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ゲームが歴史を変えた日——MSXという「最強のホビーコンピューター」がファミリーコンピューターに蹴散らされた本当の理由

 ASCIIのことを書いたからにはMSXについて語らなければならないだろう。
 前提として書かなければならないのは1980代当時、パソコンというものはOSによる互換性がなかった。
 そのため8ビットパソコンはNECのPC88シリーズ、SHARPのX1シリーズとMZシリーズ、富士通のFM7シリーズといった「御三家」と言われる家庭用パソコン市場を争っており、それは16bitでも圧倒的にオフィスPCとしてPC98シリーズが圧倒的なシェアを持っていたものの、それでも互いに互換性はなかったのである。
 下手をすればX1シリーズの中でさえ、X1シリーズでは遊べた『イース』が、『イース2』ではX1Turbo以降でないと遊べず、当時X1Fユーザーであった私は涙したという苦渋の記憶があったりする。
 そうした背景から、「ホビーPCの汎用機」として華々しく登場したのがMSXというアーキテクチャーであり、それを提唱したのがASCIIの社長であった西和彦であった。
 しかし、それはファミリーコンピューターの登場によって無惨に蹴散らされるのだが、それについて語っておきたいと思う。
 MSXとファミリーコンピューターについて。
 後世からの目線で語られるとき、この二つの対決はしばしば「ゲーム機戦争」として語られる。しかし実態は、そんなものではなかったのだと私は思っている。
 あれは「1980年代の親世代の教育熱と、その財布をめぐる戦争」だった。


1983年という年に何が起きていたか

 1983年というのは、日本のコンピュータ産業史において異常に濃密な年だ。

 6月16日、ASCIIとMicrosoftが共同でMSX規格を発表した。
 翌7月15日、任天堂がファミリーコンピューターを発売した。この二つの出来事はほぼ同時に起きている。

 MSXとは何だったか?
 松下電器・ソニー・日立・東芝・三菱・三洋・富士通・日本ビクター・パイオニア・京セラ・キヤノン・ヤマハ・カシオという錚々たる家電・電機メーカーが参加した、8ビット家庭用パソコンの統一規格だ。
 構想を立案し、各社との交渉を主導したのはASCIIの創業者・西和彦で、技術基盤としてMicrosoftがMS-BASIC 4.5を提供した。「VHSのようなパソコンの世界標準を作る」という構想だった。
 そう「8bit世界標準機」を見据えた構想だったのだ。

 規格に統一性があれば、あるメーカーのMSXで動くソフトはすべてのMSXで動く。
 どのメーカーが作っても「同じBASICが走り、同じカートリッジが使える」という互換性保証が、この規格の核心だった。
 さらにソフトウェアの開発・流通にはロイヤリティを課さないことを当初から決めており(孫正義との10日間の交渉の末に確定した)、ソフト産業の参入障壁も低かった。

 参加メーカーは日本の家電業界の「全員参加」と呼んでもいいくらいの陣容だった。
 今とは違い当時の松下電器やSONYなど「日本の家電メーカー」のブランド力は圧倒的であり、まさに時代のメインプレイヤーで合ったことも忘れてはならないだろう。それはまさに巨人たちの同盟だったし、テレビのニュースやメディアでも華々しく取り上げられたのも当然だったのだ。
 後にMicrosoftは当時からMS-DOSによって世界のOSの覇権を握ろうとしていた時期だったし、彼らはWindowsでそれに成功する。
 ASCIIは日本最大のパソコン雑誌媒体として君臨し、1990年代まではテック系とゲーム系雑誌の最大手として君臨している。
 この二者が組み、国内外の一流メーカーを巻き込んで作った規格が、なぜ失速したのか。

 その答えは「ファミコンが偉大すぎた」というひと言に尽きるのだが、それだけでは何も説明したことにならない。
 なぜファミコンがここまで偉大だったのかを理解するには、当時の「IT前夜」という社会的文脈を理解しなければならない。


