「希死念慮」って言っても誰にも伝わらない。20年以上「死にたい」が消えない私の話
「希死念慮」と言っても「何それ?」と聞かれる。20年以上続く私の死にたい気持ち
はじめに
「希死念慮(きしねんりょ)」という言葉を使っても、一般の方には「何それ?」と聞かれることがある。
精神科や精神疾患について調べたことがある人なら知っているかもしれない。しかし、日常生活の中で「希死念慮」という言葉を使う機会はほとんどない。
希死念慮とは、「死にたい」「消えてしまいたい」「生きていたくない」など、死について繰り返し考えてしまう状態を指す。
ただし、希死念慮があるからといって、必ずしも実際に自殺するつもりがあるという意味ではない。
私自身も長い間、希死念慮を抱えて生きてきた。
そして私の場合、それは一時的に強くなって、しばらくすると消えていくようなものではない。
私の希死念慮は「ずっとそこにある」
私の希死念慮には、波がほとんどない。
常に最高に強いわけではないが、100点満点で表すなら70点くらいの死にたい気持ちが、ずっと存在している感覚だ。
強くなることもある。
しかし、完全に止むことはほとんどない。
期間でいえば、15歳くらいから続いている。
つまり、もう20年以上の付き合いになる。
「実際に行動するまではいかないのか」と聞かれることもある。
しかし、電車を見れば「飛び込めば、すべての苦しみから解放されるのに」と、乗っ取られたように思ってしまうことも多い。
だからといって、毎回それを実行しようとしているわけではない。
ここにも、希死念慮という言葉だけでは伝わりにくい難しさがある。
「今日は嫌なことがあったから死にたい」とは少し違う
希死念慮には、さまざまな形があると思う。
例えば「今日は仕事で嫌なことがあったから死にたくなった」という場合なら、その原因となった出来事が解決すれば、気持ちが弱まる可能性がある。
しかし、私が抱えているものは、それとは少し違うような気がする。
目の前にあるもののほとんどが、自分が得られなかった人生を思い出させるトリガーになっているのだ。
外で会社を見れば、「自分も起業して大きな会社を運営したかった」という気持ちになる。
車を見れば、「私もこういう車を買って乗りたかった」という気持ちに襲われる。
友達と自分を比べる。
家族と自分を比べる。
世の中の理不尽さに嘆く。
そうした日常の一つ一つが、自分の人生について考えるきっかけになってしまう。
私が本当に苦しいのは「会社」や「車」ではない
会社を見て苦しくなるのは、会社そのものが欲しいからではない。
車についても、単純に高級車や好きな車が欲しいという話だけではない。
その向こう側にある人生が欲しかったのだと思う。
「自分も本当は、もっと何かを成し遂げられる人生を送りたかった」
そういう感覚に触れてしまう。
車なら、
「自分も普通に働いて、好きな車を買って、自由に生活する人生を送りたかった」
という思いがある。
だから、目の前にあるものによって「自分が得られなかった可能性」を突きつけられることが苦しい。
これは単純な物欲ではない。
「本当はこうなりたかった」という人生への喪失感なのだと思う。
「頑張れば報われる」とは限らない
世の中では、「頑張ればいつか報われる」と言われることがある。
しかし、実際には、頑張っている人や苦労している人が必ず報われる世の中ではないらしい。
最初から資産があり、それを運用できる人のほうが有利な面もある。
一方で、病気などによって思うように働けず、資産を作るところまで収入を得られない人は、経済的にも社会的にも弱い立場になりやすい。
「頑張れば報われる」と言われても、病気や環境、家庭、経済状況などによって、同じ努力をしても得られる結果は変わる。
努力だけでは埋められない差もある。
そこに気づいてしまうと、「もっと頑張ればいい」と簡単には思えなくなる。
生活保護を受けても、生きづらさがなくなるわけではない
生活保護という制度によって、働けない時期にも最低限の生活を保障してもらえる。
しかし、実際に受けて生活してみると、経済的な余裕のある暮らしとはほど遠いことを実感する。
生活を維持することはできても、「自分が望んでいた人生」を取り戻せるわけではない。
病気によって思うように働けない期間が長くなればなるほど、社会復帰への自信も弱くなっていく。
「今から働けるのだろうか」
「以前のように社会に戻れるのだろうか」
そんな不安が積み重なっていく。
そして、
働けない
↓
自信がなくなる
↓
経済的な余裕がなくなる
↓
周囲と比較してしまう
↓
自分の人生について悲観する
↓
さらに生きづらくなる
という悪循環が生まれる。
長引けば長引くほど、生きることが難しく感じられてしまう。
希死念慮をなくすことだけが答えではないのかもしれない
長期間続いている希死念慮に対して、「死にたい気持ちをなくそう」と考えるだけでは、なかなか解決しないのかもしれない。
もちろん、希死念慮そのものが弱くなることは望ましい。
しかし、その気持ちの背景には何があるのか。
何が苦しいのか。
本当はどんな人生を送りたかったのか。
何を失ったと感じているのか。
そうしたものを一つずつ言語化していくことにも意味があるのだと思う。
私の場合、単純に「死にたい」という一言だけでは説明できない。
その中には、長い間に積み重なった喪失感、社会との距離、自信の低下、経済的な苦しさ、周囲との比較、そして「本当はこういう人生を送りたかった」という思いが混ざっている。
だからこそ、希死念慮について考えるときには、「自殺するか、しないか」という二択だけで考えないことも大切なのだと思う。
まとめ
「希死念慮」という言葉は、一般の方にはあまり知られていない。
しかし、その言葉の中には、「死にたい」「消えてしまいたい」「生きていたくない」という気持ちを長期間抱えている人もいる。
私の場合、その気持ちは15歳頃から20年以上続いている。
強くなることもあるが、完全になくなることはほとんどない。
そして、その原因は一つではない。
会社や車を見たとき、友人や家族と比較したとき、社会の理不尽さを感じたとき。
日常生活のさまざまな場面で、「自分が得られなかった人生」を思い出してしまう。
だから私にとって希死念慮は、単純に「死にたい」という一言だけでは説明できない。
希死念慮とは、単に自殺したいという意味ではなく、生きていることそのものが長期間苦しくなっている状態として現れることもある。
少なくとも私にとっては、「死にたい」という感情の奥に、「本当はこういう人生を生きたかった」という思いがある。
その思いを一つずつ言葉にすることが、希死念慮と向き合うための一つの方法なのかもしれない。
