私は口が固いのではない。だいたい覚えていないだけだ | エッセイ
——誰かの感情を、家まで持ち帰らなくなるまで
私は時々、
「けいさんって、口固いよな」
と言われる。
人から聞いた話を、ほかの人にほとんど話さないかららしい。
たしかに、誰かの相談や職場の愚痴を、別の人に言いふらすことはない。
というより、だいたい覚えていなかったりする。
以前、職場の人から、
「さっき、あの人と何の話してたん?」
と聞かれたことがあった。
私は少し考えてから答えた。
「なんか、いろいろあるみたい(笑)」
「何が?」
「そこまでは分からん(笑)」
けっこう長い時間、話していたはずだった。
何の話をしていたかは、だいたい分かる。
誰かに腹を立てていて、仕事のことで困っていて、いろいろ言いたいことがある。
けれど、「誰が何を言って、その前に何があって、別の人がどうしたのか」と聞かれると、ほとんど出てこない。
本でいえば、タイトルと目次だけは理解している。
本文は、だいたい保存されていない。
*
私は、人の話を最初から聞き流しているわけではない。
何が起きたのか。
この人は何に困っているのか。
結局、どうしたいのか。
そこまでは、ちゃんと聞こうとしている。
けれど、一つの話の中に枝葉が増えてくると、だんだんついていけなくなる。
「それで〇〇さんがこう言って」
「その前にもこんなことがあって」
「あの人、前からそういうところがあって」
「そういえば、別の人も前に……」
話が過去へ戻り、別の人が登場し、そこからまた新しい話が始まる。
たぶん私は、一小節が長すぎるとあかんのだと思う。
話の区切りが見えなくなると、目の前にいる人の声が少しずつ遠くなっていく。
口が動いているのは見える。相槌も返している。
けれど声は、長い廊下の向こう側から聞こえてくるようになる。
その代わり、帰ってからしなければいけないことや、犬のこと、晩ごはんのことが、頭の手前に浮かんでくる。
腹を立てているわけでも、聞きたくないと強く思っているわけでもない。
ただ、聞こえなくなっていく。
だから突然、
「けいさんは、これどう思う?」
と聞かれると、少し焦る。
真剣な相談なら、
「ちょっと待って。まず、〇〇があったってこと?」
「それは今の話? 前の話?」
「結局、いちばん困ってるのはどこ?」
と、一つずつ聞き返す。
話を小さく区切れば、遠くへ行っていた声が、また少し近くなる。
*
この感覚は、子どもの頃にもあった。
私は長い時間、母の話を聞いていた。
母がつらかったこと。
腹を立てた相手のこと。
自分がどれだけ我慢してきたかという話。
内容は、年がら年中だいたい同じだった。
短くても半日。長い時には、数日続くこともあった。
途中で分からなくなって聞き返すと、そこからさらに枝葉が増えた。
説明のために別の人が登場し、その人の話をするために、また昔の出来事へ戻る。
だから私は、分からなくなっても聞き返さなくなった。
「もう聞きたくない」
「その話、さっきも聞いた」
そんなことを言えば、母は怒り、泣き、寝込み、「誰も私のことを分かってくれない」と私を責めた。
そして話は、たぶんもっと長くなった。
当時の私は未成年で、母の話が終わらなくても、別の家へ帰ることはできなかった。
その家で暮らし続けるしかなかった。
だから身体だけをそこに置いているうちに、母の声は少しずつ遠くなっていった。
返事はしている。声が大きくなれば反応もする。
けれど、細かい内容はほとんど残らなかった。
それでも話が終わったあとは、ものすごく疲れていた。
やっと終わったという解放感はあるのに、すっきりはしない。
私の時間を奪われた苛立ち。
また同じ話を聞かされたうんざり。
子どもの私が、母の感情を介護しなければならない理不尽さ。
本文は消えているのに、嫌な読後感だけが身体に残っていた。
*
今のパートナーも、毎日のように職場の愚痴を言う。
しかも、めっちゃ長い。
そして、よくループする。
付き合い始めた頃、私はそれを相談だと思っていた。
だから真剣に考えて、
「それなら、こうしたらいいんちゃう?」
と返していた。
すると、
「そうやねん。でもな」
「それは分かってるけど」
「だって、あの人がさ」
と、また元の場所へ戻っていく。
何を返しても、「でも」で最初に戻る。
しばらくして私は、ようやく気づいた。
これはまだ、答えを返す時間ではない。
本人の中では、ある程度しゃべらなければ気が済まないらしい。
最近は、話が何周目かに入ると、途中から声が遠くなる。
するとパートナーに、
「聞いてる?」
と聞かれる。
「聞いてない」
「なんでやねん」
「だって、長いねんもん。同じことばっかり言ってるし」
そう言うと、時々拗ねる。
けれど私は、そのまま放っておく。
しばらくテレビでも見ていたら、本人は拗ねていたことを忘れて、普通に戻っている。
私が一生懸命なだめなくても、パートナーの機嫌は、だいたいテレビが直してくれる。
それでも話が続く時は、一通り聞いてから、
「それは人が悪いんじゃなくて、会社の仕組みの問題やね」
と返して、話を終わらせる。
*
声が遠くなること自体は、昔も今も変わっていない。
ただ昔は、母の言葉を遠ざけても、疲れや苛立ち、母の感情までは遠ざけられなかった。
今は、相手が拗ねても放っておける。
誰かの不機嫌は、私が世話をしなくても終わることがあると知ったからだ。
子どもの頃は、母の機嫌を損ねても、その家から出ていくことができなかった。
でも今は、最悪、それで相手が嫌になって離れていっても、私は死なない。
だから、聞く必要のある話には、自分から「ちょっと待って」と言える。
ただ感情を吐き出している時間なら、全部を抱えず、その場に置いて帰れる。
私は口が固いのではない。
人の話を一冊まるごと保管していないだけだ。
私の中に残るのは、だいたいタイトルと目次だけ。
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