『ちいかわ』化という生存戦略ーー「女子枠」批判について考えたこと
序章:X(旧Twitter)における「女子枠」批判
Xで大学の「女子枠」導入をめぐる議論が白熱している。
最近何かと話題の『みいちゃんと山田さん』になぞらえて、「みいちゃん枠」という強烈な蔑称まで誕生しているようだ。
この手の話は非常に扱いづらく、下手に触ると火傷をする。だが、だからこそいっそのこと『みいちゃんと山田さん』だけでなく、『ちいかわ』や『クレヨンしんちゃん』まで巻き込んで、少し遠くからこの現象を眺めてみたい。
反対派の主な言い分は、「学力水準に達していない者を女性だからという理由で合格させれば、本来受かるはずだった男子生徒が押し出され、社会全体の利益を損なう」という理屈だ。
しかし、よく考えてみたら実に奇妙な話である。なぜ目当ての大学に入学できない程度のことで、これほどまでに強烈な怒りと過剰な警戒心が向けられるのだろうか。単に大学程度の学問を修めたいのであれば、現代なら学ぶ場などいくらでもある。
この過剰反応の裏には、「ペーパーテストの結果」に対する単なる不公平感を超えた、もっと根深く、僕たちの生存に直結するような構造が存在しているのではないだろうか。
第1章:ファクトとしての「能力分布」と「測定可能な学力」の幻想
まずはファクトを整理しておこう。
統計学や心理学には、「男性の方が能力の分散が大きく(両極端に分布し)、女性は平均付近に集中する」という傾向(Greater Male Variability Hypothesis)が知られている。 実際、上位0.1%のような極値においては、男性の割合が高いというデータが存在する。
仮にそれが事実だとして、いくつかの疑問が浮かぶ。
問題となっている「女子枠」とは、大学の合格者数の話だったはずだ。 0.1%の人類トップを決める競技ではなく、学問や研究において「一定水準」の成果が期待できるかを判断する材料の一つがペーパーテストである。
もし、「現行の大学とは実質的に就職先に対する優秀さの証明書であり、その切符の配布は今後も18歳時点の知識量だけで決める体制が良い」という主張なのだとすれば、反対派の論理も理解はできる。
しかし、18歳のペーパーテストで人生のすべてが決まる社会といえば、中国や韓国の過酷な受験戦争が思い出されるが、日本ではそうした社会構造はどちらかといえば否定的に捉えられてきたはずだ。
アカデミズムの本分とは、「学問を研究し、能力や人間性を高めること」にあるはずだ。その目的に照らし合わせるなら、学問に向いている集団を18歳時点のペーパーテストの成績順だけで選ぶのは、そもそも最適解ではない。
そもそも、その後の研究や社会での活躍が、18歳の時にどれだけ暗記していたかだけで決まるわけがない。だから現代ではペーパーテスト以外の選抜も多く採用されている。
また、能力分布の数学的な解釈で言っても、上位数%〜十数%という合格圏の閾値で考えれば、女性と男性の該当数はほぼ同等に存在する。 2026年の日本の18歳人口は約109万人。その10%は10.9万人だ。旧帝大や上位私立大の定員を考慮しても、十分すぎるほどの層がそこにいることになる。
さらに言えば、「ペーパーテストの学力」は測定可能な能力のごく一部に過ぎない。
多くのスポーツにおいて筋力だけで勝敗が決まらないように、研究や実務でも特定のテストの点数が絶対の指標にはならない。一定水準の基礎学力さえあれば、あとは多様な視点、異なる特性、執着心や協調性といった要素が複合して成果を生む。 大学が多様性を求めるのは、弱者救済のためというより、イノベーションを起こすためのきわめて合理的な戦略だ。
第2章:なぜ人間はマウントをやめられないのか?——進化心理学と学力ナラティブ
では、なぜ僕たちは「ペーパーテストの数値」で人間の価値を決めることを、これほど当然のように信じ込んでしまうのだろうか。
その根底には、進化心理学的な「生存本能」があるのだと思う。
太古の狩猟採集時代、集団の中で「無能で役に立たない」と判断された個体は、食糧の分配から外され、追放された。それは実質的な「死」を意味する。だからこそ人類は、時に虚勢を張ってでも「自分は優れている」「役に立つ存在だ」と周囲に誇示することを生存戦略として身体に刻み込んできた。
「人より優れていなければ殺される」という強迫観念が生み出した優越の錯覚は、今も僕たちの中に深く根を張っている。 落語家の古今亭志ん生は、こんな言葉を残している。
他人の芸を見て、あいつは下手くそだなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。
同じくらいだと思ったら、かなり上。
うまいなあと感じたら、とてつもなく先に行っているもんだ。
実際の能力以上に自分を高く評価してしまうのは、人間に組み込まれた防衛本能なのだろう。
現代社会において、この「自分は有用だ」という証明書として使われているのが、「高学歴・高IQ・偏差値」というナラティブ(物語)だ。現代人は、「自分は知能が高く優れている」ということにしておかなければ、社会から殺されると思い込んでいる。
