「普通」だと思っていたら、僕は誰よりもひねくれ者だった
雑談の途中で、頭の中に浮かぶのはいつも同じことだ。
「それ、本当に大丈夫?」
「〇〇って知ってます?」
「そこ、直したほうがいいですよ」
誰かが何気なく話しかけてきても、返す言葉は批判か指摘にしかならない。単純に「そうなんですね」で終われる人が、心底うらやましい。自分では長らく「普通の会社員」のつもりだった。でもどうやら、そう思いたいだけの、かなりのひねくれ者らしい。
そのことに気づかせてくれたのが、直木賞作家・小川哲さんの初エッセイ集『斜め45度の処世術』だった。
タイトルに「遺憾である」と書く著者
本書の導入がいい。著者はまず、このタイトルに対して「きわめて遺憾である」と書く。自分ではずっと「普通」のつもりで生きてきたのに、小説家として考えを文章にすると、周りから「変わっている」「ひねくれ者」と言われるようになった。担当編集者から「斜め45度」という言葉を提案されたとき、著者は葛藤する。斜めなのは自分ではなく、世界の側ではないか、と。
最終的に著者が納得した理屈はこうだ。「世間の常識」と「自分の常識」が垂直に交わっているとしたら、その中間、45度くらいの角度が、自分が世界を見ている角度なのだと。
このくだりを読んで、電車の中で思わず苦笑いした。僕にも、似たような角度がある気がしたからだ。
起き上がる回数が、一回多い
本書は15度、30度、45度という角度別に章が分かれ、身近な違和感を独自の哲学で切っていく。中でも一番くすぐられたのが、「『七転び八起き』は数が合わない」という章。
著者は子供の頃から、世の中の辻褄が合わないことを見過ごせない性格だったという。漢字の「右」は「右手で神に捧げる器を持つ様子」が成り立ちだと教わったのに、腕を表す部分が左側から書き始められている。おかしいじゃないか、と。
同じように、「七転び八起き」にも著者は引っかかる。7回転んだなら、起き上がるのも7回のはずなのに、なぜ8回起き上がるのか。数が合わない。周りの大人に聞いても、まともに答えてくれる人はいなかった。「そんなこと気にするのはお前だけだ」と突き放されたことで、著者は子供心に大人を信頼しなくなっていったらしい。
そして最大の謎が、野球の「ストライク」と「ボール」だった。ストライクは「打つ」という動詞なのに、ボールは「球」という名詞。野球はそもそもボールを使う競技なのに、悪球だけを「ボール」と呼ぶ。この矛盾に、野球部の友人も大人たちも誰一人気づいていなかった。
著者は自分で調べる。すると、そこには野球のルールが変わってきた歴史があった。初期の野球は、バッターが気に入る球が来るまで打たないせいで試合が長引いてしまい、「正当なゾーンに来た球は3球以内に打て」というルールができた。審判が「打て(Strike)!」と命令した声が、そのまま用語になった。ストライクのルールができると、今度はピッチャーがゾーンのギリギリを狙って時間を稼ぐようになる。それに対抗して、不当な球を「アンフェア・ボール」と呼ぶルールができ、それが略されて「ボール」になった。
僕がこの章に一番くすぐられたのは、たぶん自分にも身に覚えがあるからだ。誰かの話を聞いていて「それ、本当にそうなんだっけ」と裏を取りたくなる癖。それを人は「面倒くさいやつ」と呼ぶ。
プロットのない小説と、プロットのない20歳
本書のもう一つの核が、「人生に完璧な計画書(プロット)は必要ない」という章だ。
著者は小説を書くとき、あえてプロットを作らない。理由が面白い。自分を「凡人」だと定義した上で、凡人が構想段階で思いつくアイデアなど、たかが知れていると言い切る。だからこそ、あらかじめ決めた型に縛られず、執筆の過程で生まれる「今の自分には思いもよらない場所」へ行くことに価値を見出す。
最初から優れたアイデアが思いつかないのであれば、予期せぬ変化を受け入れる準備をしておけばいい。
