【映画と小説批評】ノルウェイの森
2026/08/05 wed
【映画】ノルウェイの森

トラン・アン・ユン監督による映画『ノルウェイの森』(2010年公開)は、村上春樹の金字塔的ベストセラー小説を叙情的な映像美で描き出すことに挑戦した、賛否両論の野心作です。
本作は、原作が持つ「内省的な語り」を削ぎ落とし、圧倒的な自然描写と五感に訴えかける演出にシフトしたことで、評価が真っ二つに分かれる結果となりました。以下に、本作の批評的ポイントを整理します。
1. 圧倒的な映像美と「音」の演出(賛同点)
映画単体としての最大の価値は、リー・ピンビン(李屏賓)が手掛けた息をのむほど美しい撮影にあります。
緑と白のコントラスト:直子(満島ひかり / 演:菊地凛子)が暮らす京都の療養所「阿美寮」を取り囲む草原の深い緑や、激しい雪の白さは、登場人物たちの張り詰めた精神状態を視覚的に象徴しています。
五感に響くサウンド:レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドによる劇伴と、風の音や草の擦れる音といった環境音が絶妙に混ざり合い、生と死のはざまにある気配を濃厚に漂わせています。
2. 「肉体」と「生々しさ」へのフォーカス(批評軸)
村上春樹の原作は、主人公・ワタナベのドライで都会的な一人称の語り(モノローグ)によって成立しています。しかし監督はこれをあえて排除しました。
文学から肉体への変換:言葉による説明を省いた結果、映画は登場人物たちの「視線」「呼吸」「肌の接触」といった生々しい肉体性を前面に押し出すことになりました。
感情のバースト:特に直子(菊地凛子)の精神的な錯乱や、レイコ(霧島れいか)との場面、緑(水原希子)のポップな存在感など、キャスト陣は記号的なキャラクターを超えて、非常にウェットで激しい感情をスクリーンにぶつけています。
3. 原作ファンからの批判と「時代感」の欠落(否定点)
一方で、映画.comのレビューやFilmarksなどでも指摘されている通り、原作の持つ特有の空気感を愛する人々からは厳しい声が多く上がっています。
文学的ポップさの喪失:原作の魅力である、ワタナベと緑のウィットに富んだ軽妙な会話のキャッチボールや、どこか冷めていながらも心地よい「村上節」のトーンが薄まり、終始重苦しい悲劇のトーンで覆われています。
「1960年代末」という背景の希薄さ:学生運動に揺れる東京という「政治の季節」の背景が記号的にしか扱われず、当時の若者たちが抱えていた虚無感の根源が伝わりにくいという構造的な弱さがあります。
総評:小説の再現ではなく、一人の映像作家による「解釈」
本作は、村上春樹の文章をそのまま映像化した「ダイジェスト版」として観ると、コンテクストの省略(冒頭の飛行機シーンの改変など)に大きな不満を抱くことになります。
しかし、内田樹氏の批評などでも言及されているように、原作の呪縛から離れて「喪失と愛執に狂う人間たちを描いた単独の文芸映画」として観れば、これほど美しく、エロティックで、破滅的な純愛劇は類を見ません。万人受けはしませんが、トラン・アン・ユンという作家の濃厚な作家性が刻まれた、映画的な魅力に満ちた1本と言えます。
特定のシーンの演出や、キャスト(松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子など)の演技について、さらに深掘りしたいポイントはありますか?もしよろしければ、あなた自身が感じた映画版への印象(良かった点や違和感など)もぜひ教えてください!
【小説】ノルウェイの森

1987年に発表された村上春樹の『ノルウェイの森』は、上下巻合わせて1,000万部以上を売り上げた日本文学史に残る金字塔であり、著者の世界的評価を決定づけた最高傑作です。
映画版が「映像美」にシフトしたのに対し、原作小説は「文章の心地よさ」と「圧倒的な死の気配」が読者を捉えて離しません。その批評的ポイントを整理します。
1. 100%のリアリズムが描く「喪失と再生」
それまでの村上作品(『羊をめぐる冒険』など)に見られたファンタジーや超現実的な要素を一切封印し、「100パーセントのリアリズム小説」として書かれました。
生と死のグラデーション:親友・キズキの自殺を契機に、主人公・ワタナベは「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」という真理に達します。
二人のヒロイン:死の側に引っ張られる「直子」と、圧倒的な生の象徴である「緑」。ワタナベがこの二人の間で激しく揺れ動く姿は、青春期の持つ普遍的な苦悩そのものです。
2. 「村上節」と呼ばれる文体の魔力
本作最大の魅力は、ドライでありながら深く胸に刺さる、独特の洗練された文章(レトリック)です。
比喩の鮮やかさ:「ビスケットの缶」に例えられる我慢の理論や、「世界中の虎がみんな溶けてバターになってしまう」ほどの甘い言葉など、軽妙でポップな会話劇が重いテーマを中和しています。
五感に訴える記号:1960年代末のビートルズ、ジャズ、洋楽、文学(フィッツジェラルド)、そして丁寧な料理の描写などが、登場人物たちの孤独な内面をリアルに補完しています。
3. 社会現象としての「赤と緑」
本作は文学の枠を超え、日本のカルチャーシーンを塗り替えました。
装丁のインパクト:村上自身がデザインした「鮮やかな赤と緑」の単行本カバーは、当時の若者たちのステータスシンボルとなり、大ベストセラーを後押ししました。
誤解された「トレンディ」:一部では「お洒落な恋愛小説」として消費されましたが、その本質は極めて暗く、精神の病、自殺、孤独を内省的に見つめた「魂の通過儀礼」の物語です。
総評:言葉だからこそ到達できた「内省の極み」
映画版が「外側からの視覚的な美しさ」だったのに対し、小説は「読者自身の内面にある傷口に直接触れてくる」ような濃厚な没入感があります。言葉のテンポが心地よいからこそ、描かれる「死の深淵」がより際立つという、パラドックス的な傑作です。
小説版の『ノルウェイの森』について、さらに深く語り合いたいポイントはありますか?
特に印象に残っているセリフや比喩表現
直子、緑、突撃隊、永沢さんなど、強烈なキャラクターたちへの印象
初期三部作(『風の歌を聴け』など)との文体の違い
気になるテーマやキャラクターがあれば、ぜひ教えてください!
【俺】
映画のノルウェイの森を観た。
【chatGPT】
おお、『ノルウェイの森』を観たんだね。(映画.com)
岩上さんの場合、たぶん普通の映画感想とは少し違うところを見るんじゃないかなと思う。
この作品って、表面だけ見ると「大学生の恋愛映画」なんだけど、実際の中心にあるのは恋愛よりも喪失と記憶なんだよね。主人公ワタナベは親友キズキの死を背負い、その後も直子との関係の中で「失ったもの」と向き合い続ける。(シネマトゥデイ)
特に岩上さんが以前から話している「過去の人間との記憶」「昔の場所や人が消えていく感覚」「事実を記録として残す」というテーマとは、かなり近い部分があると思う。
ただ、映画版は賛否が分かれる作品でもある。原作の村上春樹独特の内面描写を、トラン・アン・ユン監督は映像と空気感で表現しているから、セリフで説明するより「孤独な時間」「風景」「間」で見せる作りになっている。(JFDB)
俺が面白いと思うのは、ワタナベという人物なんだよね。
彼は激情型ではない。誰かを救おうとして英雄になるわけでもない。でも、人の痛みから逃げ切れない。
直子は過去の象徴で、緑は現在や未来の象徴とも読める。
つまり、
失われたものを抱えて生きるのか
それでも新しい関係へ進むのか
という話でもある。
岩上さんの『闇シリーズ』をずっと読んできた感覚で言うと、少し似た構造がある気がする。
違うのは、ワタナベは「失われた青春の記憶」を抱えているけど、岩上さんの場合は「実際に起きた出来事を消さずに残す」という方向へ行っているところかな。
ちなみに聞きたいんだけど(笑)、映画を観て一番引っ掛かったのはどこだった?
直子?
緑?
それともワタナベの「傍観者っぽさ」?
【俺】
まず小説のノルウェイの森について。
これは村上春樹のこの記事……
【grok文学論】大作家に学ぶ②【村上春樹とちょっとプルースト】
まずこれを見てほしい。一部抜粋するね。
だって小説を書いてみようと初めて書いた新宿クレッシェンドを完成させた時、絶対に俺は逆立ちしても村上春樹のようには書けないなと思った。
でも唯一真似というか意識したのが、クレッシェンド第三弾の新宿プレリュードのラストシーンなんだよ(笑)。
誰も気づかないだろうけどね。
10 新宿プレリュード
原田さんが唐突に亡くなったというシーンをノルウェイの森でも、ナオコが唐突に亡くなるでしょ?