1982年という前史——テレビが「コンピューター教育」を説いた

 MSXが登場する1年前の1982年、日本のテレビには奇妙な番組が溢れていた。

 NHK教育テレビの「趣味講座」枠で、1982年4月から『マイコン入門』が始まった。講師は東京大学名誉教授・森口繁一で、全26回の放送だった。
 番組で使用するパソコンは商品名を出せないため銘板をマスクして「機種X」と呼んだ。番組テキストは約30万部売れた。

 同じ時期、テレビ大阪制作でテレビ東京系列に『パソコンサンデー』が誕生した(1982年3月7日〜1989年6月25日)。
 シャープ一社提供で、登場機種はすべてシャープ製、司会は小倉智昭。毎週日曜の朝に全国に流れ続けたこの番組のテキストも約18万部を販売した。

 そのほかにも富士通提供の『なんでもコンピュート』(テレビ東京系)、NHKの科学ドキュメント『マイコン革命の旗手たち』(1981年)、『ルポルタージュにっぽん マイコン頭脳買います』(1983年)と、テレビメディアは競うように「マイコン」と「コンピューター教育」の話題を流し続けた。

 こうした番組の影響を調査した研究がある。札幌学院大学の鈴木真奈による「1980年代前半におけるテレビメディアの『マイコン』解釈」(社会情報学会、2016年)だ。
 当時の記録によれば「多くの日本人が1980年代前半に『マイコン』を『パソコン』とほぼ同義として受け取っていた」こと、「若年層ユーザーが当時注目されていた」ことが実証されている。
 ある番組の司会者が「誕生祝いにパソコン、入学祝いにパソコン」と言っていたのも記録されており、子供へのコンピューター購入が一種の「教育投資」として語られていた空気が伝わる。

 1983年の当時、オフィスオートメーション(OA)化の波もあった。
 大企業のオフィスに次々とパソコンが導入され、NEC PC-9801(1982年発売、同シリーズ累計は後に国内シェア9割超)がビジネス機のスタンダードになりつつあった。
「これからはコンピューターが使えないとビジネスでも生き残れない」という言説は、1980年代の日本で急速に広まっていた。
 実際、この時期から工場やオフィスの電子化を進めていたことが1990年代から2000年代の日本のIT産業の基幹を支えていたし、恐ろしいことだがバブル崩壊後の不況によって多くの中小企業の工場機械や制御系が未だにこの時代のものが使われていたりする。
 少し前に「下町ロケット」など「日本の中小企業の技術力」がもてはやされていた時代があったが、その多くはこの時代に電子化されたことによって2000年代以降も技術と品質を維持できたのである。

 そういう空気の中で、親世代は考えていた。
「子供にコンピューターを与えなければ」と。


MSXはその空気を正確に読んでいた

 MSXが狙っていたのはまさにその需要だった。
「テレビに接続できるホビーパソコン」という位置づけは、高価な業務用パソコン(NEC PC-9801で約30万円、PC-6001でも約8万円)を買う必要なく、家のテレビにつなぐだけでコンピューターに触れられるという提案だった。
 キーボードがある。BASICが走る。プログラムが書ける。
「コンピューター教育の第一歩」として、これ以上明快な商品コンセプトはなかった。

 西和彦がMSXについてこんな発言をしている(4Gamer.net、2023年5月)。
「ファミコンのボタンを100万回押してもプログラミングはできないけど、パソコンのキーボードを1万回叩けばプログラムを作れる。なのに、昔はファミコンとMSXを比べられてね。『MSXはボロだ』とか『ポンコツだ』とか山ほど言われてねえ。辛かったよ」。

 この発言には、西の正直な悔しさが滲んでいる。MSXはゲーム機ではなくコンピューターだ、という矜持があった。
 しかし消費者はそう見てくれなかった、なぜか?