このくだりを読んで、20歳の自分を思い出した。
当時の僕は、街でキャッチをかけられた。声をかけてきたのは可愛い女の子で、後日ファミレスで会う約束をした。ファミレスに着くと、いつの間にか担当が男に代わっていて、気づけば英会話教室のローン契約書にサインしていた。2〜3年は返済が続くくらいの金額。相場も調べなかった。バイト先の社員には「絶対騙されている」と言われたが、なぜか根拠のない自信があった。
結局、通ったのは3回程度だった。外国人講師と生徒5人のグループレッスン。それだけで、何年分ものローンだけが手元に残った。
今この話を思い出すと、素直に「呆れる」。計画性のかけらもない、20歳。
採点は、死ぬまでお預け
本書には、こんな一文がある。
「コスパ・タイパがいいか悪いか——そんなものは、死ぬ最期の瞬間までわからない」
本を読んでも、「この本、役に立ったのか」とその場で採点したくなる。だが著者は、人生のコスパはその場では判定できないと言う。
あのローンは、契約したその瞬間は、どこからどう見ても「失敗」でしかなかった。今でも「失敗だった」という評価自体は変わらない。ただ、その失敗を振り返ると「あのとき僕は、自分で自分を騙していたんだな」ということには気づける。少なくとも、こうして文章にできる程度には。
僕はいま、noteで書評を書いたり、副業的な発信を続けたりしている。最初から緻密な計画があってここまで来たわけではない。友人に勧められて始めたことが、気づけば毎日続けるものになっていた。
黒歴史がないほうが、問題らしい
「『黒歴史』がない人間は、学生時代から人格的にも成長していない人間だ」
普通なら「過去の失敗を反省しましょう」となるところを、著者はひっくり返す。恥ずかしいと思えること自体が、今の自分が成長した証拠なのだと。
あの英会話ローンの一件は、僕にとって長らく封印していた話だった。人に話すことも、文章にすることもなかった。でも、こうして書けている時点で、少しは変わったのかもしれない。変わったかどうか、正直まだよくわからないけれど。
AIには、3回で通わなくなることができない
本書の終盤、著者は人間とAIの違いにも触れている。
「僕たちが間違えるのは、僕たちが人間だからで、人間としての価値をAIが代替することはできないのだ」
AIは効率的にコンテンツを作れる。でも人間が作品に感動するのは、その背後にある作家の苦悩や失敗、限られた寿命という「外側の物語」を同時に体験しているから。著者はそう分析する。
不完全で、効率が悪くて、計画通りにいかないこと。著者はそこにこそ人間の価値があると言う。あの英会話教室のローンも、そう言われると、少しだけ扱いに困る。
こんな人に読んでほしい
- 自分を「普通」だと思い込んでいるが、実はどこかひねくれている自覚がある人
- 過去の失敗や黒歴史を、いまだに封印している人
- 「この経験、コスパ悪かったな」と今も引きずっているものがある人
- 世間の当たり前に、たまに引っかかってしまう人
「感謝人狼」というふざけ方
最後に、この本のいちばんふざけたところも書いておきたい。普通、あとがきは関係者への感謝が並んで読み飛ばされがちだ。著者はそこに「感謝人狼」というゲームを仕掛ける。エントリーは5人。自分、読者、担当編集、両親、架空の人物。その中に、嘘の感謝——つまり「人狼」を1人だけ紛れ込ませる。
正体は担当編集だった。理由は、著者は一度も締切を破ったことがなく、励まされたこともないから。書かれている感謝の内容そのものが嘘だった、というオチだ。
最後の最後まで、ひねくれ者としてのスタイルを崩さない。この人はきっと、あとがきすら「普通」に書けないのだろう。
そういう人が書いた本を、僕のような、雑談で批判しか思いつかない人間が読んで、妙に安心している。
あのローンが、いつか何かの役に立つ日が来るのかどうか。それは、まだわからない。