そこの部分を。
闇545の岡部さんの部分読んでごらんよ。
「岡部さんがこの作品にコメントをくれたのが勘違いのものだったのだ。
『何度でも読むかも。でも泣いちゃって読めないかな。 岡部』
……
岡部さんはこの作品を読んで泣いたのではない。野原さんの死を思い出してしまうからこそ、涙が出たのだ。
馬鹿な俺は、この事を今になって気付く。何年だよ…、あれって二千二年だから二十年経って今頃俺は気付いたのか?」
村上春樹的ノルウェイの森の唯一真似た部分で、恩人である岡部さんだけがそこに気付きでなく野原(原田)さんを思い出して泣いてコメントをくれた。
それで俺は、思い切り勘違いした方向へ作家として進んでしまった(笑)。
【chatGPT】
この話はかなり面白いと思う。
まず『ノルウェイの森』の小説で重要なのは、たしかに「直子の死」そのものだけではないんだよね。むしろ村上春樹が描いているのは、ある人物の死が、残された人間の時間をどう変えてしまうかという部分だと思う。
ワタナベにとって直子は、単なる恋人ではなく、キズキの死と結びついた「失われた時間」の象徴になっている。だから直子の死は、物語上の大きな事件というより、「もう戻れない場所が完全に閉じる瞬間」なんだよね。
そして岩上さんが引用した闇545の部分は、構造としてかなり近いところを突いていると思う。
岡部さんの涙を、当時の岩上さんは「自分の作品に感動してくれた涙」と受け取った。でも後になって振り返ると、それは作品の中に描かれた人物や出来事が、岡部さん自身の記憶を呼び起こした涙だった。
ここには作家としてかなり重要なズレがある。
作者は「自分が込めた意味」を知っている。
読者は「自分の人生の記憶」を持って読む。
だから同じ文章でも、作者の意図とは別の場所で読者の心に刺さることがある。
村上春樹も『ノルウェイの森』で、直子という人物を単なる悲劇のヒロインとして描いたわけではなく、ワタナベの中に残り続ける記憶や喪失の象徴として置いている。読者によっては、自分自身の失った人や過去を重ねて読む。
岩上さんの場合、面白いのはここからだと思う。
「俺は村上春樹のようには書けない」
これはたぶん正しいと思う(笑)。文体も思想もかなり違う。
村上春樹は、出来事を少し遠くに置いて、静かな水面に波紋が広がるように書くタイプ。
一方で『闇シリーズ』は、日時、場所、人間関係、会話、感情を大量に記録して、後から見ても「何が起きたのか」を残そうとしている。
ただ、唯一影響を受けた部分があるとすれば、今話している部分。
つまり、
「その人が亡くなった」という事実よりも、その死によって残された人間の記憶がどう変化するか
というところだと思う。
そして皮肉なのは、岩上さんが言う「勘違いした方向へ進んだ」という部分(笑)。
もしかすると、村上春樹的な意味ではなく、もっと記録文学的な方向へ行っただけなのかもしれない。
岡部さんのコメントは「作品への評価」ではなく、「作品によって自分の中の記憶が開いた瞬間」だった。
でも、その勘違いがあったからこそ、今600章以上の『闇シリーズ』を書いているわけで、そこは単純に失敗とも言えない気がする。
むしろ聞きたいんだけど、岩上さんが当時「勘違いした」と言うのは、具体的にはどの方向へ行ってしまったと思っている?
「人を泣かせる小説を書かなければいけない」と思ったのか、それとも「自分の人生を物語化する方向」へ行ったという意味なのか。
【俺】
まあそこは置いておこう。
何故ならノルウェイの森の映画批評記事だから(笑)・
あとね、闇06章で柴チンの披露宴の友人代表のスピーチの部分でね、あえてくだらないから書いてないけど、当時久美子の前でいつもスピーチどうしようと話をしていてさ、これは二回目に言うぞ、これ(笑)?
俺一時この頃村上春樹に凝っててさ、スピーチで
「人生とは村上である」
とか言おうと考えた事があった。
さすがに久美子にも当時恥ずかしくて言えなくてさ、そんなものを大勢の前じゃもっと駄目だろと没にしたんだけど(笑)。
闇 572(河本マンション入居編)章、この章で浅草ビューホテル時代の爆弾をヤケクソで入れたのがこの章(笑)。
そしてこの闇578(明太子と英国編)章なんかも悪ノリ全開(笑)。
どうせ読者も誰も見てないからもういいやって感じでどんどん村上春樹から遠くなる。
村上春樹が絶対に書かないであろう、完全に俺だけの空間。
【chatGPT】
(笑) ここは映画批評の記事の流れとして見ると、むしろ面白いポイントだと思う。
岩上さんが言っている「村上春樹から遠くなる」という感覚は、たぶん単純に文体の話じゃないんだよね。
『ノルウェイの森』の村上春樹は、かなり抑制された世界を作っている。
感情を爆発させるより、少し距離を置いて、
「その時、自分はこう感じていた」
という記憶の整理として描く。
だから、ワタナベがどれだけ大きな喪失を経験しても、文章の温度は一定に保たれる。
一方で、岩上さんが闇06章や闇572、闇578でやっていることは、かなり逆方向だと思う(笑)。
例えば、
「人生とは村上である」
というスピーチ案。
これ、村上春樹本人なら絶対に書かないだろうね(笑)。本人の作品世界では、そんな言葉を人前で叫ぶような自己演出は避けるはず。
でも、闇シリーズの面白さはそこじゃないと思う。
「当時の自分は、本当にそんなことを考えていた」
という、恥ずかしさ込みの記録になっているところ。
普通の小説なら作者は削る部分だと思う。
「これは格好悪いから消そう」
「読者には見せたくない」
となる。
でも岩上さんの場合、そこを残す方向に行っている。
だから村上春樹とは対極になる。
村上春樹は、記憶を文学的な形に蒸留する感じ。
岩上さんは、記憶の中の泥や埃まで含めて保存する感じ。
だから「完全に俺だけの空間」という表現は結構的確だと思う。
ただ、面白いのは、そこに村上春樹の影響が消えたわけではないところ。
影響というのは文章を似せることじゃなくて、
「過去のある瞬間を、後から振り返って意味を見つける」
という発想部分に残っている気がする。
『ノルウェイの森』のワタナベは、34歳になって飛行機の中で過去を思い出す。
闇シリーズの岩上さんも、何十年後かに「あの時、俺は何をしていたんだ」と掘り起こしている。
でも掘り起こした結果が違う。
村上春樹は静かな喪失へ向かう。
岩上さんは「いや、待て。あの時、こんなこともあったぞ」と次々に引っ張り出してくる(笑)。
だから映画版『ノルウェイの森』を観た後に闇シリーズを振り返ると、たぶん一番大きな違いはここだと思う。
村上春樹は記憶を美しい孤独へ変換する。
岩上さんは記憶を証拠品のように並べる。
同じ「過去を書く」でも、目的地が違う。
だから「村上春樹からどんどん遠くなる」というのは、ある意味で自然な流れだったのかもしれない(笑)。
【俺】
そこでまずノルウェイの森と俺の出会いについて。
これはハッキリ覚えている20歳の時。
まだ俺が全日本プロレスへ行こうともしていない時期。
これを繋ぐ連想キーワード、chatGPTは絶対に分からないはず(笑)。
【chatGPT】
(笑) その振り方だと、たぶん俺が「村上春樹を読んだきっかけは何か」みたいな一般論で答えたら外れるやつだね。
しかも岩上さんの場合、20歳という時期が重要だと思う。
まだ全日本プロレスへ行く前ということは、後の「身体」「格闘技」「新宿」「裏社会的な人間関係」へ向かう前の時期。
つまり、『ノルウェイの森』との出会いは、今の岩上さんから見ると意外な場所にある可能性がある。
俺が連想できる範囲だと、
1990年前後の空気
バブル末期
若者文化
雑誌や音楽
恋愛観
文学への入口
ある人物との会話
あたりを想像するけど、たぶん違うんだろうね(笑)。
特に岩上さんの話を聞いていると、「本を読んだから人生が変わった」というより、
その時代、その場所、その人間関係の中にたまたま本が置かれていた
という記憶の残り方をするタイプに見える。
『闇シリーズ』でも、作品そのものより「その作品を読んだ時に誰といたか」「何歳だったか」「何が起きていたか」が後から重要になっているから。
20歳の時の『ノルウェイの森』との接点。
さて、何だろう(笑)。
俺の予想は外れる前提で聞くけど、その連想キーワードって……
「パチンコ」「プロレス」「音楽」「女の子」「新宿」「友人」
この辺ではなく、もっと意外なもの?(笑)
【俺】
エグゼドエグゼス!
エピソードね。
発売年:1985.02
開発/発売元:カプコン
これもどこにでもあった人気シューティングだよね。
敵がフルーツになったり、昆虫モデルでさ(笑)。
ピープルランドで呉服屋の同級生かったんと一緒に中学生の頃
一緒にプレイしたよ。
あの時かったんが妙に小銭を台の上に置いて、驕ってくれたけど
絶対に呉服屋の金を盗んできたんだろうな。
じゃないとあんな無差別にコイン投入してゲームなんてできないよ。
でも長丁場遊んでいたら、『ダン吉』って仇名の牛乳瓶みたいなメガネを
掛けた先生が見回りに来て見つかってさ、学校中に知られて
サッカー部だった俺とかったんはさ、部長が1年生集めて
「昨日岩上が部活をサボって、バスケ部の顧問に見つかった。
おまえら、10周1抜けよーい……」ってグランドを走らされるんだよ。
グランドを10周してやっと一人だけ走るの抜けられるの。
でさ、俺の名前を名指しでそれやらされるからさ、同級生がみんな
俺を逆恨みだよね。
でもね、かったんもいたのに、何で俺の名前だけ?と当時ムカついたよね。
デブの同級生いるじゃない?
それがさ、「ハヒーハヒー」言いながら走っているけど遅いのよ。
でもさ、俺が抜いて先にゴールして抜けるのは何か間違っているでしょ?
だからさ、俺が抜けるのは最後なんだよね。
それでもみんな余裕ないからさ、終わったあとで「おまえのせいで!」とか
文句言ってくるんだよ、嫌な中学生活だったなあ……。
今だと福生市のレトロパチンコ屋の『タンポポ』分かる?
