り、源治の手をパッと離してカウンターの中へと戻っていった。
源治は残りのカクテルをぐっと飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。 まだ足元は少し震えていたが、その瞳には、消えかけていた生命の灯火が、微かだが確実に、ギラリとした光を宿して蘇っていた。
「みんな、お騒がせしたね。……ごちそうさま」
源治は、背中にご先祖様たちの気配を感じながら、しっかりと地面を踏みしめて、バーの扉を開けた。外はまだ深い夜だったが、彼が見上げる代官山の夜空には、明日へと続く星が輝いていた。
カウンターの中では、リカが静かにグラスを拭いている。 都会の夜に迷い、傷つき、死にかけてやってくる男たち。彼らの魂に、一時の休息と、戦うための劇薬を処方する隠れ家――『Bar Twilight』の夜は、これからも静かに、そして熱く更けていく。