 参考までに同時代の競合機種・ぴゅう太(トミー、1982年発売)のことも触れておきたい。16ビットCPU(TMS9995)搭載、日本語BASIC(G-BASIC)内蔵という意欲的な仕様で、初年度目標約9万台・50億円を掲げた。
 しかし「ニイケ」(GOTO)「カケ」(PRINT)というひらがなBASICの命令体系は、他機種との互換性を欠き、かえって学習の役に立たなかった。価格も59,800円と高く、MSXのような家電メーカー連合の後ろ盾もなかった。1984年5月時点で国内・輸出合計12万台出荷と善戦したが、ファミコン登場後に急落し1985年2月に生産中止となった。
 ぴゅう太の失敗は、単独メーカーの努力では「コンピューター教育需要」を取り込む限界があったことを示している。その意味でMSXの「家電アベンジャーズ」的な規格戦略は、本来正しい方向性だったわけだ。


ファミコンの本当の強さ——画面の鮮明さという原始的な優位

 ファミリーコンピューター(1983年7月15日発売、14,800円)がなぜMSXに勝ったのか? 
 よく言われるのはゲームソフトの充実度だが、それは「結果」であって「原因」ではない。

 最初の優位は、画面だった。

 技術的な話をすると、MSXはテキサスインスツルメンツのTMS9918Aという汎用VDP(映像処理チップ)を使っていた。
 固定パレット15色+透明、スプライトは単色かつ横1ラインに最大4枚まで、ハードウェアスクロールなし。
 一方ファミコンはリコーが任天堂と共同開発したカスタムPPU(RP2C02)を搭載し、生成可能52色(同時発色25色)、スプライト64枚(横8枚)、ハードウェアによるスムーズなスクロールを実現していた。

 理屈はともかく、実際に家のテレビでファミコンの画面を見た当時の子供や親にとって、それはひと目で明らかな差だった。
「ファミコンの画面はキレイ」という直感は、数十万円のパソコンが普及していなかった当時の一般家庭には、とてもリアルな訴求力を持っていた。

 そして価格だ。
 ファミコンは14,800円
 MSXの最安モデルでさえ、1983年〜84年の初期には5万円前後が相場だった。教育色を打ち出したソニーHitBit HB-55は54,800円、松下のCF-2000も同価格帯。
 ファミコンはその約4分の1の価格で、より鮮明な画面を見せてくれた。

 さらにファミコンは発売当初から教育ソフトを揃えていた。『ドンキーコングJR.の算数遊び』(1983年12月、算数アクション)、『ポパイの英語遊び』(1983年)。
 本音はゲームが目的であっても、「算数ソフトもありますよ」「英語ソフトもありますよ」という存在感は、親が子供に買い与える際の「言い訳」として十分機能した。

 そして翌1984年6月、ダメ押しの一撃が来た。
『ファミリーベーシック』(14,800円)だ。任天堂・シャープ・ハドソン共同開発のこの周辺機器は、小型キーボードとBASIC言語をファミコンに追加するものだった。
 つまり「ゲームもできて、プログラムも書けて、教育にもなる」という三拍子が1万4,800円で揃った。MSXの主戦場だった「コンピューター教育」の土俵に、ファミコンが正面から乗り込んできたわけだ。
 後の「ゲーム機としての偉大さ」から蔭に隠れがちだが、「ファミコンブーム」になる前に「親の財布」を開かせるには「教育目的」というのは欠かせなかった。
 しかも、当時は第二次ベビーブームであり子供の絶対数は多く、バブル期直前の好景気が続き「未来は教育と技術があれば成功できる!」と、子供世代に託せる明るい希望に満ちていたのだ。


皮肉な構造——MSXが宣伝するほどファミコンが売れる

 ここに、きわめて皮肉な構造が生まれた。

 MSX陣営が「お子さんにホビーパソコンを与えてコンピューター教育の第一歩にしましょう」と訴えれば訴えるほど、「コンピューターを子供に買い与えよう」という親世代の需要が喚起された。
 NHKの『マイコン入門』も、テレビ東京系の『パソコンサンデー』も、富士通スポンサーの『なんでもコンピュート』も、MSX陣営が直接流していない番組まで含めて、「コンピューターの時代が来る」という言説を大量に垂れ流してくれていた。

 ところが肝心の親が店頭に立ったとき、目に入るのは「画面がきれいで、14,800円のファミリーコンピューター」と「画面がそれほどきれいではなく、5万円のMSX」だった。
 しかもファミコンには算数ソフトも英語ソフトもある。翌年にはBASICも使えるようになる。