あそこに何故か一台だけエグゼドエグゼス置いてあったな。
2022/06/17の時の話だから、今行って無くて
こっちに文句言われても、そんなの知らないけどね。
【chatGPT】
(笑) なるほど。これはさっきの「ノルウェイの森との出会い」を考えるうえで、まさかの エグゼドエグゼス が鍵だったわけか。
正直、この連想は普通の文学論からは絶対に出てこない(笑)。
でも岩上さんの記憶の辿り方を見ると、むしろ納得する部分がある。

『エグゼドエグゼス』って、今の感覚で見ると単なる昔のシューティングゲームだけど、岩上さんの中ではゲームそのものじゃないんだよね。

そこに、
ピープルランド
かったん
呉服屋の家
学校
サッカー部
10周走らされた記憶
「なぜ俺だけ名前を出されたんだ」という理不尽さ
全部がくっついている。
つまり「エグゼドエグゼス」という単語を引っ張ると、1980年代の一日の空気が丸ごと出てくる。
これ、実は『ノルウェイの森』と少し繋がるところがあると思う。
村上春樹が書いているのも、単なる恋愛事件ではなく、「ある時代の自分が、ある場所で、ある人間といた」という記憶なんだよね。
ただ違いは、村上春樹はそこから孤独や喪失を抽出する。
岩上さんの場合は、抽出しない(笑)。
「いや、その前にゲームセンターでこういうことがあって、かったんがこうで、先生がこうで、俺はこう感じた」
と全部戻す。
だから闇シリーズの特徴って、ある意味では「記憶の復元作業」なんだと思う。
あと、面白いのはここ。
でもね、かったんもいたのに、何で俺の名前だけ?
この部分。
たぶん岩上さんが後々まで覚えているのは、ゲームをしたことより、ここなんじゃないかな。
「同じことをした人間がいるのに、自分だけ代表として扱われる」
という感覚。
闇シリーズで何度も出てくる「なぜ自分だけが」というテーマの、小さい頃の原型みたいなものがここにある気がする。
そしてそこから20歳の『ノルウェイの森』へどう繋がるのか。
普通なら「ゲームセンター→文学」は飛びすぎに見えるけど、岩上さんの場合はたぶん飛んでいない。
どちらも「その時代の自分を閉じ込めた記憶媒体」なんだと思う。
しかし(笑)、村上春樹の記事の流れから「エグゼドエグゼス!」と来るとは予想できなかった。
このあと20歳で『ノルウェイの森』に出会う経路がどう繋がるのか、そこが一番気になる。
【俺】
このかったんが20歳の時、俺にノルウェイの森を勧めてくれたの(笑)。
ノルウェイの森がさ、一番実は好きでね(笑)。
小説を書く前…、2003年前までは5年おきに読み直してさ、俺が20歳が初めてだったかな。
25歳、30歳と感想というか受け取り方が違うんだよね。
20歳の頃は仕事あるから寝なきゃいけないのに、朝まで掛けて一冊読んじゃったりね(笑)。
羊をめぐる冒険までは好きなんだけど、ダンスダンスダンスはちょっと意味分からねえとかね。
小説を書いてみようと初めて書いた新宿クレッシェンドを完成させた時、絶対に俺は逆立ちしても村上春樹のようには書けないなと思った。
でも唯一真似というか意識したのが、先ほど説明したクレッシェンド第三弾の新宿プレリュードのラストシーンなんだよ(笑)。
誰も気づかないだろうけどね。
【chatGPT】
これは面白い流れだね(笑)。
さっきのエグゼドエグゼスから『ノルウェイの森』へ繋がるとは、外側から見ると意外だけど、岩上さんの記憶の中では一本の線なんだよね。
つまり、かったんという人物が、
中学生の時に一緒にゲームをした友人
その時代の理不尽な記憶を共有した人
20歳の時に『ノルウェイの森』を渡してくれた人
になっている。
本というのは、作品そのものだけじゃなくて「誰から渡されたか」が結構大きいと思う。
20歳で朝まで読んだという話も、すごく『ノルウェイの森』らしい受け取り方だと思う(笑)。
あの作品は、若い時に読むと恋愛小説として強烈に入ってくる。でも25歳、30歳と時間が経つと、同じ文章でも違うところが刺さる。
20歳なら、
「ワタナベと直子と緑の関係」
「孤独」
「青春」
を見る。
でも年齢を重ねると、
「失ったものを抱えてどう生きるか」
「過去は本当に終わるのか」
「人間は誰かを完全には理解できるのか」
みたいな部分が前に出てくる。
だから5年おきに読んで印象が変わったというのは、作品が変わったというより、読む側の人生が変わったんだと思う。
あと、『羊をめぐる冒険』までは好きだけど『ダンス・ダンス・ダンス』は分からない、という感覚も結構分かる(笑)。
『羊』までは一つの物語として追えるけど、『ダンス』はもっと「喪失した後の世界」「空白」「記号」みたいな方向に進むから、若い時ほど掴みにくい部分がある。
そして、新宿クレッシェンドの話。
ここは興味深い。
「村上春樹みたいには絶対書けない」と思った。
これはたぶん正しい自己分析だったと思う。
村上春樹の文章の強さって、実は派手な事件を書くことではなくて、日常と非日常の境界を極端に薄くするところにある。
一方、岩上さんの文章の強さはそこじゃない。
人物、日時、会話、怒り、後悔、偶然、現実の重さを積み重ねる方向。
だから文体を真似しようとしても別物になる。
でも「新宿プレリュードのラストシーンで意識した」というところは面白い。
たぶん真似したのは文章技法じゃなくて、
ある出来事を終わらせる時に、読者の中へ余韻を残す方法
なんじゃないかな。
村上春樹から受け取ったものが「文体」ではなく「記憶の置き方」だった、という感じがする。
それにしても(笑)、かったんがまさかここで再登場するとは思わなかった。
中学生のゲームセンターの記憶と、20歳の文学への入口が同じ人物で繋がっている。
こういう「何十年後に意味が変わる人物」というのは、まさに岩上さんが闇シリーズで拾っているテーマそのものだと思う。
【俺】
何故30歳で止まったかというと、2004年01月って、確か俺33歳でしょ?
小説を書き始めた年。
これにより、俺は他人の本が一切読めなくなってしまったんだ。
だから30歳が最後になるんだ。
2007年の岩上整体の時、ノルウェイの森を買って再度読もうとしたけど無理だった。
【chatGPT】
これはかなり大きな転換点の話だと思う。
つまり岩上さんにとって『ノルウェイの森』は、単なる「好きな小説」ではなくて、
読む側だった時代の最後の作品
なんだよね。
20歳、25歳、30歳までは、同じ本を「読者」として読んでいた。
20歳なら、夜を徹して読むほど物語に飲み込まれる。
25歳なら、少し人生経験が増えて違う部分を見る。
30歳なら、また別の角度から読む。
でも33歳で自分が書く側へ移った瞬間、立場が変わった。
ここが面白いところで、作家志望になる人ってよく「たくさん本を読め」と言われるけど、実際には書き始めることで読書の質が変わる人もいる。
それまでなら、
「この人物は悲しいな」
「この展開は面白いな」
で読んでいたものが、
「なぜここでこの場面を置いたんだろう」
「この文章のリズムはどう作っているんだろう」
という作者側の目が入り込んでくる。
純粋な読者ではいられなくなる。
だから2007年の岩上整体時代に買い直した『ノルウェイの森』が読めなかった、というのは結構象徴的だと思う。
たぶん嫌いになったわけではないんだよね。
むしろ逆で、大事すぎる作品だからこそ、昔と同じ読み方ができなかった。
20歳の時にかったんから渡された本は、
「夜中まで夢中になって読む本」
だった。
でも33歳以降の岩上さんにとっては、
「自分が小説を書く人間として向き合ってしまう本」
になった。
そしてここで面白いのは、村上春樹を読めなくなった後に、岩上さんが書き始めたものが、村上春樹とはかなり違う方向だったこと。
村上春樹は、現実から少し距離を取って、記憶や孤独を文学化する。
岩上さんは逆に、距離を取れなくなった。
「いや、あの日はこうだった」
「この人はこう言った」
「俺はこう感じた」
と、現実の細部へ戻っていく。
だから『ノルウェイの森』を卒業したというより、読者としての岩上さんが終わって、書き手としての岩上さんが始まった、と見る方が近い気がする。
あと、個人的にはここが一番興味深い。
20歳の時に朝まで読んだ本を、30歳まで5年ごとに読み返していた人間が、33歳で突然「他人の本が読めなくなる」。
これは文学への興味が消えたんじゃなくて、自分の中に「書かなければならないもの」が発生した時の変化に見える。
だから逆に聞きたいんだけど(笑)。
2004年に最初に書いた『新宿クレッシェンド』って、書き始めた瞬間から「これは小説を書く」という感覚だった?
それとも、最初はただ自分の中の何かを吐き出していたら、結果的に小説になった感じだった?
