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効率化の先で「人と人をつなぐ力」は見えなくなるのかー過去に蓄積された「関係性」の消費と再生産ー

生成AIをはじめとするデジタルツールの活用によって、日々の業務は格段にスピードアップしました。
文章の作成、情報収集、データの整理・比較、思考の構造化。これまで1時間かかっていた作業が、10分や20分で完了することも珍しくありません。

私自身、こうした技術を取り入れた業務効率化には極めて肯定的です。過去のアナログな作業環境に戻る方がいいとは思っていません。

ただ、AIだけに限った話ではありませんが、仕事(本業)中にふと思う事がありました。

「効率化によって作業時間は確かに短縮されたけれど、削った時間は本当にすべて『無駄な時間』だったのだろうか」

例えば以前なら、業務で不明点があれば誰かに聞きに行っていました。他部署のデスクまで足を運び、「これ、分かりますか?」と尋ねる。本題を解決したあとに少し雑談を交わす。すると、「それなら◯◯さんの方が詳しいよ」と教えてもらい、次はそこへ足を運ぶ。

仕事の「生産性」という単一の指標だけで測れば、極めて非効率なプロセスです。検索やAIを使えば、数秒で答えにたどり着けるかもしれません。

ですが、かつてのアナログで泥臭い仕事の進め方の中には、業務の遂行と同時に重要な「副産物」が生まれていたのかも、と思うこともあります。

  • 「あの人はこの分野に明るい」という解像度

  • 「あの部署にはこういう人がいる」という組織内のリアルな関係図

  • 「この人なら気軽に相談できる」という心理的安全性の確保

仕事を前に進めるために人と接触し、その「非効率なプロセスの副産物」として、関係性が少しずつ蓄積されていたのです。

そんな観点から見ると、業務効率化やAI活用を評価する際、単に「何時間短縮できたか」を見るだけでは不十分になるのでは?という考え方も出てきます。
「その効率化の過程で、同時に何が削ぎ落とされ、何が作られなくなったのか」まで踏み込んで捉え直すことも必要だと思いました。

1. モータリゼーションという前例:生活行為に「束ねられていた機能」の解体

この問題の前例として、「モータリゼーションと商店街の変容」について考えてみます。

1970年頃から80年頃にかけて自動車が普及し、人々の生活圏は一気に広がりました。
徒歩や自転車で近所の商店街へ通う生活から、車で郊外の大型商業施設へ向かう生活への転換です。

一箇所で食料品も日用品も揃い、大量に持ち帰ることができるようになり、「買い物」という単一機能で見れば、圧倒的に合理的で便利になりました。

しかし、従来の商店街では「買い物」という一つの生活行為の中に、多様な社会機能が自然と束ねられてたことが、その後の研究で言われています。

  • 店主と客が繰り返し顔を合わせ、顔見知りになる(弱いつながり)

  • 世間話の中で、街の出来事を知る(地域情報の流通・雑談)

  • 子どもが、親や教師以外の地域の大人を知る(多世代の接点)

  • いつもの人が来なければ「どうしたのかな」と気にかける(自然な見守り)

  • 商店主同士が日常的に接触し、お祭りや防犯などで連携する(共同活動の人的基盤)

誰も「今日は社会関係資本を形成しよう」と意図して買い物に行っていたわけではありません。
「夕飯の材料や、日用品を商店街に行って買う」という日常行為のプロセスそのものが、関係性を生み出すインフラとして機能していたのです。

2. 機能の「分解」と「外部化」:全体として本当に効率化したのか

とは言え、モータリゼーションによって商店街が衰退したあとも、これらの機能は失われたままになったわけではありません。
それぞれ、別の制度やサービスに「分解」「再整理」されて補完されています。

  • 見守り = 行政・民生委員・民間事業者の見守り事業

  • 地域情報 = SNSや自治体Webサイト

  • 住民交流 = 交流イベントやコミュニティカフェ

  • 子どもの居場所 = 公民館活動や放課後支援団体

ただ、ここで見落としてはならないのは、「個々の機能が専門化して補完、再接続されたこと」と、「関係性を作っていたプロセスが補完されたこと」はイコールではないという点です。

かつては「買い物」という一つの行為で同時に生産されていた副次機能が、いまでは「見守り事業」「交流イベント」と個々に分かれた状態になっています。

その結果として、どんなことが変わったのかについて、想像を含めて整理します。

何よりも、それぞれの機能を維持するために、個別の予算、場所、専門スタッフ、そして参加者の時間が新たに必要になりました。
主な機能(買い物)は効率化されたものの、かつて内包されていた副次機能を維持するためのコストが社会の別の場所へ「外部化」されたのです。

部分最適を突き詰めた結果、社会全体として本当に効率化したのかは慎重に見極める必要があります。
例えば、月1回のイベントを企画しても、毎日同じ店先で顔を合わせ続けた「自然な関係形成のプロセス」をそのまま再現することは容易ではありません。

3. デジタル化が変えるのは「人を経由する必要性」そのもの

この構造は、現在のデジタル化やAIの浸透と深く重なります。

モータリゼーションが変えたのは、人々の「物理的な生活動線(どこへ行くか・誰と同じ場所にいるか)」でした。
一方、デジタル化やAIが変えようとしているのは、「そもそも目的達成のために人を経由する必要があるかどうか」そのものです。