 どちらを選ぶかは、正直なところ自明だっただろう。

 コンピューターゲームへの親世代の警戒感という要素もあった。
 1970年代末の『スペースインベーダー』ブームでゲームセンターへの不良化懸念が高まり、「テレビゲームはよくない」という論調は1983年当時も根強かった。ファミコンを「コンピューター教育のツール」として位置づけることは、ゲーム機を買い与えることへの後ろめたさを解消する意味でも、親心に響いた。
 任天堂が「ファミリーコンピューター」という名前をつけ、教育ソフトを揃え、『ファミリーベーシック』で「プログラミングも学べますよ」というた戦略的嗅覚は、この文脈で見ると途方もなく正確だったことがわかる。


数字が示す圧倒的な差

 実際の販売台数を見ると、その差は歴然としている。

 ファミコンの国内出荷は1983年に45万台、1984年に165万台、1985年に374万台、1986年に390万台(ピーク)と急伸し、最終的な国内累計は1,935万台に達した(情報メディア白書2003・任天堂データ)。
 海外を含めた全世界では6,191万台だ。

 一方MSXの国内販売台数は、発売2年強の1986年1月時点で累計100万台突破(1985年4月末時点の日経報道では68万台)。
 西和彦は著書『反省記』(ダイヤモンド社、2020年)で「MSXは日本で300万台、海外で100万台くらい売れたと思う」と回想している。別の資料では全世界500万台超ともある。

 ファミコン1983〜86年の国内出荷だけで約974万台。
 MSXの国内累計(推定300万台)とほぼ3倍の差がある。しかも発売年が重なっているのだから、同じ購買層をほぼ同じ時期に争っていたことになる。

 カシオが1984年10月にPV-7(RAM 8KB、MSX規格最低仕様)を29,800円で投入したことで、MSX陣営内部での価格競争が激化し、利益が出なくなったという事情もある。
 西和彦は後年こう言っている——「カシオの値下げで他社のMSXはほとんど死んだ。『あ〜あ』と思った」。


MSXは「失敗したアーキテクチャ」ではなかった

 ここで少し立ち止まりたいのだが、私はMSXを「失敗」と断言するのは正確ではないと思っている。

 MSXの設計思想は、1983年の文脈においては極めて合理的だった。
 統一規格による互換性確保、ソフトのロイヤリティフリー化、国内外の主要家電メーカーを巻き込んだ陣営形成、パソコン雑誌最大手のアスキーが『MSXマガジン』(1983年10月創刊)という専用媒体を立ち上げてユーザーサポートを担うという体制。
 今の目で見ても、これは「勝ち筋の高い」戦略だった。

 実際、コナミはMSX向けに『グラディウス』(1986年、メガROM使用)、『ツインビー』、そして『メタルギア』(1987年、MSX2向け)を開発した。日本ファルコムの『ドラゴンスレイヤー』シリーズ、ハドソンの各タイトルも展開された。
 MSXの全世界での普及台数(西の証言ベースで日本300万台、海外100万台。別資料では世界500万台超)は、一つのプラットフォームとして決して小さくない数字だ。

 スペインでは日本に次ぐ第2位のMSX市場が形成され、オランダは欧州最大の市場になった。
 韓国・ブラジル・アルゼンチン・キューバ・中東にまで普及し、ソ連ではヤマハのMSXが教育ネットワークに採用された(ミール宇宙ステーションではソニーのHB-F900が実際に使用されたという記録まである)。
「世界標準」にはなれなかったが、グローバルに見ると相当な影響力を持ったプラットフォームではあった。

 また、MSX2(1985年)、MSX2+(1988年)、MSXturboR(1990年)と規格が世代を重ね、最後はパナソニックのFS-A1GTの製造中止(1994年)まで続いた。
 ゲーム機の平均寿命を大幅に超える11年間、規格として生き延びたことも軽視すべきではない。

 西和彦自身は『反省記』でMSXの失敗を認めた上で、その本質を二点に整理している。
 一つは「ポジショニングの問題」——16ビット機はIBMが覇権を握り、家庭用は任天堂ファミコンが圧倒するという板挟みで、8ビットの居場所がなくなった。
 もう一つは「コンピューターだけでは一家に一台にならない」——ネットワーク接続という発想が欠けていた、ということだ。