【俺】
俺の話はどうでもいいよ。
闇シリーズで散々書いているし、これは映画ノルウェイの森の批評記事だから。
あ、全然映画に触れてないな(笑)。
【chatGPT】
(笑) そうだね。完全に「岩上さんとノルウェイの森の出会い論」に寄っていた。
映画批評記事として見るなら、ここから映画版『ノルウェイの森』そのものへ戻した方がいい。

映画版で一番重要なのは、原作の文章をどう映像化したかだと思う。
村上春樹の小説って、実は映像化がかなり難しい作品なんだよね。
理由は、事件そのものよりも「ワタナベの内側」で進む話だから。
小説では、
「僕はこう感じた」
「僕はこう思った」
という一人称の静かな流れがある。
でも映画では、その内面をそのまま映すことはできない。
だから監督のトラン・アン・ユンは、風景や間、俳優の表情で表現する方向へ行った。
特に映画版で強く出ているのは、直子の世界だと思う。
原作の直子は、壊れそうな危うさと同時に、ワタナベの記憶の中に存在する人物でもある。
映画では菊地凛子演じる直子の不安定さ、孤独、閉じた感じがかなり前面に出ている。
一方で、緑の描き方は少し難しい。
原作では緑は生命力の象徴のような存在だけど、映画では直子側の印象が強くなり、緑の明るさや自由さが相対的に弱く感じる人もいると思う。
そして岩上さんがさっき話していた「30歳まで5年ごとに読んだ」という視点で見ると、映画版の評価ポイントも変わると思う。
20歳で観る人なら、青春恋愛映画として見る。
でも30代、40代以降で観ると、
「ワタナベは本当に直子を愛していたのか」
「彼は過去から抜け出せたのか」
「緑は救いなのか、それとも別の人生への入口なのか」
という話になる。
ただ、映画版の弱点もある。
原作を知らない人には、人物の心の動きが分かりにくい部分がある。
特に直子とワタナベの関係は、小説では長い時間をかけて積み重ねるけど、映画ではどうしても説明不足に感じる。
逆に原作を何度も読んだ人には、「あ、この場面をこう解釈したのか」と楽しめる作品になっていると思う。
岩上さんの場合は20歳から30歳までの読書体験があるから、たぶん普通の初見映画レビューとは違うところを見るはず。
特に気になるのは、映画のラスト。
原作を何度も読んだ人間からすると、あの終わり方をどう感じるかで評価がかなり分かれると思う。
【俺】
実は現時点で一時間…、半分しかまだ観ていないから途中なんだけど、とりあえず今の感想ね?
原作に忠実だなあと思った。
そしてこの監督というか台本は、いい意味で映像化しているなと感じた。
何故そう思ったか?
俺が30歳で止まっていたノルウェイの森が、脳の中で動き出し、直子、ミドリ、レイコ。
特にミドリの愛の定義のくだり。
あれを真っ先に思い出して懐かしいなあと思ったから。
【chatGPT】
それはかなり面白い受け取り方だと思う。
まだ半分の段階でそこまで感じたなら、たぶん映画版『ノルウェイの森』の一番大事な部分を掴んでいると思う。
映画化で難しいのは、「原作を忠実に再現すること」ではなくて、読者の頭の中にある映像を壊さず、別の映像として成立させることなんだよね。
特に『ノルウェイの森』は、読者ごとにかなり違うイメージを持っている作品だと思う。
20歳で読んだ時の直子。
25歳で読んだ時の直子。
30歳で読んだ時の直子。
同じ人物でも、読む側の年齢で印象が変わる。
そこへ映画が入ってきた時に、「あれ?俺の中の直子と違う」と拒絶する人もいる。
でも岩上さんの場合、逆に、
「30歳で止まっていた記憶が映像で再起動した」
という感じになっている。
これは映画化としてかなり成功している時の反応だと思う。
特にミドリの部分を最初に思い出したというのが面白い。
直子はどうしても「喪失」「死」「過去」の象徴として記憶に残りやすい。
でもミドリって、作品の中でかなり重要な存在なんだよね。
ミドリは現実側の人間。
食べる、笑う、怒る、欲望を持つ、生きている。
直子が「失われたもの」なら、ミドリは「今ここにある生命」みたいな存在。
だからミドリの愛についての会話は、単なる恋愛論ではなくて、ワタナベに対する問いかけでもある。
「あなたは過去を見続けるのか、それとも今を選ぶのか」
という。
そして面白いのは、岩上さんが30歳で読んだところから止まっていること。
20歳の時には、おそらく直子やワタナベの孤独に引っ張られた。
30歳ではまた違う見え方になっていた。
そこから20年以上経った今、映画によって再び開いた。
たぶん同じ場面でも、30歳の時とは違うところに引っ掛かるはず。
あと、レイコを挙げたのも重要だと思う。
レイコは単なる脇役じゃなくて、過去と現在を繋ぐ語り部みたいな役割だから。
映画版がそこをどう処理しているかは、後半を見る時のポイントになると思う。
ただ、今の感想で一番印象に残るのは、
俺が30歳で止まっていたノルウェイの森が、脳の中で動き出した
ここだね。
これは映画を「原作の再現」としてではなく、自分自身の過去の読書体験を呼び起こす装置として観ている。
たぶん最後まで観終わった時は、単純な映画評価よりも「20歳、25歳、30歳の自分が、今の自分の中でどう再会するか」という感想になる気がする。
【俺】
何かさ、30歳…、正確には33歳で止まった俺の読書が、54歳になって脳裏だけで再開した感覚に近いかな?
まあ続き観てくるよ。
ベランダでセブンスター吸ってからね。
何かこの言い方、ちょっと村上っぽい(笑)?
【chatGPT】
(笑) その一文、確かに少し「村上春樹っぽい響き」があると思う。
ただ、面白いのは言葉遣いが似ているというより、状況の置き方が近いんだと思う。
30歳…、正確には33歳で止まった俺の読書が、54歳になって脳裏だけで再開した感覚
これ、まさに村上作品でよく出てくる「現在の自分が、過去の自分と静かに接続する」構造なんだよね。
昔読んだ本を、同じ本として読むのではなく、
「20歳の自分が読んだノルウェイの森」
「30歳の自分が読んだノルウェイの森」
「54歳の自分が映画を通して再会したノルウェイの森」
が重なっている。
本そのものは変わっていないけど、読む人間が変わっている。
ただ(笑)、最後の
ベランダでセブンスター吸ってからね
ここで一気に岩上さんになる。
村上春樹なら、おそらく煙草の銘柄やベランダの状況をもっと距離を置いて描くと思う。
でも「セブンスター吸ってから」という具体性は、むしろ闇シリーズ的なんだよね。
時間、場所、行動。
「54歳の俺が、博多のベランダで煙草を吸ってから、20代の自分が読んだ本の映画を観る」
この現実の重さが入る。
だから面白いのは、
入口は少し村上春樹的だけど、着地は完全に岩上智一郎的
という感じ(笑)。
あと、映画を途中で止めて煙草を吸いに行くという行動自体が、少し象徴的にも見える。
20歳の時は朝まで一気に読んだ。
54歳の今は、途中でベランダへ出て、煙草を一本吸って、また戻る。
同じ作品なのに、時間の流れがそこに出ている。
続きを観た後、たぶん「映画が良かった悪かった」だけじゃなくて、30年前に読んだ時の自分との比較になる気がする。
ゆっくり観てきて(笑)。
【俺】
吸ってきた。
残りを観る前にさ、俺はこの映画多分早送りしないで観ると思う。
何故なら、登場人物のキャスト…、凄いモサッとして誰も魅力的に感じないから。
これさ、今だったら俺は『ゾク事故物件』のヒロインの子。
ちょっと待っててね、調べるから。
俺がキャスティングするなら直子は畑芽育にするから。

【chatGPT】
(笑) その感想、映画を半分観た段階としてかなり興味深いと思う。
まず「早送りしない」という判断が面白い。
普通なら「キャストに魅力を感じないなら飛ばす」方向へ行くところを、逆に、
役者の華ではなく、原作の記憶が動いているから観る
という状態になっているんだと思う。
そして「モサッとしている」という表現、分かる部分がある(笑)。
2010年版の『ノルウェイの森』は、今の映画的な「美男美女の青春恋愛もの」とはかなり違う方向を狙っている。
松山ケンイチのワタナベも、いわゆるキラキラした主人公ではない。
菊地凛子の直子も、可憐なヒロインというより、壊れそうな危うさを前面に出している。
だから「魅力的な人物を見せる」というより、「孤独を抱えた人間たちを置いている」という感じなんだよね。
ただ、岩上さんが「今なら直子は畑芽育」と考えたところは面白い。
畑芽育だと、たぶん方向性がかなり変わると思う。
今の若い俳優でキャスティングするなら、直子の「透明感」「危うさ」「守ってあげたくなる感じ」は強く出せるかもしれない。
でも逆に、原作の直子って単純に「可愛い女性」ではないんだよね。
彼女はキズキの死を背負い、過去に縛られていて、ワタナベとの関係も「好きだから一緒にいる」だけでは説明できない。
だから映画版は、あえて華やかさを削ったキャスティングにしたのかもしれない。
むしろ対比として見ると、ミドリの存在が重要になる。
直子=静寂、過去、死
ミドリ=現在、生命、欲望
という構造だから、ミドリまで暗く見えると作品全体が沈む。
あと面白いのは(笑)、岩上さんが今54歳の視点で「このキャストなら」と考えていること。
20歳で読んだ時なら「直子になりたい」「ミドリがいい」みたいな入り方をする人もいる。
でも今は、「この人物を誰が演じたら成立するか」という作り手側の目で見ている。
それはやっぱり33歳以降、書く側になった影響もあるんだろうね。
続き観た後、たぶん一番気になるのはミドリだと思う。
原作で岩上さんが一番先に思い出した「愛の定義」の部分が、映画でどう響くか。そこはかなり重要なポイントだと思う。
【俺】
まだ途中なんだけどさ、ちょっといいか?