  • 疑問がある: かつては詳しい人に尋ねていた ➡ システムやAIに尋ねる

  • 文章を推敲したい: かつては同僚に見せていた ➡ ツールに校正させる

  • アイデアが欲しい: かつてはブレスト相手を探していた ➡ AIと壁打ちする

テクノロジーは「人と出会わなくても目的を達成できる範囲」を劇的に広げます。

そして、「効率化で浮いた時間を、人との交流に回せばいい」という意見もあります。
ですが、そこには構造的な問題が潜んでいることも考える必要があると考えています。

例えば、以前は「仕事の時間」の中に関係づくりのプロセスが含まれていました。
その後、作業時間が大幅に短縮され、浮いた時間を作れるようになりましたが、浮いた時間を「別途、人間同士の関係づくりの時間」に充てようとすれば、「その時間やコストを誰が負担するのか」という問題が顕在化します。

企業がその余白に別のタスクを詰め込めば時間は残りません。
しかし、業務外で会おうとすれば、個人の私的時間や交際費を削ることになります。

つまり、これまで日常の中に自然と埋め込まれていた「関係形成コスト」が外部化され、個人の可処分時間や経済的余力に依存する形へとシフトしてしまうのです。

結果として、時間や金銭に余裕がある人しか関係性を築けなくなるという「関係資本形成の格差」すら生み出しかねません。

4. 最も関係を蓄積すべき世代が、最も人を経由しなくなる構造

さらに深刻なのは、世代間の関係資本の非対称性です。

私たちは今も、「あの部署なら◯◯さん」「あの人の紹介なら話を聞こう」という、過去に誰かが築いてくれた関係性のストックの上で仕事を動かしています。そして、関係資本には残高表示がありません。
新規の蓄積を行わず、既存のストックを消費(取り崩し)しているだけでも、しばらくは社会がスムーズに回ってしまうため、危機感が生じにくいのです。

特に懸念されるのは、若い世代が直面する環境です。

本来、キャリアの初期ほど「誰かに聞き、助けられ、顔を覚えてもらう」という反復を通じて、関係資本を積み上げる必要があります。
しかし、最も関係を蓄積すべき時期に、最も人を経由せずに完結できる技術を手にする。

  • 分からないからツールやAIに聞く

  • その場できれいに自己完結する

  • 過程で生まれるはずだった「偶発的な関係」が形成されない

このループが何百回、何千回と繰り返されたとき、人を介さずに目的を達成できる環境が当たり前になれば、人を介するプロセスは単なる「手間のかかる余分な手続き」に見えやすくなります。
その結果、後から意図的に人間関係を構築しようとしたとき、その心理的・時間的コストがこれまで以上に高くなる可能性があります。

5. 本当の怖さは「失われたこと自体が分からなくなる」こと

そして、関係性が減少すること以上に恐ろしいのは、「関係性が何を果たしていたのか」を理解できる人自体が社会から消えていくことだと思っています。

対面の、泥臭いやり取りを知る世代は「非効率に見える雑談が、巡り巡って大きな助けになった」という実感を持っています。
しかし、最初から最適化されたデジタル環境で育った世代にとっては、「なぜ直接検索やAIで調べないのか」「なぜわざわざ間を取り次ぐ必要があるのか」と、非効率の中に含まれている関係性の理解も難しくなるかもしれません。

経験したことがない機能の価値を認識できないのは、個人の感覚の問題ではなく、環境がもたらす構造的な帰結です。

  1. 関係形成の機会が減る

  2. 社会関係資本の蓄積が減る

  3. プロセスを体感する人が減る

  4. 「関係を編み直す力(取り次ぎ等)」の価値を理解できる人が減る

  5. 関係形成への投資や配慮がさらに削られる

この自己強化的な循環に入り込んだとき、私たちは「何を失ったのか」にすら気づけなくなってしまいます。

結びにかえて:後付けの交流ではなく、「副産物を生む構造」をどう設計するか

効率化ツールが自動的に作ってくれるのは、「余白に充てられる生産性の向上」であって、「豊かな関係性」そのものではありません。放っておけば、浮いた時間はまた別のタスクで埋め尽くされます。

だからといって、効率化で削られた関係形成を、すべて「交流会」や「対話の時間」として別途用意すればよいとも思いません。

商店街で生まれていた関係性は、交流することを目的に集まった結果ではありませんでした。買い物をする、店を開ける、街を歩く。そうした別の目的を持つ日常の中で、何度も顔を合わせ、少し話し、ときには誰かを紹介する。その積み重ねの副産物として生まれていました。

だとすれば、効率化の時代に考えるべきなのは、単に「浮いた時間を交流に使うこと」だけではありません。

個人の余力に左右されない、新しい仕事や生活のプロセスの中に、関係性が再び副産物として生まれる構造をどう埋め込むか。 

「あの人だから本音を話してくれる」 「あの人の紹介だから会ってみようと思う」 「あの人が間に入るなら、一緒にやってみようと思える」

こうした「取り次ぎ」や信頼関係は、ツールから即座に出力できるものではありません。長い時間をかけて人と接触し、互いを知り、ときには少しずつ引き受け合ってきた歴史の蓄積です。

  • ツールで代替できる作業は徹底して効率化する。

  • 同時に、その効率化によって何がプロセスから切り離されたのかを見つめる。

  • 必要なものについては、単に別の活動として後付けするだけでなく、日常の仕事や生活の中で再び生まれるように設計する。

  • そして、そのために必要な時間や費用を「個人の善意」だけに押しつけない。

私たちがこれから取り組むべきなのは、そうした「関係性の再生産」の設計なのだと思います。

さい子ども会は、子どもの頃から地域の人や場所と出会い、関わり、その関係が次の経験へつながっていくことを実感できる機会をつくっています。

それは、現在の地域に新しい関係性を生み出すだけでなく、子どもたちが将来、関係性の価値を実感をもって理解し、自ら新しい関係をつくっていける社会を残すための活動でもあると考えています。

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