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私は口が固いのではない。だいたい覚えていないだけだ | エッセイ

——誰かの感情を、家まで持ち帰らなくなるまで

私は時々、

「けいさんって、口固いよな」

と言われる。

人から聞いた話を、ほかの人にほとんど話さないかららしい。

たしかに、誰かの相談や職場の愚痴を、別の人に言いふらすことはない。

というより、だいたい覚えていなかったりする。

以前、職場の人から、

「さっき、あの人と何の話してたん?」

と聞かれたことがあった。

私は少し考えてから答えた。

「なんか、いろいろあるみたい(笑)」

「何が?」

「そこまでは分からん(笑)」

けっこう長い時間、話していたはずだった。

何の話をしていたかは、だいたい分かる。

誰かに腹を立てていて、仕事のことで困っていて、いろいろ言いたいことがある。

けれど、「誰が何を言って、その前に何があって、別の人がどうしたのか」と聞かれると、ほとんど出てこない。

本でいえば、タイトルと目次だけは理解している。

本文は、だいたい保存されていない。

私は、人の話を最初から聞き流しているわけではない。

何が起きたのか。

この人は何に困っているのか。

結局、どうしたいのか。

そこまでは、ちゃんと聞こうとしている。

けれど、一つの話の中に枝葉が増えてくると、だんだんついていけなくなる。

「それで〇〇さんがこう言って」

「その前にもこんなことがあって」

「あの人、前からそういうところがあって」

「そういえば、別の人も前に……」

話が過去へ戻り、別の人が登場し、そこからまた新しい話が始まる。

たぶん私は、一小節が長すぎるとあかんのだと思う。

話の区切りが見えなくなると、目の前にいる人の声が少しずつ遠くなっていく。

口が動いているのは見える。相槌も返している。

けれど声は、長い廊下の向こう側から聞こえてくるようになる。

その代わり、帰ってからしなければいけないことや、犬のこと、晩ごはんのことが、頭の手前に浮かんでくる。

腹を立てているわけでも、聞きたくないと強く思っているわけでもない。

ただ、聞こえなくなっていく。

だから突然、

「けいさんは、これどう思う?」

と聞かれると、少し焦る。

真剣な相談なら、

「ちょっと待って。まず、〇〇があったってこと?」

「それは今の話? 前の話?」

「結局、いちばん困ってるのはどこ?」

と、一つずつ聞き返す。

話を小さく区切れば、遠くへ行っていた声が、また少し近くなる。

この感覚は、子どもの頃にもあった。

私は長い時間、母の話を聞いていた。

母がつらかったこと。

腹を立てた相手のこと。

自分がどれだけ我慢してきたかという話。

内容は、年がら年中だいたい同じだった。

短くても半日。長い時には、数日続くこともあった。

途中で分からなくなって聞き返すと、そこからさらに枝葉が増えた。

説明のために別の人が登場し、その人の話をするために、また昔の出来事へ戻る。

だから私は、分からなくなっても聞き返さなくなった。

「もう聞きたくない」

「その話、さっきも聞いた」

そんなことを言えば、母は怒り、泣き、寝込み、「誰も私のことを分かってくれない」と私を責めた。

そして話は、たぶんもっと長くなった。

当時の私は未成年で、母の話が終わらなくても、別の家へ帰ることはできなかった。

その家で暮らし続けるしかなかった。

だから身体だけをそこに置いているうちに、母の声は少しずつ遠くなっていった。

返事はしている。声が大きくなれば反応もする。

けれど、細かい内容はほとんど残らなかった。

それでも話が終わったあとは、ものすごく疲れていた。

やっと終わったという解放感はあるのに、すっきりはしない。

私の時間を奪われた苛立ち。

また同じ話を聞かされたうんざり。

子どもの私が、母の感情を介護しなければならない理不尽さ。

本文は消えているのに、嫌な読後感だけが身体に残っていた。

今のパートナーも、毎日のように職場の愚痴を言う。

しかも、めっちゃ長い。

そして、よくループする。

付き合い始めた頃、私はそれを相談だと思っていた。

だから真剣に考えて、

「それなら、こうしたらいいんちゃう?」

と返していた。

すると、

「そうやねん。でもな」

「それは分かってるけど」

「だって、あの人がさ」

と、また元の場所へ戻っていく。

何を返しても、「でも」で最初に戻る。

しばらくして私は、ようやく気づいた。

これはまだ、答えを返す時間ではない。

本人の中では、ある程度しゃべらなければ気が済まないらしい。

最近は、話が何周目かに入ると、途中から声が遠くなる。

するとパートナーに、

「聞いてる?」

と聞かれる。

「聞いてない」

「なんでやねん」

「だって、長いねんもん。同じことばっかり言ってるし」

そう言うと、時々拗ねる。

けれど私は、そのまま放っておく。

しばらくテレビでも見ていたら、本人は拗ねていたことを忘れて、普通に戻っている。

私が一生懸命なだめなくても、パートナーの機嫌は、だいたいテレビが直してくれる。

それでも話が続く時は、一通り聞いてから、

「それは人が悪いんじゃなくて、会社の仕組みの問題やね」

と返して、話を終わらせる。

声が遠くなること自体は、昔も今も変わっていない。

ただ昔は、母の言葉を遠ざけても、疲れや苛立ち、母の感情までは遠ざけられなかった。

今は、相手が拗ねても放っておける。

誰かの不機嫌は、私が世話をしなくても終わることがあると知ったからだ。

子どもの頃は、母の機嫌を損ねても、その家から出ていくことができなかった。

でも今は、最悪、それで相手が嫌になって離れていっても、私は死なない。

だから、聞く必要のある話には、自分から「ちょっと待って」と言える。

ただ感情を吐き出している時間なら、全部を抱えず、その場に置いて帰れる。

私は口が固いのではない。

人の話を一冊まるごと保管していないだけだ。

私の中に残るのは、だいたいタイトルと目次だけ。





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