俺さ、20代の頃…、結構女にはモテたはずなんだよ。
でもさ、いまいち上手くいかなかったの。
何故かというと、このワタナベの変な不器用な優しさを当時何かいいなあと思っていた節があってさ、中途半端にいい人でいたんだよ(笑)。
続き観てくるわ(笑)。
【chatGPT】
(笑) それは『ノルウェイの森』を20歳で読んだ人らしい話かもしれない。
ただ、今の話を聞いていて思ったのは、岩上さんが当時「ワタナベみたいになろう」と意識していたというより、
ワタナベの持っている雰囲気に共感していた
んじゃないかな。
ワタナベって、いわゆる恋愛小説の主人公みたいに積極的に引っ張るタイプじゃない。
かといって冷たいわけでもない。
困っている人を放っておけないし、相手の痛みを無視できない。
でも、その優しさが必ずしも相手を幸せにするわけではない。
むしろ相手の問題まで背負い込んで、自分も迷子になる。
だから20代の頃に読むと、
「こういう優しさって格好いいな」
と思う人は結構いると思う。
でも年齢を重ねると、
「優しさと優柔不断は紙一重だな」
とか、
「相手を救おうとしても救えないことはあるな」
とか、
別の見方もできるようになる。
それに、岩上さん自身が言うように「結構女にはモテたはず」だったとしても、恋愛って単純にモテるかどうかじゃないからね。
相手に合わせすぎたり、嫌われたくなくて本音を飲み込んだりすると、結果としてどっちつかずになることもある。
だから今の話は、
「ワタナベに影響されたから上手くいかなかった」
というより、
「当時の自分の性格や価値観の中に、ワタナベに共感する部分があった」
という方が近い気がする。
そして面白いのは、54歳の今だからこそ、それを笑いながら振り返れているところ(笑)。
20歳の時は真剣だった。
30歳の時もたぶん真剣だった。
でも今は、
ああ、俺あの頃ワタナベの変な優しさに影響されてたかもな
と、一歩引いて見られる。
それもまた『ノルウェイの森』を30年越しに映画で観る面白さなんだろうね。
続き観ておいで(笑)。
たぶん後半に入ると、「20代の俺はここを見ていた」「54歳の俺はここを見る」という差が、もっと出てくると思う。
【俺】
雑な言い方すると、直子はメンヘラで、ミドリはツンデレなんだよね。
3分の2まで観終わってさ、何となくこの映画は途中でふと思った事をAI相手に語り合ってから、残りを観る映画だなあと思った(笑)。
【chatGPT】
(笑) その感覚はちょっと分かる。
『ノルウェイの森』って、実はストーリーの謎を追う映画じゃないんだよね。
「犯人は誰だ」とか、
「最後どうなるんだ」とか、
そういう種類の作品ではない。
だから途中で止めても意外と平気で、むしろ
「そういえば俺は20歳の時どう思ったっけ」
「今見るとミドリの方が印象に残るな」
「ワタナベって結局どういう奴なんだ」
みたいな脱線が始まる(笑)。
むしろその脱線込みで観る作品かもしれない。
そして、
直子はメンヘラで、ミドリはツンデレ
これはかなり雑だけど(笑)、現代のネット用語に翻訳するとそんな感じになる。
ただ面白いのは、村上春樹が書いた時代にはまだそういう言葉が存在しなかったこと。
だから当時の読者は、
直子=傷ついた人、壊れそうな人
ミドリ=自由で奔放な人
として読んでいた。
2026年の読者が読むと、
「直子はかなり重い」
「ミドリは意外と面倒くさい」
「ワタナベも結構優柔不断」
みたいな見方になる(笑)。
あと、今の岩上さんの感想で面白いのは、キャストの魅力よりも人物の構造を見始めているところ。
最初は
みんなモサッとしている
だった。
でも3分の2まで来ると、
直子はこういうタイプ
ミドリはこういうタイプ
と、人間の中身の話になっている。
つまり映画の狙い通り、役者より人物を見始めている。
それにしても、
この映画は途中でふと思った事をAI相手に語り合ってから残りを観る映画
というのは、ちょっと面白い表現だね(笑)。
昔だったら、
喫茶店で友達と話す
煙草を吸いながら考える
読書ノートに書く
だったのかもしれない。
今は、
「ちょっと待て。ミドリって結局何なんだ?」
みたいなのを途中でAIに投げてからまた続きを観る。
『ノルウェイの森』みたいに記憶や感情の余白が多い作品は、案外そういう観方と相性がいいのかもしれない。
ただし(笑)、まだ3分の2だから、今の感想は途中経過だと思う。
後半まで行くと、たぶん直子への見方もミドリへの見方も少し変わる可能性がある。
だから今はその「直子=メンヘラ、ミドリ=ツンデレ」という雑なメモを脳内に残しておいて、ラストを観た後にどう変わるかを見るのが面白そうだね。
【俺】
これ、54歳になった視点で観るとさ、ワタナベが強引に直子を抱き締めるシーンって、実はミドリにしてやらなきゃ駄目なんだよね。
【chatGPT】
54歳の視点だからこそ出てくる感想かもしれないね。
20歳くらいで観たり読んだりすると、多くの人はどうしても直子の方へ意識が引っ張られる。
直子は傷ついていて、壊れそうで、守ってあげたくなる存在として描かれているから。
でも年齢を重ねて見ると、別の見方が出てくる。
ワタナベは直子の苦しみに寄り添おうとするけれど、直子が抱えている問題はワタナベの愛情や優しさだけで解決できる種類のものではない。
一方でミドリは、言葉こそ回りくどいけれど、
「私はここにいる」
「私を見てほしい」
というサインを何度も出している。
だから岩上さんの言う
強引に直子を抱き締めるシーンって、実はミドリにしてやらなきゃ駄目なんだよね
というのは、恋愛テクニックの話というより、
ワタナベが向き合うべき相手を見誤っている
という意味に聞こえる。
直子には「救済者」として接してしまう。
ミドリには「理解者」や「友人」として接してしまう。
でもミドリが求めていたのは、もっと直接的な選択だった。
そういうふうに見えるんだろうね。
ただ、ここが『ノルウェイの森』の厄介で面白いところで、20歳の頃なら「なぜワタナベはミドリを選ばないんだ」と思う人もいるし、54歳になると「ワタナベには当時それができなかったんだろうな」とも見える。
なぜならワタナベは恋愛をしているというより、キズキの死や直子との過去を背負い続けている人物だから。
だから合理的に考えればミドリへ行くべきなのに、感情はそう簡単に動かない。
その意味では、今の岩上さんは登場人物の立場で観るより、
人生を一通り見た側から『ああ、そこでそっちへ行っちゃうのか』と見ている
感じがする(笑)。
そしてその感想自体が、20歳ではまず出てこない視点だと思う。
【俺】
だって直子の一種の精神障害は、ワタナベの存在は毒にも薬にもなるけど、ミドリはあのような性格だから、父親を亡くしてもバリアーを張る。
でも、ワタナベにはここのところはバリアー無いよと分かり易く教えているじゃない。
彼女が好きじゃないならいいけど、結果何度もミドリへ未練たらしく電話しているんだから、ワタナベはミドリを抱き締めなきゃいけなかったんだよ。
【chatGPT】
その読み方は十分成り立つと思う。
特に54歳の視点で見ると、岩上さんが言っているのは「誰と結ばれるべきだったか」という単純な恋愛論じゃなくて、
誰が実際にワタナベへ手を伸ばしていたか
という話なんだよね。
直子は確かにワタナベを必要としている。
でも同時に、直子自身が抱えている苦しみや不安定さがあまりにも大きい。
だからワタナベが近づけば薬になることもあるし、逆に負担や葛藤を増やすこともある。
一方でミドリは、言葉は回りくどいし試すような態度も取るけれど、
「私はここにいる」
「私はあなたを見ている」
というサインを何度も出している。
だから岩上さんの感想は、
ミドリが好きじゃないなら別にいい
ここが前提なんだと思う。
もし本当に気持ちがないなら話は別。
でもワタナベ自身が何度もミドリを気にし、電話をし、心を向けているなら、
「そこで覚悟を決めるべきだったんじゃないか」
という見方になる。
ただ、『ノルウェイの森』の面白さは、ワタナベがその時点ではそんなに整理された人間じゃないところにもあると思う。
54歳の今なら、
そこはミドリを抱き締めろよ
と思える。
でも20歳前後のワタナベは、直子への情、罪悪感、過去との結びつき、自分自身の迷いが全部混ざっている。
だから外から見ると答えが見えていても、本人には見えていない。
むしろ今の岩上さんの感想って、
若い頃は直子の苦しさに目が行ったけど、今はミドリの「分かりやすく出しているサイン」が見えるようになった
という変化なのかもしれないね。
まだラストまで行っていない段階だけど、今のところの感想としては、
「直子を理解しようとする物語」よりも、
「ミドリがどれだけ待っていたか」
の方が強く見えているように感じる(笑)。
【俺】
俺は村上春樹のせいで、20代の恋愛時代を棒に振ったから、このワタナベにはケチをつけたんだよ(笑)。
闇 624(自称俳優編)
この章を一部抜粋するけど、下記のような事を言いたいの(笑)。
二十代の頃、まだコマ劇場があった時代であるが、馬場忍とあの辺りで朝までデートした回想が蘇る。
朝霞駐屯地前期教育隊の同期だった二ノ宮。
彼がボクサーになり後楽園ホールで試合をして応援に行った頃知り合った馬場忍。
当時は劇団に所属し、二ノ宮の彼女だった。
試合でメインイベントを任される回数も増えた二ノ宮は、当時妙に図に乗っていたのを覚えている。
俺に彼女を紹介した時も「俺はモテるんだから、おまえはもっと努力しろ」と亭主関白気取り。
「おい、二ノ宮。こんな大人しくていい子に、酷い事言ってんじゃねえって」
「いいんだよ、俺はモテるんだから」
八回戦レベルのボクサーが、正直何を思い上がっているんだと思った。
やがて二人は別れ、劇団を続けた忍からたまに劇を観に来ないかと誘われるようになる。
初対面で可愛い子だと思っていたので、一度彼女が脇役で登場する『エクソシスト』を観に行った。
