復活とは、すでにあるものに還ることなのかもしれない
マルタのイースターで、教会の中から姿を現したキリストを見たとき、胸が震えた。
その瞬間、自分の中に響いてきたのは「復活」という言葉だった。
でもそれは、何かを新しく得ることではなく、すでにあるものに還ることのように感じられた。
今日はイースター。
マルタで復活祭の祭典を見ていた。

教会の前には人が集まり、楽隊が並び、白い衣をまとった人たちが像を担ぐ準備をしている。
晴れた空の下で、町全体がこの日を迎えていることが伝わってくるような光景だった。
外にいる人たちは、それぞれにこの時間を見つめていた。
祈っているようにも見えたし、祝っているようにも見えた。
厳かなのに、どこか開かれていて、重たいのに、どこか明るい。
そんな不思議な空気が流れていた。
教会の中にも入った。
赤い幕と装飾に囲まれた空間は静かで、外の賑わいとはまた違う時間が流れていた。
人が行き交っているのに、どこか深いところでは、ただ静かだった。

そして、教会の中からキリストの像が運び出される瞬間を見た。

そのとき、胸が震えた。
うまく説明できる震えではなかった。
感動という言葉だけでは少し足りない気がする。
何かが、内側の深いところに触れてきたような感覚だった。
その瞬間、自分の中に「復活」という言葉が響いてきた。

でも、そのとき自分の中に立ち上がってきた「復活」は、無いものを新しく得ることではなかった。
失っていた何かを、外から補うことでもなかった。
むしろ、すでにあるものが現れてくること。
すでにあるものを封じこめている何かがほどけて、もともとそこにあったものが、もう一度姿をあらわすこと。
そんな感覚として、「復活」という言葉が響いていた。
だからそれは、「再誕生」という言葉にも近いけれど、自分の感覚としては、それよりも「還る」とか「戻る」のほうがしっくりくる。
何か別の自分になるのではない。
何者かになるのでもない。
すでにあるものに戻っていく。
その感覚に、今日の復活祭はどこかでつながっていた。
僕はこの旅に出るとき、ひとつの問いを持っていた。
どうすれば、どんな時でも、何があっても、「自分は十分な存在である」と思い続けられるのだろう。
「自分が十分」であること。
それは、自分という存在を愛していることと、どこか同じことのように思えた。
だからこそ、それはこの旅の中心にある問いでもあった。
でも最近、少し見え方が変わってきている。
それは、「十分な自分になる」のではない、ということだ。
以前の僕は、どこかで「十分な自分になれたら」と思っていたのかもしれない。
でも今は、そもそも自分はすでに十分な存在なのではないか、という感覚がある。
必要なのは、何かを新しく手に入れることではない。
何かを足して完成させることでもない。
「十分ではない」と感じさせてしまう反応や感情や思い込みを、少しずつ手放していくこと。
そうすると、もともとそこにあったものが見えてくる。
今日、復活祭を見ながら感じたのは、まさにそのことだったのかもしれない。
復活とは、失われたものを外から取り戻すことではなく、すでにあるものに還ること。
封じこめられていたものがほどけて、もともとあったものが再びあらわれてくること。
そんなふうに感じた。
そう考えると、自分にとっての「十分な自分」も、どこか似ている。
十分な自分になる、のではない。
十分な自分に還っていく。
戻っていく。
何かを達成したから。
何かを証明できたから。
誰かに認められたから。
そうやって手に入れるものではなく、すでにそうであるものに、もう一度触れていくこと。
その感覚が、今日、教会の中から姿を現したキリストと重なった。
町には音楽が流れ、人が集まり、祭典は続いていく。
それは共同体の祝祭であり、信仰の表現であり、長く受け継がれてきた儀式でもあるのだと思う。

でも今日の僕には、その光景が、ただ外側の宗教行事としてだけではなく、自分の内側で起きていることにも重なって見えた。
人は、何者かになることで生まれ変わるのではないのかもしれない。
何かを足して完全になるのでもないのかもしれない。
すでにあるものに還る。
すでにあるものを覆っているものを、少しずつ手放していく。
その先に見えてくるものを、人は「復活」と呼ぶのかもしれない。
今日、マルタの復活祭のなかで、僕の中にはそんな感覚が立ち上がっていた。