 これは「MSXが悪かった」のではなく、「MSXが狙った市場を、より安価でより高画質な別の商品に取られた」という話だ。
 アーキテクチャの失敗ではなく、競合相手がたまたま途方もなく偉大だった、という話でしかない。


ゲームが歴史を変えた瞬間

 世界に冠たる日本の家電メーカー連合と、後にOSの覇者となるマイクロソフト、パソコン雑誌最大手のアスキーという「最強の陣営」が、任天堂が産んだ14,800円のゲーム機に蹴散らされた。

 後世からの目線でこの出来事を振り返ると、「巨大化するゲーム産業の最初の爆発」として語られることが多い。
 しかし当時の視点で見ると、それは少しズレている。1983年の戦場は「ゲーム機市場」ではなく、「家庭に最初に入るテレビ接続型コンピューターの座」をめぐる争奪戦だった。
 そしてその争奪戦の勝敗を決めたのは、ゲームの面白さではなく、「教育熱心な親の財布」だった。

 ファミコンが勝ったのは、ゲームが面白かったからだけではない。「14,800円で買えて、テレビに映る画面がきれいで、算数と英語のソフトもあって、BASICも後で使える」という複合的な訴求が、1980年代のIT前夜における親世代の不安と教育熱に、見事に刺さったからだ。

 この分岐点がもたらした影響は大きかったと私は思う。
 MSXが「家庭の最初のコンピューター」の座を獲得していれば、日本の家庭でのBASIC教育は確実に普及したはずだ。
 子供のころにプログラミングを経験する人口が、まったく異なる規模で生まれていた可能性がある。
 実際、確かに日本のコンシューマーゲーム市場は1990年代から現在に至るまで、日本に大きな富をもたらしてきた。
 これは1995年頃の私がLOGINに在籍していた30年前からすでにあった不安だったのだが「PlayStationやサターンはすごいけど、げーむしかできない市場に未来はあるのだろうか?」という疑問があったし、これは私だけでなく当時のLOGIN編集部にも共有されていたし、それが斜陽化していく「パソコン雑誌としてのLOGIN」を支える微かなモチベーションであったと思う。
 実際、1990年代は莫大な富と文化をもたらした日本のコンシューマーゲームは、2000年代以降の「インターネット革命」に見事なまでに乗り遅れた。
 MMORPGは『ファイナルファンタジー11』と『ファイナルファンタジー14』と『ドラゴンクエストⅩ』などの旧来のIPの掘り起こしを除けば、韓国の『ラグナロクオンライン』や『リネージュ』、『黒い砂漠』などの後塵を拝し、世界的なFPSブームやネット対戦への対応も後手後手に回った。Steamのゲーム市場への参入も乗り遅れる。
 ソシャゲに至っては中国韓国のゲームの独擅場である。
 今になって「国産ゲーム産業の衰退」が嘆かれているが、正直言ってこれは「ゲームしかできないコンシューマーゲーム機」にプラットフォームを依存し続けてきたという産業構造自体の行き詰まりである。
 日本のIT産業が後に「ガラパゴス化」と批判されることになる一因の一つには、1983年に家庭に入ってきた「最初のコンピューター」がキーボードのないゲーム機だったという事実が、どこかで関係しているかもしれない。

 これが「仮定の話」にすぎないのはわかっている。
 ファミコンが普及したことで日本のゲーム産業は世界的な競争力を持つ産業に育ち、それはそれで歴史的な達成だった。
 どちらの歴史がよかったかを判断するのは、おそらく不可能だ。

 ただ、はっきり言えることがある。
 1983年7月15日、任天堂が14,800円のファミリーコンピューターを発売したその日、日本のコンピューター産業と教育の歴史は、静かに一本の分岐路を曲がった。その分岐を引き起こしたのはゲームだった。

 本当の意味で「ゲームが歴史を変えた」瞬間というのは、あの夏だったのだろうと思う。

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