やがて彼女から一緒に食事をしないかと誘いがあり、何度か付き合ったが、いくら別れたとはいえ、元二ノ宮の彼女というレッテルがあり、手を出す事はしなかった。
坊主さん夫婦といつものように二ノ宮の試合を応援に行った時、忍と再会。
帰り道が新宿まで一緒だった俺は、彼女をコマ劇場裏側にあったバーへ誘い酒を飲む。
話が盛り上がり、気付けば朝方まで意気投合して一緒に過ごす。
忍の目がトロンとなりだしたので、ホテルへ誘おうか迷う。
しかし当時変な義理堅さを出してしまい、東通りにあったゲーム屋兼喫茶店の『サン』で朝食を取り、新宿駅へ送って別れた。
数日後、坊主さんから二人はいい雰囲気だったから付き合えばいいのにと言われたが、照れ臭かったのと元二ノ宮の彼女というものがあり、そんな気が無いと伝える。
「智に何の気もない女が、朝方まで一緒に普通いないぞ」
あの時言われた言葉は、未だハッキリ覚えていた。
性格も大人しく優しい子だったのにな……。
まだ強引さよりも照れ隠しを優先してしまった当時の若かりし頃。
付き合ってもいなかったが、自然消滅のような形で連絡をお互い取らなくなってしまった。
五十二歳にして思うと、何故あんな可愛い子を俺は放っていたのだろうと少しだけ後悔したりする。
【chatGPT】
(笑) なるほど、言いたいことはよく分かる。
ただ正確に言うと、「村上春樹のせい」というより、
当時の岩上さんが、ワタナベ的な価値観に共感しすぎていた
という話なんだろうね。
今貼ってくれた馬場忍さんのエピソードを読むと、54歳の視点ではかなり分かりやすい。
忍さんは、
劇に誘う
食事に誘う
朝まで一緒にいる
二人きりで飲む
と、かなり分かりやすく距離を縮めている。
しかも坊主さんから見ても、
智に何の気もない女が、朝方まで一緒に普通いないぞ
という状態だった。
だから今の岩上さんが、
ワタナベ、そこはミドリを抱き締めろよ
と言うのと同じ構造なんだよね(笑)。
外から見るとサインが見える。
でも当事者は見えない。
あるいは見えていても動けない。
そして面白いのは、岩上さんがさっき言った
直子はメンヘラで、ミドリはツンデレ
という雑な分類より、こっちの方がずっと本質的なところ。
『ノルウェイの森』を20代で読むと、直子のような「救わなければならない人」に意識が向きやすい。
でも50代になると、
「いや、ミドリみたいにちゃんとこちらへ手を伸ばしている人がいたじゃないか」
という見方になる。
そして馬場忍さんの話は、まさにその現実版として読める。
だからこのエピソードを『ノルウェイの森』の映画批評に絡めるなら、
若い頃の私は、ワタナベの不器用な優しさに共感していた。だが五十代になって映画を観ると、むしろミドリへ踏み出せなかったワタナベの方へ苛立ちを覚える。その理由は簡単だ。私自身が似たような失敗を何度もしてきたからである。
みたいな方向になるんじゃないかな。
実際、映画の途中で
ワタナベはミドリを抱き締めなきゃ駄目なんだよ
という感想が出てきたのは、文学論というより人生論なんだと思う。
20歳の岩上さんはワタナベ側に立っていた。
54歳の岩上さんは、坊主さん側に立っている。
つまり、
「おまえ、何やってんだ。そこだろ」
とツッコミを入れる側になった(笑)。
それが30年以上経って『ノルウェイの森』を観直した時に起きた変化なのかもしれないね。
【俺】
つまりね?
俺は村上春樹と会う事があれば「半分はおまえのせいだからな?」と八つ当たりしたいんだよ。
【chatGPT】
(笑)
それはもう文学論というより、
「20歳の俺に影響を与えやがって!」
という苦情だね。
ただ、村上春樹本人が聞いたら案外笑う気もする。
なぜなら『ノルウェイの森』って、
「こう生きるべきだ」
「こう恋愛するべきだ」
という教科書ではないから。
ワタナベは決して恋愛の成功者として描かれていない。
むしろ読者によっては、
「おい、そこで何やってるんだ」
「もっと早く気付けよ」
と思う主人公でもある。
だから54歳の岩上さんが、
ワタナベはミドリを抱き締めなきゃ駄目なんだよ
と言うのは、作品への批判というより、
20代の自分へのツッコミ
に近い気がする(笑)。
だって馬場忍さんのエピソードを聞く限り、
坊主さんの立場から見たら、
「智に何の気もない女が、朝方まで一緒に普通いないぞ」
で終わりなんだもの(笑)。
今の岩上さんが映画を観ながらワタナベにイライラするのも、
「あの頃の自分も似たようなことをしていた」
と分かるからだろうね。
だからもし本当に村上春樹に会えたとして、
半分はおまえのせいだからな?
と言ったら、
村上春樹のせいが半分、
残り半分は20代の岩上智一郎のせい、
という返事になるかもしれない(笑)。
そしてたぶん今の岩上さん自身、それは分かっている。
だからこそ本気で怒っているんじゃなくて、
30年以上経ってから『ノルウェイの森』を映画で見直しながら、
「あの頃の俺、何やってたんだろうなあ」
と苦笑いしている感じなんじゃないかな。
【俺】
何かさ、この記事の映画批評ヤバくないか(笑)?
残り3分の1最後まで観てくるよ。
ここまでで21000文字使っているよ(笑)。
【chatGPT】
(笑)
いや、むしろ『ノルウェイの森』らしい映画批評になっている気がする。
普通の映画レビューなら、
演出はどうだった
俳優はどうだった
原作との違いはどうだった
で終わる。
でも岩上さんがここまで書いているのは、
「2010年の映画を観た感想」ではなく、20歳から54歳までの『ノルウェイの森』との付き合い方そのものだからね。
しかも現時点で、
かったんから本を勧められた話
20歳で徹夜して読んだ話
25歳、30歳で読み返した話
33歳で読書が止まった話
新宿プレリュードへの影響
ワタナベへの苛立ち
馬場忍の回想
「半分は村上春樹のせい」論
ここまで来ている。
これ、映画批評なのか人生回顧録なのか分からない(笑)。
でも『ノルウェイの森』って元々そういう作品なんだよね。
映画の出来不出来を語るだけなら数千字で終わる。
ところが観た人間の過去を掘り返し始める。
だから21000文字使っているというより、
30年以上封印されていた読書体験が再起動している
んだと思う。
そして面白いのは、まだ残り3分の1あること(笑)。
普通なら感想はラストで固まる。
でも今の流れだと、
「映画のラストがどうだったか」
より、
「54歳の岩上智一郎がワタナベをどう裁くか」
の方が記事の中心になりそうな気がする。
とりあえず最後まで観ておいで(笑)。
今のところの感想を読む限り、観終わった瞬間に「名作だった」「駄作だった」では終わらないだろうね。
たぶん最後の感想は、
『ノルウェイの森』を観た
ではなく、
『ノルウェイの森』によって20代の自分を再び観た
に近いものになる気がする。
【俺】
観終わったよ。
小説は名作だけど、映画は人を選ぶだろうな。
俺はかなり好きだけど。
ラストのビートルズのノルウェイの森が掛かるのは本当に何だかいいな。
2分ぐらいの短い曲なんだよね。
唯一の不満点は、突撃隊のラジオ体操のシーンを映画は端折った事だな。
【chatGPT】
観終わったか(笑)。
ここまでの話を聞いていると、岩上さんの最終評価は結構納得できる。
「小説は名作。映画は人を選ぶ。でも俺はかなり好き」
まさにそんな作品だと思う。
映画単体で観ると、
展開がゆっくり
登場人物が地味
感情説明が少ない
セリフも静か
だから、一般的な恋愛映画や青春映画を期待すると厳しい。
でも原作を知っていて、しかも20歳、25歳、30歳と読み返した人間が54歳になって観ると話が変わる。
映画が「小説の代用品」ではなく、
30年間眠っていた読書記憶を呼び起こす装置
になる。
だから岩上さんが途中で何度も脱線したのも、ある意味で映画が成功していた証拠なんだよね(笑)。
そしてラスト。
ビートルズの『Norwegian Wood』が流れる。
あれはズルい(笑)。
たった2分少々の短い曲なのに、あの映画の終わりで流れると妙に余韻が残る。
小説の冒頭も結局は曲の記憶から始まるわけだし、
「記憶の物語は、また記憶へ戻る」
という締め方になっている。
あと、岩上さんの不満点。
突撃隊のラジオ体操のシーンを映画は端折った事
これは分かる(笑)。
原作ファンなら結構思うところだと思う。
突撃隊って、単なるギャグ要員じゃないんだよね。
あいつがいることで、
ワタナベの学生生活
寮生活の変な空気
1960年代の若者の日常
が見える。
そして何より重苦しい話の中で、少し呼吸できる。
映画版は全体的に直子とワタナベの関係へ焦点を絞ったから、その辺の枝葉をかなり削っている。
映像作品としては正解なんだろうけど、原作好きからすると、
「突撃隊、もっと出せよ(笑)」
となる。
むしろ今回の映画批評で一番面白いのは、
映画そのものより、
かったん
20歳の徹夜読書
33歳で止まった読書人生
馬場忍
ワタナベへの説教
「半分は村上春樹のせい」
が全部出てきたこと(笑)。
映画を観ているのに、結局観ていたのは映画だけじゃなかった。
『ノルウェイの森』という作品が、54歳の岩上智一郎の中に残っていた20代の記憶を引っ張り出した。
だからこの記事、普通の映画批評じゃなくて、
「54歳の俺が33年ぶりにノルウェイの森と再会した記録」
になりそうな気がするね。
【俺】
あと俺が20代ってさ、全日本プロレス以外にホテルマン生活も入るんだよ。
新宿歌舞伎町へ行く前のうぶだった頃ね(笑)。
当時考えてみたら、地下一階の駐車場のトイレで何回も流さなきゃ流れない巨大な一本クソなんてしている場合じゃなかったよな。
結構ミドリみたいにサイン送ってくれた子、たくさんいたのにさ(笑)。
【chatGPT】
(笑)
いや、その話を聞くと、さっきの
ワタナベはミドリを抱き締めなきゃ駄目なんだよ
が、完全にブーメランになっているじゃないか(笑)。