本来、「エリート」とはノブリス・オブリージュの精神に則り、高い報酬や誇りと引き換えに、真っ先にリスクや損を引き受ける役目であったはずだ。 しかし現代では、高学歴になって能力を認めさせた後、特に何のリスクも負わない。高学歴やエリートになりたいという願望は、単に他者より得をし、楽をし、尊敬を独占したいというだけの欲望へと成り下がってしまっている。
第3章:銃、明治維新、AI
だが、この「偏差値という武器」による優位性の誇示は、いま大きな転換期を迎えている。
産業革命以前の江戸時代を思い出してほしい。
武士の子息は幼少期から厳しく剣術や兵法を学び、身体的鍛錬を重ねなければならなかった。そうしなければ戦場で生き残れなかったからだ。 しかし、銃火器というテクノロジーの登場により、武士の武力と特権は無効化された。どれほど鍛錬を積んだ達人であっても、素人が放った一発の弾丸の前には勝てない時代が訪れたのだ。
明治維新による武士階級の解体は、こうした科学技術の進歩と無縁ではない。
現代の生成AIの台頭は、この「銃火器の登場」と同じではないだろうか。
幼少期から塾に通い、血の滲むような努力で積み上げてきたペーパーテスト的知能や暗記力は、AIに対するたった1行のプロンプトによって容易に相対化され、平準化してしまう。
この先、武家社会が解体されたように、偏差値エリートの社会も解体されていくのかもしれない。 近代兵器を持つ新政府軍と武士団が衝突した幕末の内戦のように、これからは「旧来のエリート」と「彼らから抑圧されてきた人々」との間で、ナラティブの衝突が起きていくのだろうか。もう既に起こっているさまざまなことがそれなのかもしれない。
第4章:「ちいかわ」と「みいちゃん」
『ちいかわ』と『みいちゃんと山田さん』という2つの作品から、現代人のきわめて身勝手なナラティブの受容形態が浮かび上がってくる。
前述の通り、ネット上では女子枠を「みいちゃん枠」と呼び、気に入らない女性を「みいちゃん」と揶揄することがある。作中の「みいちゃん」は知的な困難を抱えていることが示唆され、過酷な現実を生きている。
しかし、よく見れば『ちいかわ』の主人公たちも「まともな言語を発せず」「過酷な環境で生きる貧困弱者」であるという点では全く同じだ。
それにもかかわらず、人々は『ちいかわ』に対しては「格差社会を生きる自分たちの姿」として喜んで自己同調(自認)する。その一方で、現実の制度や隣の席に現れる「みいちゃん」に対しては、蔑称を貼り、猛烈に排除しようとする。
『ちいかわ』はファンタジーだが、『みいちゃんと山田さん』は現実の歌舞伎町や新宿を描いているから不快なのだ、という意見もあるだろう。ではなぜ、現実に近いとダメなのか。 それは、「現実の弱者」は自分の利害や立場を脅かすからだ。
フィクションの中の「安全な悲惨」は愛おしい自分として消費するが、自分のパイを脅かすかもしれない「現実の弱者」は冷酷に叩き潰す。過酷な現実を描く2つの作品に向けられるこの二重基準こそが、僕たちの抱える歪みに思える。
終章:これからの生存戦略
いつの時代も、ポップカルチャーは時代の「現実」であり「理想」を描いていた。
『サザエさん』では大家族が仲良く暮らす理想が描かれたが、現実の戦後日本には家父長制の確執が満ちていた。
『ドラえもん』は未来への夢を描いたが、同時代には公害や環境破壊など科学への不信が広がっていた。
『クレヨンしんちゃん』はバブル期の郊外住宅地の豊かな暮らしを描いたが、バブル崩壊後にあの生活を維持できた人がどれほどいただろうか。
では、令和の『ちいかわ』が提示する現実と理想とは何だろうか。
作中のちいかわたちは、資格試験や討伐(過酷な労働)に追われ、そこから抜け出すことはできない。「でかつよ」になるリスクはあっても、支配階層である「鎧さん」にはなれない(そう考えると「でかつよ」とは無敵の人のメタファーのようでもある)。
彼らは、美味しいラーメンを食べたり、星空を眺めたりという「小さな幸せ」を分け合って生きている。
もし『ちいかわ』が現代の幸福のメタファーなのだとすれば、それは「上昇志向の物語はすでに破綻した」という現実を告げている。
かつて武士が刀を置かざるを得なかったように、僕たちも「学歴という武器」を置く時期に来ているのではないだろうか。
ペーパーテストの学力で他者より優位に立ち、自分だけが得をするという成功モデルを手放す時が来ている。
「他人より優れていなければ殺される」という太古の生存本能に振り回され、女子枠や「みいちゃん」を叩くのは、あまりにもダサい。どうせ近い将来AIに平準化されるような数値の高さを競い合い、パイを奪い合うためにエリートを目指すのはもうやめたい。もし能力に恵まれたのなら、それを社会へ差し出すノブリス・オブリージュを心がけるべきだ。
人類が洞窟で暮らしていた頃から続けてきた「誰が優れているか」という階級競争は、そろそろ終わりにしてもいいはずだ。
同じ洞窟で暮らすにしても、ハチワレのように目の前の小さな成果や日常のささやかな幸せを分け合って暮らす。そんな生き方を目指してもいいのではないか。
「自分は特別で、何者かにならなければならない」という呪縛から解放され、過酷な世界を『ちいかわ』たちのように生きたい。『ちいかわ』を愛読している人たちは、同じようなことを考えているのではないだろうか。
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