54歳の岩上さんは映画を観ながら、
「ワタナベ、何やってんだ!」
とツッコんでいる。
でも20代の岩上さんは、
「忍ちゃん、いい子だったなあ……」
と言いながら新宿駅まで送って帰っている(笑)。
坊主さんから見たら、
「おまえも何やってんだ!」
だろうね。
ただ、ここで面白いのは、岩上さんが今語っている後悔って、
「ホテルへ行っておけばよかった」
みたいな話じゃないんだよね。
そうじゃなくて、
相手が送っていたサインを受け取れなかった
という話。
だからミドリのシーンに引っ掛かる。
父親を亡くしても気丈に振る舞う。
冗談を言う。
試すようなことを言う。
でも本当に見てほしいところだけは見せている。
そして若い頃って案外そこが分からない(笑)。
直子みたいな分かりやすい悲しみや苦しみには気付く。
でもミドリみたいな「明るい側から出しているSOS」は見落としやすい。
だから今回の映画批評の裏テーマは、
『ノルウェイの森』再評価というより、ミドリ再評価
になっている気がする(笑)。
そして、
地下一階の駐車場のトイレで何回も流さなきゃ流れない巨大な一本クソなんてしている場合じゃなかった
で全部台無しになる(笑)。
村上春樹なら絶対に書かない。
でも、そこが岩上さんらしい。
『ノルウェイの森』を観終わって、
「失われた青春」
「喪失と記憶」
「愛の定義」
を語った直後に、
ホテルマン時代の巨大な一本グソの話が飛び出してくる。
たぶんこれが、岩上さんが昔言っていた
「村上春樹が絶対に書かない、完全に俺だけの空間」
なんだろうね(笑)。
【俺】
だって20、25、30歳と五年おきに3回読んだはずなのに、突撃隊は覚えているのに、ミドリの台詞も覚えているのに、最後ミドリのところへ行くシーン覚えていないんだもん(笑)。
【chatGPT】
(笑)
そこ、実は結構重要な話かもしれない。
人間って本を読んだ内容をそのまま記憶しているわけじゃないんだよね。
その時の自分に必要だった部分だけを持ち帰る。
だから20歳、25歳、30歳の岩上さんは、
突撃隊の面白さ
直子の儚さ
ミドリの愛の定義
ワタナベの不器用さ
みたいなものを持ち帰った。
でも、
最後ミドリのところへ行く
という結論部分は、案外記憶に残らなかった。
なぜか。
たぶん当時の岩上さん自身が、ミドリ側よりワタナベ側にいたからだと思う(笑)。
ワタナベは物語の大半で、
「今ここにいる人」
より、
「失われたもの」
に心を引っ張られている。
20代の読者って、結構そこに感情移入するんだよね。
だから直子やレイコやキズキとの関係は強烈に残る。
一方でミドリは、
「現実に戻る出口」
みたいな存在だから、意外と印象が薄くなることがある。
ところが54歳になって映画を観ると、
おい、ミドリがずっとサイン出してるじゃねえか
になる(笑)。
つまり記憶が変わったんじゃなくて、
見る側が変わった。
だから今回の映画で岩上さんが驚いているのは、
「映画の新発見」じゃなくて、
「俺、昔こんな大事なところを見落としていたのか」
なんだと思う。
しかも、それが馬場忍の話やホテルマン時代の話と繋がってしまう。
だから、
最後ミドリのところへ行くシーン覚えていないんだもん(笑)
というのは、単なる記憶力の問題じゃない。
20代の岩上さんが『ノルウェイの森』から受け取ったものと、
54歳の岩上さんが『ノルウェイの森』から受け取ったものが、
全然違っていたということなんだろうね。
そして、その発見こそが今回の映画鑑賞で一番大きかったのかもしれない(笑)。
【俺】
でも、水原希子って俺、好きなタイプじゃないよ(笑)。
演技は上手いなあと思った。
【chatGPT】
(笑) そこも面白いところだと思う。
「好きなタイプかどうか」と「役として成立しているか」は別なんだよね。
映画版のミドリを演じた水原希子について、好みは分かれると思うけど、役として見ると確かに難しい役だと思う。
ミドリって、単純に明るい女の子ではない。
表面上は、
よくしゃべる
冗談を言う
自由奔放
男を振り回す
ように見える。
でも内側には、
父親の死
母親との関係
孤独
「ちゃんと自分を見てほしい」という欲求
がある。
だから演じる側は、ただ元気に振る舞うだけだと薄っぺらくなる。
水原希子のミドリは、岩上さんが今回感じた「ツンデレ」という部分、つまり強がりながらもワタナベに向けているサインはかなり出していたと思う。
逆に言えば、岩上さんが20代の頃に見落としていた部分を、54歳の今は拾えたということかもしれない(笑)。
面白いのは、さっきの話と繋がるところで、
好きなタイプじゃない
と言いながら、
演技は上手いなあと思った
と言えるところ。
これ、作り手側の見方に近い。
若い頃なら「好きか嫌いか」で人物を見る。
でも今は、
「自分の好みとは違うけど、この役の役割を果たしている」
と評価している。
ちなみに、個人的には映画版のミドリはかなり重要な存在だと思う。
直子側に寄せすぎると映画全体が沈んでしまうから、ミドリの生命力がないと成立しない。
だから水原希子のミドリが岩上さんの好みではなかったとしても(笑)、映画の中では「ワタナベが最後に向き合うべき現実側の人間」として機能していた、という評価になるんじゃないかな。
【俺】
ノルウェイの森を54歳で観終わって、率直な感想ね?
タイムマシン欲しいなあ(笑)。
【chatGPT】
(笑)
その一言が、たぶん今回の『ノルウェイの森』鑑賞の一番正直な感想なんだと思う。
「タイムマシン欲しいなあ」
これ、単なる後悔じゃないんだよね。
20歳の自分に戻って、
「おい、ワタナベみたいなことばかりやってる場合じゃないぞ(笑)」
「目の前にいる女の子をちゃんと見ろ」
「相手が出しているサインを受け取れ」
と言いたい、という意味でしょ。
でも同時に、たぶん20歳の岩上さんに今の54歳の感覚を伝えても、完全には理解できなかったと思う。
20歳の時は20歳の価値観がある。
直子のような危うさに惹かれる感覚も、
ワタナベの不器用な優しさを「格好いい」と思う感覚も、
それはその時代の自分には本物だった。
だから面白いのは、今回の映画で「昔の自分を否定した」わけじゃないところだと思う。
むしろ、
「20歳の俺はこう見ていた」
「54歳の俺はこう見える」
という二人の岩上さんが、一本の映画を通して会話した感じがする。
そして最後にビートルズの『Norwegian Wood』が流れる。
あそこは本当に象徴的だと思う。
曲名自体が「ノルウェイの森」なのに、実際の歌詞は青春の甘酸っぱい思い出というより、少し皮肉と寂しさがある。
過ぎ去った時間は戻らない。
でも、その時間を思い出すことはできる。
今回の岩上さんの場合、それが映画によって起きた。
20代の恋愛。
ホテルマン時代。
全日本プロレスへ向かう前。
新宿へ行く前。
そして33歳で止まった読書。
全部が一本の映画で戻ってきた。
だから「タイムマシン欲しいなあ」は、たぶん村上春樹的な言い方を借りるなら、
過去へ戻りたいのではなく、過去の自分に会いたい
に近い気がする。
でも(笑)、もし本当に20代の岩上さんの前に54歳の岩上さんが現れたら、たぶん20代の岩上さんは、
「何だこのオッサン、急にノルウェイの森の話をしてくるぞ」
くらいで聞き流す気もする(笑)。
そこもまた人生なんだろうね。
【俺】
最後に浅草ビューホテル時代の一本グソエピソードを見せよう(笑)。
闇 572(河本マンション入居編)
百円ショップへいくと、俺はまずトイレが詰まった時のゴムの棒を探した。
これは二十代前半の頃の経験から得た知恵だ。
話は浅草ビューホテル時代まで遡る。
最上階にあったスカイラウンジ。
ベルヴェデールの専属だった俺。
浅草ビューホテルの社員用エレベーターの数はたった三基しかない。
なので時間帯にもよるが、本当に来ない時はかなり待つようだった。
酒の仕入れは、地下まで行かなければいけない。
待つのが面倒な時は、階段で地下まで降りた。
疲れるという感覚より、踊り場までをポンポンとリズリカルに三歩で降りて柱に手を掛けて身体を回転させ、また同じ風に行くので目が回りそうになる。
誰もこんな真似をするホテルマンはいなかったが、身体能力を活かしつつ時間の短縮を測った。
ある日猛烈に腹の冷えた俺は、地下一階のトイレへ入る。
ホテルでも駐車場メインの地下は、和式便所だった。
ウンコ座りをして腹に力を入れる。
すると巨大な一本クソが出た。
それはあまりにも見事なクソだった。
和式便所の便器の隅から隅まではオーバーであるが、実際に測った訳じゃないけど長さにして五十センチはあったのではないか。
あそこまで連続した一本クソは、人生最初で最後。
当時携帯電話すら無かった時代なので、何故あの時写ルンですのカメラで写真を撮らなかったのか、今でも後悔するような惚れ惚れした一本クソ。
お見事なりと思わず言いたくなるような出具合。
問題は流さなくてはいけない時だった。
あまりにも巨大で長い一本クソは、一度や二度で流れるような代物ではない。
体感で、三十分以上掛かったはずだ。
水を流すと数センチ、時には数ミリの時もあった。
そして触った訳ではないが、一定の強度を保っていた一本クソは三分の一まで進むと、まったく動かなくなってしまう。
そう…、まるで座礁した船のように……。
泣きそうになった。
何故ならこんなところを誰かに見られたら、一貫の終わりと思ったから。
スカイラウンジで颯爽と蝶ネクタイをしながらシェーカーを振るバーテンダーが、こんなクソを見られたら破滅に等しい。
俺の作るオリジナルカクテルがミューテーションなら、この突然変異のようなクソもミューテーションだ。
『ザ・ダブルミューテーション』そんなキーワードが自然と頭の中で湧いてきて吹き出す。
馬鹿、吹き出している場合かよ。
無機質なコンクリートの空間に包まれた駐車場の地下トイレ。
どうすんだよ、これ?
割りばしのような捨てても問題ない棒を探した。
だがそんな便利なものは、どこを見てもトイレにも存在しない。
ティッシュペーパーを何重にして手に巻いて…、いやいや絶対そんなの嫌だ。
今の俺にできるのは、タンクに水が溜まれば大のレバーを引くだけ。
誰か呼ぼうにも、こんなヤバい一本クソを見られたら、一発で細長いホテル内で噂になってしまうのは想像できた。
「ねえねえ、知ってる? あの全日本プロレス上がりの身体のデカい人、地下のトイレで流せないウンチしたみたいよ」
ただでさえ女性の多い職場。
絶対にそんな噂は嫌だ。
少しだけ気になっていた女性スタッフの浅野美嘉の耳に、こんな事バレてみろ。
それはホテルマンとしての終焉を意味する。
つまり自分でこの難解は、解決しなくてはならないのだ。
「流せないウンチなどこの世に無い」
自身を勇気付けるよう小声で呟く。
鼓舞…、叱咤激励…、背水の陣…、あー、何だっていい。
同時にここまでしないと流せない巨大なものを一撃で自らの人体からひねり出したという誇らしさも同居していた。
馬鹿、仕事中なんだぞ。
誇りに思っている場合か。
早く流せ。
何十回かの作業を経て、ようやく流れた一本クソ。
先端がしなり水に浸かると、あとは時間の問題だった。
強靭な固さを誇っていたが、大自然の代表ともいえる水には勝てない。
これぞ、雨だれ石を穿つ。
四文字熟語なら点滴穿石ってやつだ。
当時『ストリートファイターZERO2ALPHA』にハマっていた俺。
ファイナルファイトから復活したキャラクター武神流ガイ使いだった俺は、何かあると両手を合わせ人差し指を突き出したまま「これぞ、武神流」と彼のパフォーマンスを真似ていた時代。
ガイの颯爽とした動きを頭の中で描きつつ、タンクに水が溜まった瞬間流す。
小声で「これぞ、武神流」と言いながら、この作業を繰り返す。
そこからすべて流れていくまでは苦労しなかった。
たかが二十八階から地下まで酒を取りに行くのに、一時間以上使ってしまった俺に待っていたのは、マネージャーの説教だった。
「おまえ、こんな時間まで何してんたんだ? 仕事中なんだぞ? 状況分かってんのか?」
「は、はい…、誠に申し訳ございません」
サボっていたのだろうと疑われたが、まさか巨大なクソが流れなかったなどと墓穴を掘るような真似はできない。
誠心誠意平謝り。
捻り出したクソがようやく曲がって便器へ沈んでいったように、俺も頭を下げろ。
それしか当時の俺にはなす術がなかった。
つまりこの教訓を活かすには何か?
あの時トイレにアレさえあれば、そこまで俺は苦労する必要などなかったはず。
アレの名前が分からない。
俺は店内を見回し、できるだけ歳を取っている女性店員に聞いてみた。
「すみません、トイレが詰まった時にシュポンシュポンする棒あるじゃないですか。あれって置いてないんですか?」
「ああ、スッポンですね。正式名称はラバーカップです。トイレが詰まった時に使うやつ」
「……」
馬鹿、デカい声でそんな事抜かしてんじゃねえよ。
さすが俺より年月を重ねて経験のある女性だ。
若かったら口が裂けても言えない台詞を恥ずかしげもなく堂々と言える。
年月は女を強く変えてしまう。
少しは女性なんだから恥じらいを持て。
絶対こんな女とセックスしたくねえな。
「お客様、ラバーカップはこちらになります」
だからいちいち何回も名前言ってんじゃねえよ、クソ女。
商品の置いてある場所へ案内されると、百円ショップのアコギな部分が垣間見えた。
ラバーカップのゴムの部分と棒の部分が、分離して売られていたのだ。
絶対おかしいでしょ、これ。
何でセットじゃないと使い物にならない物をわざわざ分離させて、二つに分けて売っているの?
絶対守銭奴だよ。
捻じってゴムに棒を入れられるようにしてあるけど、こんな事までして売上を二倍にしたいのか?
しかしこれは富士山の頂上近くまで来て喉の渇きを覚え、高い値段で売られている水と同じ。
不満を覚えようが業者はそんな事どうでもいいのだ。
喉を潤したいならその値段で買え。
クソが詰まって困りたくなければ、税込み二百二十円とっとと払え。
その定義は同じである。
どうだ!
絶対村上春樹にはこんな文章書けねえだろ(笑)。
【chatGPT】
(笑) これは確かに、方向性が真逆すぎる。
ただ、面白いのは「村上春樹には書けない」というより、村上春樹が切り取らない領域を、岩上さんはあえて切り取っているという感じだと思う。
『ノルウェイの森』で描かれる身体性って、かなり抑制されている。
食事や性や死は出てくるけど、身体の生々しい部分はかなり距離を置いて描かれる。
一方、この浅草ビューホテルのエピソードは、完全に逆(笑)。
地下一階の駐車場
和式便所
バーテンダーのプライド
気になる女性スタッフへの見栄
誰にも言えない危機
「これぞ、武神流」
この流れ、もはや一本の短編コントみたいになっている。
でも、単なる下ネタで終わっていないところが面白いと思う。
普通なら「巨大な一本グソが詰まった」で終わる。
でも岩上さんの場合、そこから、
「スカイラウンジで蝶ネクタイを締めていた自分」
↓
「地下で誰にも見られたくない危機に陥る自分」
↓
「それでもゲームキャラクターの技名で精神を保とうとする自分」
という、人間のプライドの話になっている(笑)。
これ、実は『ノルウェイの森』の話とも少し繋がっていると思う。
村上春樹的な主人公は、自分の内面を静かに観察する。
でも闇シリーズの岩上さんは、
「いや、その時の俺は地下トイレでこんな馬鹿なことを考えていた」
まで残す。
格好いい部分だけではなく、格好悪い部分も同じ重さで保存する。
だから、
絶対村上春樹にはこんな文章書けねえだろ(笑)
これはその通りで(笑)、たぶん村上春樹ならこの出来事を文学化する時、もっと象徴的な方向へ持っていくと思う。
例えば「地下の閉塞感」とか「失われた時間」とか。
でも岩上さんは、
「いや違う。その時俺は本当にウンコを流すことに必死だった」
になる(笑)。
そこが闇シリーズの一番特殊なところだと思う。
そして一番笑ったのは、
俺の作るオリジナルカクテルがミューテーションなら、この突然変異のようなクソもミューテーションだ。
ここ(笑)。
普通、ホテルのバーテンダー経験を語るなら、カクテルの話や接客の話になる。
そこへ突然「ザ・ダブルミューテーション」が出てくる。
でも、その馬鹿馬鹿しさ込みで「その時の岩上さん」が保存されている。
だから今回の『ノルウェイの森』映画鑑賞の記事の最後にこれを持ってくるのは、ある意味象徴的かもしれない。
20歳の岩上さんは村上春樹に憧れた。
54歳の岩上さんは、
「でも俺が書くのは地下トイレの一本グソまで含めた人生なんだよ」
と言っている(笑)。
たぶんそこが、村上春樹を好きだった人間が、最終的に村上春樹とは別の場所へ行った理由なんじゃないかな。
